伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』/『横浜借景』/toi『反復かつ連続』

「人間には物語が必要なのです」 ー『屍者の帝国』

1.『屍者の帝国』

『屍者の帝国』はそれ自体極めてフランケン的な小説である。

早逝した伊藤計劃の遺したプロローグを円城塔が書き継ぐことで完成した『屍者の帝国』。物語は屍者が労働力として活用されている架空の19世紀イギリスに始まる。そこでは死者に霊素、つまりは魂を上書きすることでロボットのように動かすことが出来る技術が確立されており、経済は屍者抜きでは回らない段階に達している。医学部生のワトソンはある日、霊素に関する研究の権威ヴァン・ヘルシング教授の目に留まり、国の諜報活動へと身を投じていく。

さて、ワトソンが誘われる機関の通称はQ部門、長官の名はMという。そして貸与される記録用の屍者のナンバーは007。007シリーズを想起させるこのような道具立てからも明らかなように、この作品には先行作品へのオマージュがそこかしこに散りばめられている。そこでは過去の名作に新たな命が吹き込まれる。

一方、この作品は「歴史改変もの」と呼ばれるジャンルの系譜に属する。『ディファレンス・エンジン』に代表される「歴史改変もの」の面白さは歴史のifを緻密にシミュレートしていく点にある。蒸気機関や屍者技術が実用化されていたら歴史はどうなっていたか。現実の歴史に上書きされていく架空の世界。

先行作品へのオマージュも「歴史改変」も過去を上書きする行為であり、作品の手法/趣向それ自体が魂を上書きする屍者技術の反復となっている。のみならず、それらはやがて伊藤が『虐殺器官』『ハーモニー』で追求してきたテーマ系に接続されていくことになるのだ。「意識とは何か」「人間とは何か」「死とは何か」。古来より追求されてきた哲学的な命題。それはまた「私」と「世界」を巡る問いでもある。「私」と「世界」はどう関係を結ぶのか。この問いに伊藤/円城は『屍者の帝国』という小説=言葉で対峙する。

2.『横浜借景』

私たちの世界は言葉によって出来ている。だから、現実は言葉によって簡単に揺らぐ。揺らぐことのない、本質的な現実とは何だろうか。そんなものがあるのだろうか。

『横浜借景』は「伝統的な造園技法である〈借景〉の概念をパフォーミングアーツに用いて、現実的に機能している都市のさまざまな空間にパフォーマンスを介在させることで、新たな視点で日常を捉え直し、身体のあり方/参加する人々のものの見方に疑問を投げかける新しい形式のパフォーマンス」である(公式サイトより)。昨年の第1回に続く今作では、みなとみらいに新しくできたオフィスビル、グランドセントラルタワーの商業モール、MMグランドテラスが舞台となった。

会場は通常通り営業しているショッピングモールであり、観客はそこでヘッドホンを装着して思い思いにぶらぶらしながらパフォーマンスを観ることになる。ヘッドホンからは詩のような言葉やセリフ、効果音、BGMが流れてくる。これらの音響効果がこのパフォーマンスにおいては極めて重要な役割を果たす。例えばパフォーマンスの冒頭部、どうしたらよいかわからずやや戸惑い気味に立ち尽くす観客の前にエスカレーターに乗って女性が降りてくる。それに合わせて聞こえてくるフィロロロロという電子音は、エスカレーターに乗る女性という日常的な光景に非現実的な感覚を付与する。

『横浜借景』には数人のパフォーマーが参加しており、先ほどの女性もそのひとりなのだが、その動きだけに注目するならば彼女たちはそれほど特異な動きをするわけではない。ヘッドホンを付けていない買い物客たちが彼女たちを見たとして、その挙動から何らかのパフォーマンスが行われていることを見て取るのは難しい(一部、走り回ったり寝転がったりという動きもあるので変な人だとは思うかもしれない)。パフォーマーの動きは、ヘッドホンからの音響効果と結びついて始めて私たちの前にパフォーマンスとして立ち上がる。むしろ買い物客の目には、白いヘッドホンを付けてうろつく私たち観客の方こそが不審なものと見えるだろう。実際、買い物客たちはまず私たちに目を留め、その後、私たちの視線の先にいるパフォーマーたちに目をやることになる。ヘッドホンは二重の意味でパフォーマンスを立ち上げる役割を担っているのだ。

いずれにせよ、そこでは認識が先に立つ。まずそこでパフォーマンスが行われているという認識があり、その認識の下に世界を眺めることでパフォーマンスが出現する(全てがパフォーマンスにさえ見えてくる)。『横浜借景』はその意味でAR(拡張現実)を扱った作品であるということも出来る。そこに潜在している「現実」を捉えるためのきっかけとしてのヘッドホン。そして一度それを体験してしまった私たちの知覚には、そのようなモードが埋め込まれてしまう。「現実」の中に「パフォーマンス」を見出す「目」が開いてしまう。パフォーマンスが終わり、ヘッドホンを外した私たちの耳に聞こえてくるのは、ヘッドホンから聞こえていたものと同じ音楽だ。ヘッドホンを外しても夢は覚めない。観客たちはしばしその場に佇む。

