読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

クレタクール『女司祭−危機三部作・第三部』(2012)

海外から招聘された演目を観ていつもどこか居心地の悪い思いをするのは、それが上演される背景となった事実や文脈に実感を持てないからだ。『女司祭‐危機三部作・第三部』も語られる内容に実感を持てないという点では同じだったのだが、それでもなお、厳しい問いを突きつけられたように感じた。「あなたたちは自らの問題に向き合っているか」と。

『女司祭』で描かれるのは、ブダペストからやってきた演劇教師と彼女の授業を受ける高校生、そして彼らを取り巻く人々の姿だ。そこでは様々なレベルで共同体に危機が訪れる。演劇教師の息子はブダペストに帰りたいと言い、夫ともどうやらうまくいっていないようだ。ハンガリー系とルーマニア系、あるいはロマ(ジプシー)といった様々な出自を持つ生徒たちの間には溝があり、旧態依然とした村と外部から来た演劇教師との間には軋轢が生まれる。生徒たちの多くは彼女に信頼を寄せるようになるが、結局彼女は村を去る。家族、学校、教会を中心に置く村。それぞれの共同体に変化は訪れるが、危機は解決しないままだ。物語としてまとめるならばおおよそ以上のようなことが語られる。

この作品には複数の層がある。物語として語られる演劇教師と生徒たち。彼女たちが演じる芝居。生徒を演じるのは実際の高校生であり、彼女たちはクレタクールのワークショップを経てこの作品に参加している。つまり、本物の高校生が生徒を演じ、その生徒たちがさらに劇中で芝居を演じるという構造になっているのだ。上演中、芝居は度々中断され、生徒たちは観客に直接問いかける。作品自体、ワークショップを元に作られていることもあり、そこで語られる言葉はフィクションというよりはドキュメンタリーのように響く。

だが、舞台で語られることが生徒たちの生の体験に基づいているからこそ、その中には日本人である私たちには実感できない問題が多く含まれている。家族や学校についての問題ならば共有することもできるだろう。だが人種や信仰に関する衝突や葛藤はどうか。彼女たちにとって人種や信仰というのはいつもすぐそこにある問題だ。私たち日本人は彼女たちの言うことが「わかる」と言うことはできない。それらは頭では理解できても日本人にとって身近な問題ではないからだ。上演中、演劇教師や生徒が観客に質問を投げかける場面がある。その質問の一つにこういうものがあった。「この中に黒人男性がタイプの人はいますか?」他の質問をされたときと同様に、この問いに対しても観客の多くは(私自信を含め)困惑した表情かヘラヘラとした中途半端な笑み、あるいは真面目くさった無表情を浮かべ、ただただその時間が過ぎ去るのを待っていた。投げかけられた質問に積極的に答えようとせず、誰かがどうにかしてくれるのを待つような態度はいかにも「日本人的」である。たしかにそれはそうなのだが、ここで私たちが困惑してしまったのはそもそもそんなことは考えたこともなかったからでもある。「好みのタイプ」について考えるとき、人種を考慮のうちに入れる日本人はごくわずかだろう。問いかけへの応答ではなく問いかけそのものが、日本とルーマニアの違いを浮き彫りにする。

質問されるのは私たち観客だけではない。「演劇教育」の一環として生徒たちもまた、繰り返し問いかけられる。彼女たちはある役割や場面を演じる。場面の途中で教師が「ストップ」と声をかけると生徒たちの芝居は中断し、彼女たちはその人物や出来事について、「なぜこのようなことが起きたのか」「そのことについてどう思うか」といった質問に答える。それはおそらくクレタクールが実際の高校生である彼女たちに対して行なったワークショップの反復でもあり、ならば観客への質問もまた、演劇を観ている私たちへの「教育」の一環だと考えることができる。そのことに思い至ったとき、私は自分に向けられたルーマニアの高校生のまっすぐなまなざしに対し、後ろめたさを感じずにはいられなかった。

質問にまっすぐ答えようとする生徒たちとひたすらにやり過ごそうとする私たち。この対比はあまりにあからさまに表れてしまった。もちろん、中には積極的に質問に答えている観客もいた(多くの観客が積極的に答えた回もあったかもしれない)。例えば「子どもの役割は何か」「子どもが生きる意味は何か」という問いには「生きることそれ自体が喜びである」「大人が考えられないことを考えるのが子どもの役割である」という答えが客席から挙がった。そしてこの二つ目の答えにはわが身を振り返らずにはいられなかった。「大人が考えられないことを考えるのが子どもの役割である」。この言葉はたしかに一面の真実を言い当てている。だが、そのような答えを子どもたちに返す私は、「大人が考えられないこと」などと言えるほどに、ものごとを考えているだろうか。こちらをまっすぐに見る子どもたちの目が、私たちを値踏みしている。そう思ってしまうのは、私に後ろめたいところがあるからだろうか。

クレタクールによる高校生へのワークショップと劇中の教師による生徒たちへの「演劇教育」、そして観客を前にして行なわれる『女司祭』の上演はパラレルな関係にある。演劇教師が生徒たちに自らの頭で考えることを教えようとしたように、クレタクールは私たち観客に自らの頭で考えることを促す。だがそこには同時に、そのような啓蒙的な行為自体の是非を問う視点もある。演劇教師は村での演劇教育に挫折し、村を去るのだ。演劇教師は神父を「教会への寄付を自らの生活を充実させるために使い、それを続けるために生徒たちから思考能力を奪っている」と糾弾するが、それに対し神父は反論する。彼女は「啓蒙的」な思想にとりつかれ、自らの信念こそが絶対のものであると頑なに信じている。だがそれは、彼女が悪と断じる神父や信仰による抑圧的な支配とどう違うのか。(劇中では明確には指摘されなかったが)彼女自身が所属する家族というコミュニティが機能不全に陥っている状況で他人のことにかまけているのは果たして善かと。

信仰を中心とした今までの村の生活、機構を維持しようとする神父と、目を覚まし自分の頭で考えよと訴える演劇教師。声を荒げる彼らの間には生徒たちがいる。私はこの文章の冒頭で、「実感を持てない」と言ったが、しかしここにあるのは、現在の日本において露わとなっているものと同じ構図だ。例えば、今まで通り原発を推進していこうとする人々と原発廃止を訴える人々。必要悪と倫理的な正論をめぐる問い。両者の間で揺れる日本人。

私が後ろめたさを覚えたもう一つの理由は、自分が向き合っていたのが日本の高校生ではなかったからだ。演劇教師がそうであったように、自らのいるコミュニティ、例えば日本の問題を一時的にとはいえ棚上げにし、海外から来た作品を見ている私。あるいは、海外の作品に自分たちの問題を照射して見ようとする私たち。まっすぐなルーマニアの高校生たちのまなざしに、お前が向き合うべきなのは日本人なのではないかという声が聞こえる気がした。だから大事なのは、この後ろめたさを抱えたまま、自分自身に目を向け直すことなのだろう。作品と真摯に向き合い、考えることは重要だが、クレタクールの作品はそれ自体プロセスでしかない。作品を観終えたのならば、今度は生徒たちに代わって私たち観客が、自身の問題を考える番なのだ。

「ストップ」という言葉とともに芝居は中断、そしてそのまま暗転し終わりを迎える。そこに問いはない。劇中の「演劇教育」とは違い、現実には問いを投げかけてくれる「先生」はいないのだ。私たち観客はまず、問いを立てることから始めなくてはならない。