『蒲団と達磨』とサンプル

岩松了の戯曲『蒲団と達磨』には人の出入りが多い。舞台となる和室にはその主である夫婦とその家族だけでなく、彼らの友人知人、果ては赤の他人であるバスの運転手や家政婦の恋人までもが登場する。蒲団が敷かれ、寝室として使われている和室にだ。ここに岩松と同じく九〇年代の「静かな演劇」ブームを担った平田オリザの作品の相違を見ることも出来るだろう。平田の作品の多くはそもそも人の出入りが多いパブリックスペースに舞台が設定されている。たとえば『東京ノート』の舞台は美術館のロビーだ。一方、『蒲団と達磨』の舞台は夫婦の寝室という極めて私的な空間であるにも関わらず人の出入りが多く、それがある種の気持ち悪さを生む。それは日本家屋という、もともと内外の境がはっきりしない場所のもたらす必然だ。夫婦の寝室はプライベートな性質を持ちつつ、空間としては開かれている。そのギャップが生じる軋みこそが『蒲団と達磨』のドラマツルギーなのだ。

サンプル・松井作品の多くは閉じられた空間で煮詰まっていく人間関係を描く。登場人物は比較的早い段階で出揃い、空間的な出入りはあっても物語から早々に退場することはない。一方、『蒲団と達磨』では舞台に最初からいたバスの運転手は作品半ばで姿を消し、夫の飲み友達は後半になってようやく登場する。妻の元夫はさらにその後、家政婦の恋人に至っては最後の最後に廊下を通りがかるだけだ。通り過ぎる人々。しかし部屋の中心には不動の万年床があり、その下には欲望が押し込められている。

日本家屋の「ゆるさ」は村社会の閉鎖性と裏腹なものとしてあった。閉じられた村だからこそ開かれる家。しかし現在、しばしばこれとは逆の状況が生じている。閉じられた部屋もまたその内部から容易に世界へと通じてしまうのだ。メルトダウン。密閉されたサンプルの中身が外界に触れる日も近い(かもしれない)。

SPAC『ハムレット』

登場人物を削り(ギルデンスターンもローゼンクランツも墓堀も登場しない)110分とコンパクトな宮城聰演出『ハムレット』。

韻を踏んだ、というかほぼダジャレのように連なる台詞でテンポよく進む喜劇調の前半は、それなりに楽しく見つつもあまり乗れず、しかしいつしかシリアスに転調しガートルードとの対話のあたりからはグッと引き込まれ……というような感想はこの作品のラストを見た瞬間にぶっ飛ぶことになる。

ラストで登場するフォーティンブラスは今作ではなんとマッカーサーに擬えられている。台詞は英語で発せられ、バックにはジャズが鳴り響く。フォーティンブラスの姿は見えないが、床に伸びるパイプを加え帽子を被った人物の影が、彼がマッカーサーであることを何よりも雄弁に語っている。「当然国民大多数の意もそれに従うわけです」。ホレーシオの最後の台詞の後には大量のチョコレートが舞台に降り注ぐ……。

ラストに至るまでに伏線があるわけでもなく、唐突な幕切れはあまりに不可解で(いや、もちろんそういう「読み」だというのは即座に了解できるのだけど)、正直に言って、作品全体のバランスを大きく損ねる余計な演出だと思った。

だが、釈然としないまま帰りのバスで考えたのは、バランスが悪くて何が問題なのか、ということだ。ここで言うバランスの悪さというのはラストとそこに至るまでの作品の結びつきのことを指すのだが、バランスが悪いと言っても全く意味が分からないということではなくて(敵国からやってくるフォーティンブラスをマッカーサーに擬えるのはアイディアとしてはむしろわかりやすい)、ようするに伏線がなく唐突に感じられたのが自分は「気に食わなかった」のである。しかし作品全体としての結びつきの緊密さは果たして必要なものか?

