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LFKs『たった一人の中庭』(2012)

舞台 F/T

0.

『たった一人の中庭』の最後に待ち構えているのは校庭のそっけない立て札だ。「外国人に食物を与えないでください。 Please do not feed the foreigner.」動物園の檻にこれとほぼ同一の文句が掲げられていることを考えると、これは鑑賞者に対する痛烈な皮肉だ。この立て札を見ているお前たちの態度は珍しい動物を見るときのそれとどこが違うのか。お前たちは移民キャンプの「外国人」を動物扱いしているのではないか。そして日本の観客がこの立て札を見るとき、皮肉は一層苛烈なものとなる。日本人にとっては、移民キャンプに住む人々もそれを題材とした作品を制作している LFKsも等しく「外国人」だからだ。立て札の前に立つ人は皆、それを見るための金を「外国人」に払っている(実際に金がどういう経路で誰に入るかはともかく、観客の感覚からすればチケット代は作品を見る対価としてそれを提供している側に支払われている)。観客はすでに「外国人」に「食物」(≒金)を「与え」てしまっているのだ。屋内の展示を堪能してきた観客はここで完全に突き放される。ヨーロッパの移民キャンプの問題を題材とした作品に日本人が金を払いそれを鑑賞すること。あるいは、日本の問題を題材にした海外のカンパニーの作品を観ること。今まさに自分が行なっている行為、 LFKsによってそうするように仕向けられた行為に対する自らの態度を問われているように感じた。

観客はこの札の立てられた校庭で現実に引き戻される。アートには芸術の他に「人工、技巧」という意味があるが、どちらの意味でも屋内の展示はアートとして厳密に計算された空間を構成していた。限りなく「アート」な空間から屋外へと放り出された観客は、そこでこの立て札と向き合い、自らが日本にいるという現実に/自らのいる日本という現実に対峙させられるのだ。とは言え結論を急ぎ過ぎたようだ。この立て札に辿り着くまでに鑑賞者はいかなる体験をするのか。まずは展示の全体像とそこに見出せる問題意識を概観したい。

 

1.

F/Tの公式サイトによれば『たった一人の中庭』は「不法滞在者やロマ族が暮らす移民キャンプ」の「実態をアーティスティックな視点で再構成した、展覧形式の演劇」である。

受付は会場となったにしすがも創造舎(元小学校)の正門ではなく、校舎の裏手に設置されていた。コンクリートに囲まれ、草木の生い茂る狭いスペース。案内される先は学校の地下だ。狭い階段を降りていく。この時点で、「移民キャンプ」あるいは「収容所」という言葉の孕む重さと同質のものを、会場の雰囲気からヒシヒシと感じていた。ところが、この重さに囚われたまま最初の展示室に足を踏み入れた鑑賞者は唖然とすることになる。まばゆいばかりに白い室内、そこに置かれた現代美術風の絵画とオブジェ。そして何よりも、軽快な音楽に身を任せて踊る奇妙な人型のモンスター。一体これは何なのだ。

地下1階の展示は概ねこの調子であり、そこにヨーロッパにおける「移民キャンプ」の問題を読み取ることは難しい。「教唆する部屋 Egging On Room」と名付けられた二つ目の展示室は元家庭科室であり、うっすらと煙る室内は白い根、あるいはダクトのようなものに侵食されている。コンロでは無数の卵が茹でられ、台の上には卵の白身に見えなくもないスライム状のものが広がっている。棚に並ぶ卵はこれから茹でられるのを待っているのだろうか。片隅で回る洗濯機の音。煙に霞む部屋の奥ではパフォーマーが何かを読み上げている。部屋の入り口に貼ってあった掲示や受付で手渡された会場マップによると読み上げられているのは「フランス国境警察(通称 P.A.F.)が作成した『異例の事態における外国人送還に関する指令』」であるらしいが、フランス語がわからない私にその指令の内容が伝わることはない。地下1階で移民を示唆するのはこの読み上げられているとされる指令だけだ。

