クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト ライジング』

 

善悪の境はどこにあるのか。そもそも善悪の区別はあるのか。あるとすれば何がそれを決めるのか。法か倫理か。ノーラン版バットマン三部作を貫くこのような問いはしかし、『ダークナイト ライジング』という映画のスペクタクルとサスペンスの前にともすれば忘れ去られてしまう。観客の関心は倫理的な問いではなく、スクリーン上で起きる運動、物語の行方に集中する。そこにあるのは善悪の対立ではない。運動、ただそれだけがそこにはある。


前作でゴッサムシティのためにその身に罪を引き受け姿を消したバットマン。だが謎の美女カイル(アン・ハサウェイ)の登場と新たな敵ベイン(トム・ハーディ)の策略により、再びその姿を表すこととなる。ベインによって占拠され周囲から分断されたゴッサムシティ。ベインは核爆弾の恐怖で市民を縛り付ける一方、ゴッサムシティの平和が警察の欺瞞に支えられたものであることを暴き立てる。ベインの呼びかけに答えた一部の市民が武装放棄し、事態は混迷を極めていく。


ベインと戦うバットマンは警察に追われ、警察は武装市民と対峙する。市民はベインの脅威に縛り付けられ、互いが互いを監視する。それぞれがそれぞれに理を掲げ、同時に少なからぬ疵を持つ。そこに絶対の正義はなく、正しい決着もない。だが諸々の問いを置き去りにしたままに、置き去りにしたことすら意識させずに、結末はもたらされる。答えは出なくとも結末は訪れるのだ。


だが安心してほしい。映画は最高だ。空中へと戦場を広げたバトルシーンにセクシーなアン・ハサウェイトム・ハーディの強靭な肉体にスリリングな展開。全編見どころしかないと言ってもいい。だから、今はただその運動に熱狂し身を任せよう。問うのはそれからでも遅くはない。これは映画なのだから。