むしろ、幕切れがあまりに唐突だったがゆえに、作品を観終わった直後から自分の中では作品の振り返りと検討が開始されることになったのではないか?あのラストに結びつくような演出はなかったか。『ハムレット』のどの要素が第二次世界大戦直後の日本の状況と結びつき、それを重ねてみせることはどのような意味を持つのか。

ラストと他の部分との結びつきが緊密であったなら、このような検討は行なわれなかったのではないか。と書いてはみたものの、おそらくそれはそれで自分なりの検討はしたことだろう。だが明確に異なるだろうと思われるのは、その場合、提示された解釈の妥当性に対する検討が主になっただろうということだ。

つまり言いたいのは、ラストの唐突さが自分を『ハムレット』という作品の可能性の検討へと向かわせているのであって(フォーティンブラス=マッカーサーという「読み」を『ハムレット』という作品全体へと敷衍しようとすると、当然のことながら全てのピースがピタリと嵌まるわけではなく、だからこそ思考は広がっていく)、だとすれば、バランスが悪いことは必ずしも悪いことではないのではないか?

しかしフォーティンブラスがマッカーサーであるとは一体全体どういう意味を持つのか?宮城は当日パンフレットに次のように書いている。

この演出は、どうしてハムレットやその国民が、新しい統治者として、みずから進んで、敵国の若き王を迎えるのか?という疑問について考えているうちに生まれました。

 ちょうど七十年前の、第二次世界大戦直後の日本人を描いたジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)』が日本で出版されたとき、この「抱きしめて(embrace)」という語の用い方が絶妙であると賞賛されたものですが、ダワーはもしかしたら『ハムレット』を踏まえてこのタイトルをつけたのかもしれない、というところからの連想です。(『ハムレット』のエンディングでは、突然にこの国を統治することになった敵国の青年フォーティンブラスが、ちょうど敗戦直後の日本人と逆の立場で、"with sorrow I embrace my future"(悲しみに沈みながらも幸運を抱きしめる)と語ります。)

 「本当の父」などいない、と知ってしまった日本人は、あのときどうしたか? ひとまず、本当の父の代理を引き受けてくれる相手をみつけたかったのではないか?

 七十年前中学生だった僕自身の父親や伯父さんのあのころに思いを巡らしながら、そんなことを考えています。

 宮城演出の『ハムレット』には父王ハムレットは姿を見せない。父王の台詞はハムレットを演じる武石守正が口にし、父王はただ床に伸びる影として現われるのみだ。ラストに至る伏線がない、と書いたが、唯一、この影だけはラストとのつながりを担保している。父親は常に影としてのみある。自ら抱く父親の影に突き動かされるハムレットは装うまでもなくすでにして狂気であり、その狂気が敵国の若き王に自らの国を譲り渡す事態を招く。父の亡霊に取り憑かれた狂気。それは第二次世界大戦直後というよりもむしろ今の日本の姿ではないか……?

死を前にハムレットとレアティーズ、ハムレットとフォーティンブラスは互いに許し合う。だがその後に降り注ぐチョコレートはあまりに感じが悪くはないだろうか。"Give me chocolate!"の言葉を待たずして暴力的に降り注ぐチョコレート。現代の争いはチョコレートは与えても許しを与えようとはしない。

 

間瀬元朗『デモクラティア』1・2

 民意、あるいは世論とはいったい何だろうか。それは個々人の意見の集積でありながら、そうであるがゆえにどの個人の意見とも完全には一致しない。だがもし民意を体現する「個人」が存在したら?それは「人間よりも人間的に正しい」「究極の“ニンゲン”」なのではないか?

 物語は二人の男が出会うことで動き出す。情報通信工学専攻の前沢とロボット工学専攻の井熊。前沢は特殊な多数決プログラムを開発していた。単に最多数の案を採用するのではなく、提出された案の中から上位のもの(=多数意見)を三つと、逆に一人しか提出しなかった案(=単一意見)の中で提出の早かったものを二つの合計五つを並べ、その中から最終的に採用する案を多数決で決定するというプログラムだ。単一意見の中には「常識や前例にとらわれずに出てくる考え」や「“ひらめき”」があり、それらに採用の可能性を残すことで「より重層的な“多数決”が効率的に進められる」のだと言う。飲み会で前沢の話を聞いた井熊は、そのプログラムを自らの研究室で開発している人型=ヒューマノイドに搭載することを提案する。「不特定多数の人間が、ネットを介して総動員した無尽蔵の“知識”と“経験”と“モラル”」「それらをもとに“多数決”で最適な行動だけが選び抜かれ、そのとおりに動くヒトガタ」、それは「いつの日かその社会の中で、誰もが規範とする指導者的立場にさえのし上がってしまうかもしれない」という井熊の語りに魅せられた前沢は「究極の“ニンゲン”」創りに一歩を踏み出す。

