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細田守監督『おおかみこどもの雨と雪』

映画

おおかみこどもの雨と雪』が何の映画か、問われるとうまく答えられない。母と子の、あるいは人間と自然の映画であるとするのが穏当なところなのだろうが、そうと言い切るにはためらいを覚えてしまう。両者の葛藤が描かれつつも、そこには何か決定的な齟齬があるように思えるのだ。


狼男である「彼」と恋に落ちた花。しかし二人目の子どもである雨が生まれた直後、「彼」は不慮の死を迎えてしまう。二人の(二匹の?)「おおかみこども」とともに取り残された花は独力で懸命に二人を育てようとするが、周囲の目を気にしなければならない都会の環境に限界を感じ、人里離れた山奥の一軒家に移り住むことを選択する。「大きくなったときに狼と人間、どちらでも選べるように」二人を育てようと決心する花。月日は流れ、雪12歳、雨10歳。二人はそれぞれの人生を歩み始める…。


この映画において真に感動的なのは、狼として生きることを選択した雨に向けて発せられる「まだ何もしてあげられてない」という花のセリフだろう。映画のほとんどの時間が子育てをする花の奮闘を描くことに費やされているだけに、終盤に配されたこの言葉は胸を打つ。だが、そもそも花の奮闘は雨と雪が「おおかみこども」であることに端を発したものであったことを考えるとき、山へと「帰っていく」雨の姿に違和感を感じてしまい、この場面に素直に感動することが出来ないのだ。『おおかみこども』を見ている間中感じていた微かな違和感はこのシーンで決定的なものとなった。

 

その違和感とはつまり屈託のなさだ。雪が人間として生きることに一応の葛藤が描かれているのとは対象的に、雨は狼として生きていくことにほとんど迷いがない。いや、そこに障害がない、と言った方が正確だろうか。彼は山に受け入れられているのだ。もちろん、ただそこにあるのが自然であって、「受け入れられる/られない」という問題自体がここでは無効化されているのだという主張はそれなりに説得力を持つ。だからこそ花は「まだ何もしてあげられてない」と言うしかないのだ、私たち人間は自然を前にただあるしかないのだ、と。だが、それならばなおさら、この場面には『おおかみこども』の歪みが集約されていると言わざるを得ない。


『おおかみこども』の自然の描写はこれまでのアニメ作品におけるそれと比べて格段に美しい。その美しさは解像度の高い美しさであり、水の描写など一瞬実写と見紛うばかりに精巧だ。だがその精巧さはただ「自然の高精度な再現が可能であるアニメーション」のすごさを訴えるのみである。例えば『となりのトトロ』の、雨のバス停のシーンを思い出してほしい。あのいかにもアニメ然とした場面には、しかし雨という自然の営みに対する驚異の念、雨の愉しみがたしかにあった。『おおかみこども』にはそれがない。嵐はやってくるがそれは物語を動かす契機に過ぎないのだ。


「リアルな自然」を掌中のものとしてしまったアニメーターにとって自然はもはや驚異ではない。だからこそ雨は新たな主として(!)山に入ることに迷いがない。狼に拾われた人間として葛藤する『もののけ姫』のサンとは対照的だ。『おおかみこども』における自然は、いずれにせよ人間の支配の及ぶ程度のものとしてしか描かれていないのである。そして人間ー自然の関係が母ー子の関係とパラレルなものとして語られていたことに思い至ったとき、そこに潜む歪みの可能性はこの映画から母と子の物語としての感動をすら奪い去ってしまうのだ。