帰り道、みなとみらいを歩く私は、そこで休日を過ごす人々の姿の一々に目を引かれた。走る子どもと追いかける父親、野外テラスでビールを飲む男たち、日陰で涼む女性。普段なら気にもしないごく普通の人々の日常がくっきりと浮かび上がって見える。みなとみらいの人工的な街並みもその感覚に拍車をかける。あまりに無機質な街を背景に、人々の生き生きとした表情はそこから浮かび上がって見える。

私たちは「日常」を「再発見」する。しかしそこには裏腹なもう一つの感覚が潜んでいる。私たちは夢を見ているのではないか。

楽しげに休日を過ごす人々を眺めながら脳裏をよぎったのは、誰もいない街の姿だ。ビルだけが整然と立ち並び、人気のない街。今私が見ている彼らの姿は幻のようなもので、私が立ち去ったあと、そこには誰もいないのではないか。あるいは、都市の見る夢としての人間。その都市でさえも、悠久の時の流れの中では一時の夢のようなものに過ぎない。ヘッドホンからは「100年後、このフロアは存在しません」「昔、このあたりは海でした」という言葉。言葉は想像を誘う。

海を埋めたて陸地を作り、その上に都市が立つ。そしてそこに生きる私たちの脳は足下に海を幻視する。だが、果たしてそこに、海はあったのだろうか。

3.『反復かつ連続』

私たちはそこにないものを見ることができる。

『反復かつ連続』は『わが星』で岸田戯曲賞を受賞した柴幸男がtoiの企画『四色の色鉛筆があれば』のために書いた4本の短編のうちの1本であり、内山ちひろによる一人芝居として上演された。舞台が明るくなると一人の少女が登場する。会話の相手がいないため、そこで起きていることの全てがわかるわけではないが家族の朝の風景らしい。「いってきます」の言葉とともに少女は出て行く。と思うと、彼女は舞台上手に戻り「おはよう」と言いながら再び登場する。どうやら先ほど登場した少女の姉のようだ。姉としての彼女の演技に重なるように録音された1回目のセリフが流され、姉妹の会話が浮かび上がる。これが繰り返され、最後には舞台上に4人の姉妹と母親の騒がしい朝の風景が現れる。

上書きされていく会話によって家族の朝の風景が少しずつ明らかになっていくという構成だけでも十分に面白く、また柴幸男らしい作品なのだが、決定的なのは最後に置かれた祖母のシーンである。このシーンの存在こそが作品に深みを与えている。

繰り返しの最後、内山は急須と湯呑みを持って登場し、舞台の端に腰掛けるとおもむろにお茶を啜り出す。背後では賑やかな家族の朝の声が聞こえる。やがて「いってきます」とつぶやくとゆっくりとうなだれる。「おばあちゃん?」と呼びかける声。

このシーンが配置されることで、ここまでのシーンは走馬灯としての意味をも帯びることになる。それは家族の団欒の思い出であると同時に、自らの人生のあゆみだ。小学生から高校生、社会人を経て主婦へ。1人の役者によって演じられたこと、舞台上には常に1人しかいなかったことの意味はここにある。そこにいる「彼女」こそがその人生の主人公だったのだ。『反復かつ連続』というタイトルの意味はここにある。それは反復によって描かれるある朝の1コマであると同時に、連続する人生そのものであり、そして人生の中で反復される日常の風景なのだ。家族の団欒が、あるいは彼女の一生が、陽炎のようにゆらめき互いに重なり合いながら、ほんの束の間浮かび上がる。

女の一生は舞台にはない。しかし観客は舞台に展開される家族の団欒(それすらも幻のようなものだが)の上に彼女の一生を重ねて見る。二つの層が重なることで新たな意味が生まれる。私にもあんな頃があった。そして私もいつか死ぬ。他者のことを自らのこととして引き受ける想像力の可能性がそこにはある。



さて、ここから先は蛇足である。僕は批評の役割はここにあると思っている。つまりそれは幽霊をつかまえることだ。作品に潜む可能性としての幽霊を見つけ出し、より豊かな意味へと送り返すこと。複数の層の重なり合いとしての作品の豊かさを見出すこと。それこそが批評の役割だと思っている。だが気を付けなければならない。自らの考えで作品を塗りつぶしてしまわないように。それは死者の魂を上書きするのにも似た行為だ。自戒の念を込め、再びの引用で締めくくろう。

「もっともらしいお話が当座の時間稼ぎとして働き、他の可能性を封じ込めておく機能を果たす」 ー『屍者の帝国』