 徳永舞と名付けられたヒトガタはデモクラティアというアプリを通じて3000人の参加者によってその行動を決定される。2巻までの1stシーズンで描かれるのは、デモクラティアが立ち上がり、参加者たちが舞の操作方法を学習し、そして外の世界へと出て行く、いわば舞と外の世界とのファーストコンタクトの顛末だ。参加者たちはデモクラティアに習熟するにつれ、徐々に自主的に行動するようになり、彼らの態度の変化はそのまま舞の「成長」としてアウトプットされる。そして舞は一人の青年・瀬野と出会う。

 貯め込んだ鬱屈を掲示板への書き込みで晴らそうとするオタクで派遣社員で「負け犬」の男・瀬野。現実がうまくいかない瀬野にとって、自分が立てたスレへの書き込みとその反響だけが自分の存在を保証してくれるものであった。だが、「この世は、リアルカーストだな」「勝ち組は全員処刑しろ」という彼の書き込みはネット上ではよくある類のものであり、それは個人の存在の保証にはなり得ない。デモクラティアの参加者たちにとっても、瀬野はネットの向こうにいる顔を持たない人物に過ぎなかっただろう。舞を通しての交流がなかったならば。

 舞と瀬野との交流は、デモクラティアの参加者たちが見知らぬ他人への想像力を獲得、いや、再起動させていくプロセスとしてある。デモクラティア上では舞の居場所や周辺情報を特定されないための方策として、固有名詞は現実にはあり得ない名前へと変換され、舞の目に映る視覚情報もまた画像処理が施されている。参加者同士はハンドルネームで交流する。顔は奪われているのだ。だが、顔を持たない人間など存在しない。デモクラティアの参加者たちは、舞との交流を介して瀬野という一人の人間のことを真剣に考えるようになっていく。

 顔を(再)獲得していくのはデモクラティア参加者にとっての瀬野だけではない。「民意の可視化」というアイディアはたとえば東浩紀の「一般意志2.0」を思わせるが、『デモクラティア』は民意という「声なき声」に舞という具体的な姿形=顔を与えることによって優れたドラマを生み出した。舞という実体を持つ「民意」は他の人間と接触し、直接に影響を与える。それは翻ってデモクラティアの参加者たちにも影響を与え、彼らを変えていくことになる。単一意見の採用というシステムもデモクラティアの参加者と舞の行動、そしてそれが引き起こす結果との結びつきを強めている。「民意」は、それがいかに不本意なものであったとしても、個人と、いや、私たちと無関係ではあり得ない。私たちにその実感はなくとも、何らかの具体的な結果をもたらし、誰かに直接的な影響を与えている。舞は私たちが手放してしまった民主主義の責任を実感するためのインターフェイスだ。

 2巻のラストで舞はある事件を起こし、より広い世界へと踏み出す。これから問われることになるのはおそらく、「民意」の罪だ。「民意」の罪は誰が引き受け、誰が罰を受けるのか。今の日本でこの問いはあまりに重い。

『インターステラー』

吹き荒れる砂嵐と疫病により不毛の地となりつつある地球。世界は深刻な食料危機に見舞われ、人類はゆっくりと、だが着実に滅亡への道を歩んでいた。かつてパイロット兼エンジニアだったクーパーは現在、トウモロコシを栽培している。今や食料問題は全てに優先するのだ。パイロットやエンジニアなどという職業は必要とされていない。空への欲求を抑えつつ、義父・娘・息子と暮らすクーパー。だがある日、娘であるマーフの部屋で不思議な現象が起きはじめる。ひとりでに棚から落ちる本や小物、そして部屋に吹き込んだ砂嵐が床に描いた不自然な筋。床に描かれた模様がバイナリ信号であることに気づいたクーパーはそれが示す場所を訪れる。そこで待ち受けていたのは極秘裏に建設されたNASAの基地であり、人類の新天地となる惑星を求める宇宙探索プロジェクトだった。宇宙船のパイロットとなることを要請されたクーパーは悩みながらもそれを引き受け、家族を残し宇宙へと飛び立っていく。

この映画で繰り返し描かれるのは時間の無慈悲さであり、過去は変えられないという厳然たる事実だ。いつ戻れるとも知れぬ宇宙探索への出発前、クーパーはマーフに「お前が今の父さんの年齢になるまでには帰ってくる」と約束するが、重力と移動の速度によって影響を受ける時間の流れは父と娘を決定的に隔ててしまう。水の惑星での半日にも満たぬ探索の間に、地球では20年もの時間が経過してしまっていたのだ。一方通行のムービーメッセージに映る、自分の年齢に追いついてしまったマーフ。約束は果たされなかった。物語の後半、クーパーは超人間的な存在に助けられる形で「5次元空間」に入り込み、あのときのマーフの部屋に至る。そこでクーパーが悟るのも「彼らは過去を変えさせようとしたんじゃない」ということだった。

さて、ならば私たちはどうするべきか?人類に活路を開くことになるクーパーの娘の名前がマーフという名前であることは示唆的だ。「マーフィーの法則」に引っ掛けて名前をからかわれたマーフは「どうしてこんな名前にしたのか」とクーパーに問う。それに対するクーパーの答はこうだ。「マーフィーの法則は何か悪いことが起きるってことじゃない。起き得ることは起きるってことだ。(Murphy’s law doesn’t mean something bad will happen. It means whatever can happen, will happen.)」

クーパーをNASAへと運んだメッセージが未来の自身からのメッセージだったように、土星近くに突如として出現したワームホールや「5次元空間」もまた未来の人類によるものだとクーパーは言う。「私たち」はつながっている。過去の「私」の先に現在の「私」があり、現在の「私」の先に未来の「私」がある。過去は変えられない。だが未来は未確定だ。「私」たちは現在を生きる他ない。可能性を絶やさぬために。

阿部和重 伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』

 物語はあるバーからはじまる。中年男に口説かれる若い女。彼女は男から情報を引き出そうとしている。東京大空襲の夜、東北は蔵王に墜落した一機のB29。ニックネームはチェリー・ザ・ホリゾンタル・キャット。地平線の猫、チェリー。B29はなぜ東北にいたのか。彼女の目的は何なのか。魅力的な謎を提示し時間は一年後へ飛ぶ。

 阿部和重伊坂幸太郎による「完全合作」(交互に1章ずつ書きながら互いの原稿にもかなり手を入れたとのこと)は超弩級のエンターテイメント大作となった。主人公は(作者と同じく)二人の男。相葉時之と井ノ原悠はかつて野球のチームメイトで「ここぞというときに不思議な力を発揮する、唯一無二のふたり組」だった。ある事件をきっかけに関係を絶っていた二人だが、違法なアルバイトのトラブルで相葉が逃げ込んだ先の映画館(のトイレ)でバッタリと再会してしまう。そして冒険がはじまる。

 公開目前でお蔵入りしたヒーロー映画『鳴神戦隊サンダーボルト』、蔵王周辺で発生する謎の伝染病・村上病、墜落したB29、そして宝の地図(?)の入ったスマートフォンとそれを追う銀髪の怪人(!)。ハリウッドばりの(しかし舞台は仙台と山形)道具立てでテンポよく進む物語はしかし、それなりにビターでシビアだ。「野球には逆転があるが、俺たちの生きている社会にはなかなかない」。相葉も井ノ原も人生の苦境に立たされている。だがそれでも生きていかなければならないし、何よりゲームセットがいつ訪れるかは誰にもわからないのだ。「走れ走れ、もっと走れ、力を抜くな。それは自分を叱咤する自らの声であり、同時に、少年野球の時のスパルタコーチの声だ。」相葉は、井ノ原は蔵王へと走る。

 過去は変えることができない。だが捉え方を変えることはできる。張り巡らせられた伏線=過去が回収されるとき、二人は人生の新たな一歩を踏み出すことになるだろう。その瞬間は走り続けたその先にしか訪れない。 

contact Gonzo『xapaxnannan:私たちの未来のスポーツ』

contact Gonzoの新作は京都サンガF.C.の本拠地でもある西京極スタジアムで「上演」された。2万人収容の巨大スタジアムで「上演」された作品のタイトルは『xapaxnannan(ザパックスナンナン):私たちの未来のスポーツ』(以下『xapax』)。ゴンゾのメンバー+αの計11名が造形作家・曽田朋子によって作られたザパックスと呼ばれるオブジェを奪い合う、ラグビーにも似たオリジナルの「スポーツ」(以下ザパックスナンナン)に興じる。競技はサッカーのフィールドをいっぱいに使って行なわれ、観客はその長辺に面する観客席からそれを眺める。観客とサッカーフィールドとの間にはインストゥルメンタルバンド・にせんねんもんだいがフィールドの側を向いてバンドセットを構えている。

開場するとフィールドにはすでにザパックスを頭に被ったプレイヤーが1人うろうろしている。スピーカーからは「そこには芋虫がいました」「マキちゃんはそのとき夕飯のことを考えていました」というような内容(正確ではない)の女性の言葉がぽつりぽつりと聞こえてくる。やがて時間になると残りのプレイヤーたちが姿を現わし、フィールドに散らばると思い思いにウォーミングアップをはじめる。遅れてにせんねんもんだいが登場し演奏をはじめると競技開始。

ザパックスを被ったプレイヤーがセンターマークに立ち、他のプレイヤーたちがセンターサークル上に並び中心のプレイヤーを見る形でそれを取り囲む。やがて1人のプレイヤーがその場で180度反転すると、中心のプレイヤーに後ろ歩きで近づいていく。ギリギリまで近づいたところでザパックスを奪い取るとプレイ開始となる。ザパックスを奪ったプレイヤーはその場でジャンプしてから走りはじめ、他のプレイヤーも全員が一度ジャンプしてからザパックスを持つプレイヤーを追いはじめる。ザパックスを持つ一人を残りのプレイヤーが追いかけ回す、というのがザパックスナンナンの基本ルールのようである。

ようである、と書いたのは、ザパックスナンナンのルールの詳細は最初から最後まで観客には伏せられているからである。ザパックスを追いかけ回すという全体の枠組みは競技がはじまってすぐにわかるものの、その他にも細かなルールが設定されているらしきことは競技を見ていれば明らかであり、しかしその詳細はプレイヤーの動きを注視し、そこから読み取るしかない。 

枠組みとしては明らかにある種のスポーツ(サッカーやラグビー)を模しているため、開演するとすぐに、観客は目の前で展開されるものをスポーツとして見ようとしはじめる。だが、そこで行なわれているのは観客にとって未知の「スポーツ」である。この未知と既知のバランス、未知のものであるにも関わらず、まずはそれをスポーツとして見ることができるということはこの作品の重要なポイントだろう。観客がそれをある種のスポーツとして見ようとするということは、何らかの基準(ルール、目的)に照らしてプレイの「成否」や「巧拙」を見ようとするということである。ザパックスナンナンではザパックスの奪い合いがその基準となるだろう。ところが、ザパックスナンナンをスポーツとして見ようとする観客のモードは、いくつかの理由で大なり小なり揺さぶりをかけられることになる。

ザパックスナンナンをスポーツとして見ることにいささかのためらいを覚えざるを得ない一つの理由は、メインの枠組みとなっているであろうザパックスの奪い合いが、一方でどこにも着地しない=最終的な目的を設定されていないように見えるからである。ザパックスを持つプレイヤーは他のプレイヤーから逃げるものの、目指すべきゴールが設定されているわけではなく、ひたすらに逃げ続けるだけである。その意味では鬼ごっこなどの遊戯に似ているようにも思えるが、そのプレイヤーが倒されたとして、次にザパックスを持つことになるのは任意の別のプレイヤーであり、1回のプレイと次のプレイとの間に連続性があるようには見えない。ザパックスナンナンは鬼が次々とバトンタッチされていく鬼ごっこ的な枠組みからもズラされている。

さらに、プレイヤーたちの動きが「ザパックスを奪い合う」という枠組みからしばしば逸脱するように見えることも、「ザパックスナンナンはスポーツである」という認識に揺さぶりをかける。およそあらゆるスポーツにおいて「ルール」は競技全体を「合理的」なものにするために存在している。一見したところ競技の進行を阻害するように思えるルール(たとえばサッカーにおけるオフサイド)さえ、全体として見ればゲームバランスを整える機能を持っていると言えるだろう。ところが、ザパックスナンナンのプレイヤーはあまりに頻繁に、プレイの進行とは関係のない行動を取っているように見える。このことが、「未知のスポーツ」に対峙する観客の注意をプレイのみならずルールそのものへも向けることになる。もちろん、ザパックスナンナンが観客にとって未知の「スポーツ」である以上、それを見る観客の意識は多少なりともルールへと向けられるだろう。だが、プレイヤーの不合理な動きによって、「未知のルール」が存在していることがあからさまに示されることで、観客はより一層、それがどのようなルールなのかを考えながらプレイを見るように誘われるのである。 

プレイヤーの動きから筆者が読み取ることのできたルールは以下の通りである。

基本ルール

・ザパックスを持つプレイヤーは他の全てのプレイヤーから追われる。

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたら1プレイが終了する。

・1プレイが終了した時点で全てのプレイヤーはその場所に留まり、ザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点の方向を向く。次のプレイはザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点からはじまる。プレイ再開は以下の手順で行なわれる。

・倒れたプレイヤーはその場で仰向けに寝、ザパックスを顔面に被せられ、別の一人のプレイヤーが上に乗った状態で声を発する(この声はスピーカーを通して増幅される)。声を発している間、上に乗るプレイヤーは黒い布を上に掲げることでそれを他のプレイヤーへと知らせる。他のプレイヤーたちは合図が出ている間、声を発しているプレイヤーから後ろ歩きで遠ざかる。声は複数回に分けて発してもよい(?)。

・声出しが終わったら任意の1人のプレイヤーが後ろ歩きでザパックスへ近づき、ザパックスを持ったらその場でジャンプをしてプレイは再開となる。他のプレイヤーも同じくジャンプをしてからプレイを再開する。

・ザパックスがいずれのプレイヤーにも触れていない状態に置かれた場合、最初にザパックスに触れたプレイヤーがザパックスを持つプレイヤーとなる。

 

ザパックスを持つプレイヤーに関する追加ルール

・プレイヤーはザパックスを腕・頭・脚・顔の任意の箇所に付けることができる。

・プレイヤーがザパックスを腕(あるいは頭?)に付けている場合、通常のルールに乗っ取ってプレイは行なわれる。

・プレイヤーがザパックスを脚に付けた場合、ザパックスを付けたプレイヤーは他の一人のプレイヤーを指定する。ザパックスを付けたプレイヤーは指定したプレイヤーを抜き去ることを目指してプレイする。このとき、他のプレイヤーはその場に留まらなければならない。ザパックスを付けたプレイヤーが相手のプレイヤーを抜き去ると通常のプレイが再開される。

・プレイヤーがザパックスを顔に付けた場合、他のすべてのプレイヤーはフィールドに横たわり、ゴロゴロと転がりながらザパックスを付けたプレイヤーから遠ざかる。ザパックスを付けたプレイヤーは任意のプレイヤーに近づき、その顔にザパックスを被せ、そのプレイは終了となる。プレイの再開は通常の手順に乗っ取って行なわれる。このとき、ザパックスを被せられたプレイヤーを倒れたプレイヤーと見なす。

・ザパックスを持ったプレイヤーがうずくまった場合、他の全てのプレイヤーはザパックスに向かって横一列に並び「壁」を作る(この後どうするんだったかどうしても思い出せず……)

 

ザパックスを持たないプレイヤーに関する追加ルール

・任意の(特定の?)プレイヤーが「腕回し」「前転」「ジャンプ」を行なった場合、ザパックスを持つプレイヤー以外の全てのプレイヤーはそれを真似る。動作を最初に行なうプレイヤーは同時に「はっ」と声を発する。

・ザパックスを持たないプレイヤーはその場でしゃがみこむことでプレイから離脱することができる。プレイから離脱したプレイヤーは他のプレイヤーからの接触があるまでその場から動くことはできない。

 

何らかのルールが存在しているようだが不明なもの

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたとき、他の全てのプレイヤーがそのうえにうつ伏せに覆い被さり山を作ることがある

このように列挙してみれば明らかなように、上で「追加ルール」としたもののほとんどは、「基本ルール」によって設定された「ザパックスの奪い合い」という枠組みと衝突するものである。「ザパックスを持つプレイヤー」の基本的な役割は他のプレイヤーから逃げることだが、ザパックスを付ける箇所によってその役割はほとんど逆転し、自らザパックスを他のプレイヤーに渡すことさえある。「ザパックスを持たないプレイヤー」に課せられた基本の役割はザパックスを持つプレイヤーを追うことだが、「追加ルール」で定められた各プレイヤーが任意で行なうことのできる行為はどれも、「ザパックスを持つプレイヤーを追う」という基本の役割を自ら疎外するものとしかなり得ない。そして、重要なことは、にも関わらず、各プレイヤーはこれらの行為を積極的に取り入れながらプレイに興じるのである。

ルールの細部はザパックスナンナンが明確なゴール=目的を持たぬ「競技」であることを明らかにし、それはスポーツというよりは遊戯や祭事、儀礼のように見えてくる。「競技」がチーム対抗の形ではなく、ザパックスを持つ人間だけが特別である1対多数の形をとっていることもこのような見え方に影響しているだろう。

音楽の存在はまた異なる方向から認識の枠組みに揺さぶりをかける。にせんねんもんだいの演奏をバックに、特定のルールに基づいた動きを見せるプレイヤーたちの姿は、音楽や振付に従って動くダンサーを思わせる。さらに、開場時から行なわれ、プレイ開始後も続く女性のアナウンス=ナレーションは、にせんねんもんだいの演奏と合わさることで、ある種のボーカルのように響く。プレイがはじまってすぐに明らかになることは、このナレーターもまた、ザパックスナンナンのプレイヤーの一人であるということである。プレイする彼女の息は上がり、淡々と発せられていた言葉は徐々に吐息まじりとなる。ときには他のプレイヤーの声や接触音、ぶつかったときの呻き声なども聞こえてくる。ここで観客の視覚と聴覚とが接続される。複数のルールに基づいて展開されるプレイヤーたちの動きは、視覚情報としてだけでなく聴覚情報としても観客にフィードバックされるのである。彼女の存在は複数の「プレイ」の境界を溶かしていく。

にせんねんもんだいが演奏を終え、退場していった後もプレイは続く。やがてスピーカーからはエンジンのアイドリング音らしきものが聞こえてくる。時を同じくしてザパックスを持った一人のプレイヤーが倒される。ゲームの間、途切れることなく続いていたナレーションが最後に告げるのは「このときマサくんの額には傷口が開き、ザクロのような真っ赤な粒々が覗いていました」「やがてこのスタジアムにはヘリコプターが到着することになります」「マサくんはヘリの中で緊急手術を受け、脳内に電子チップを埋め込まれてサイボーグとなりました」「マサくんはその後、伝説のザパックスプレイヤーとして百年間活躍し続けることになります」云々といった荒唐無稽な内容であり、観客はここで突如としてあからさまなフィクションの中に放り込まれるのである。そして作品はそのまま終わっていく。

ナレーションの内容はそもそものはじめからプレイの解説でなかった。彼女はプレイをしている人物のその日の行動やその瞬間の気持ちを述べ三人称で述べ、しかも真偽の判定の難しい、というよりはほとんど思いつきで言葉を発しているのではないかとさえ思わせる内容も多い。かなりの数の観客はゲームとは直接関係ないものとしてアナウンスを聞き流すようになっていただろう。ところが、最後の最後でアナウンスとフィールド上の出来事が(荒唐無稽とは言え)一致してしまう。この、あまりに荒唐無稽な、あからさまにフィクションでしかあり得ないナレーションが観客に引き起こすのは、それまでの即興的に見えていたプレイの全てが(あるいはいくらかの部分が)、台本通りのプレイ、つまりは演劇だったのではないかという疑惑だろう。ザパックスナンナンはそのラストでもう一つの「プレイ」、演劇的な様相を(あるいはその可能性を)曝け出す。

特定のルールの下で身体を動かすという意味において、今作はトヨタコレオグラフィーアワードで上演された「訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作」(以下「001」)の発展形と見ることもできるだろう。「001」もまた評価するには「『新しい振付の定義』を問い直す必要がある」*1作品と評されたが、『xapax』は複数のルールの(無)関係性が観客の認識の枠組みに揺さぶりをかけ、ジャンルそのものを問い直すという点において、名実ともに「001」をスケールアップした作品としてある。

「私たちの未来のスポーツ」という今作の副題とは裏腹に、展開されたザパックスナンナンはその起源、原初の形態である祭礼へと還ったかのような様相を呈していた。「上演」に寄り添うナレーションもまた、それが昔の出来事(=神話?)であるかのように語るのであった(「ハーフタイム」にはそれまでのプレイをプレイヤーたち自身が振り返るツアーが行なわれていた)。「未来のスポーツ」の可能性は進化の過程で切り捨てられた過去にあるということだろうか。あるいは、xapaxがモンゴル語で「観る」を意味する言葉であるというcontact Gonzoの発言を勘案するならば、「未来のスポーツ」はそれを観る観客にこそ関わるもの、上演と観客の間にこそ生じるものなのかもしれない。contact Gonzoは観客にもルールと戯れ、それを踏み越えることを求めている。

*1:ダンスを作るプラットフォームBONUSにおける愛知県芸術劇場シニアプロデューサー唐津絵理へのインタビューより

オオルタイチ+金氏徹平+西川文章「ミュージックのユーレイ」

金氏徹平『四角い液体、メタリックなメモリー』展示空間でのイベント第2弾は音楽ライブ。
幽霊の衣装でオオルタイチが登場すると、金氏徹平の展示物のアクリルボードで作られたブースに入りお経(?)を唱える。お経が終わるとアクリルボードに油性マジックで線を書きはじめるのだが、アクリルボードには集音マイクが設置されており、書く際に生じる「キュー」「トン」という音が増幅され会場に流される(金氏の作品自体、もともとアクリルボードにマジックなどで線を引いたものである)。しばらく線を引いた幽霊はボックスから出て展示会場をフラフラと徘徊する。幽霊が展示物に触れると様々な音が鳴る(そういう仕掛けになっていたわけではなくて、リアルタイムでSEとして流してたっぽい)。展示物の一つから金氏の声が聞こえてくるが何を聞いても「ユーレイ」としか答えない。
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繰り返される「ユーレイ」という言葉はやがて「ユーレイ」コールとなって会場を包む。衝立ての後ろに姿を消したオオルタイチが再び姿を現わすと、その姿は雷神(?)へと変化していた。「今晩は!俵屋宗達です!」とライブははじまる。
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↑扇風機で雷神(?)に風を送る金氏さん。雷神(?)の衣装は快快藤谷香子作。
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ラストはアコギで沢田研二。手前で金氏がボードにラインを追加し、その「キュ〜、トン」という音は遠い花火のように響く。
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展示のお題として与えられているはずの「琳派」とどう関係しているのかは正直よくわからなかったけど(音楽のミックスが模倣と継承ってことだろうか)、ライブとしては最高だった。