次の部屋は「入浴する人々の部屋 Bather's Room」と名付けられた元理科室。そこでは人型の白い石膏像のようなものが流しに腰かけ、入浴している風である。しかし彼らには頭部がない。明かりが消され、室内が薄暗いこともあいまって相当に不気味な雰囲気である。それぞれの机の上にはダイヤル式の電話が置かれ、ときおりジリリリリと鳴り始める。蛇口からも間欠的に水が吐き出され、電話と水の音が教室に不規則なリズムを刻む。

このように、地下1階の展示には移民を示唆するものはほとんどないのだが、次の展示スペースである3階に上がると様子は一変する。「はかり La Bascule」と名付けられた部屋には引き伸ばした写真を掲示した板と映像作品を映し出すモニターが設置されている。部屋の隅の壁には「実際に起きた強制送還の現場の報道写真が飾られている」(会場マップより)。写真とモニターの前には鑑賞を促すかのように置かれた椅子。部屋の中央に置かれた大きな写真と映像に映し出されているのは、地面に垂直に立てられたボートに、飛行機に搭乗する際に使うような移動式の階段(タラップ)を横付けした奇妙なオブジェだ。映像の中では報道写真の強制送還を模すかのように、白人男性数人が有色人種の男性をタラップの上へと押し上げている。彼らは有色人種の男性の体の位置や向きを変えては遠くから眺め、再び位置を変えるという作業に取り組み始める。その様子は展示のレイアウト決めでもしているかのようである。口笛が BGMとして使われていることもあり、ともすればコミカルに見えてしまう映像だ。しかし楽しげにさえ見える白人男性たちは有色人種の男性をまるでモノのように扱っている。そしてモニターの前に置かれた椅子は、その様子をともに見るようにと観客に促す。口笛が奏でるのはフランスの軍歌だ。

3階には他に3種の展示がある。1つめは「政治オフィス Political Bureau」。ここではパフォーマーたちが「議論やリサーチを通じて思考を深める」。日本赤軍に関連すると思しきメモや映像もあり、何らかの意味で日本に関連する議論が行なわれているのではないかと推測されるが、そこで使われている言語はやはりフランス語なので、何が話され、書かれているのかは分からない。隣の「更衣室 Fitting Room」では、地下で踊っていたモンスターの衣装を着ることが出来る。照明のない薄暗い部屋には3名までしか入れず、例えばコスプレのような楽しさは感じられない。牛糞で出来ているという床からは生温かさを感じるような匂いが立ちこめ少し息苦しい気分になる。みな黙々と着替え、あるいは足早に立ち去っていた。「キャンプ The Camp」には小さな白い家が無数に並ぶ。私たちはその中に入ることは許されず、入口からその様子を伺うのみだ。体育館での展示に向かう窓には「外のキャンプをのぞく First view of the outside camp」とタイトルが付されていて、ピンクのカーテンで飾られた窓から校庭を臨むことが出来る。通りがかったときにちょうど校庭ではパフォーマンスが行なわれていた。1人の有色人種の男性を2人の白人男性が囲んでいるようだ。しばらく眺めていたのだが遠目では何が起きているのかよくわからず、私はそこを立ち去る。

屋内最後の展示は体育館全てを使った大掛かりなものだ。体育館に入ると目の前の壁には大きく “CHOOSE A CAMP”と書かれている。壁を回りこむとそこは奥行きのある白いテントのような空間だ。微かにカレーの匂いがする。真っ白な空間のところどころにレントゲン写真や調理台、医療器具や衣服の架かったハンガーなどが見える。白い衣装とマスクを身にまとった男性の手元を覗きこむと包丁で野菜を切り分けている。タッパーに入ったカレーと薬品の小瓶が同じ秤の上に載せられ、拘束着の隣にはウサギの着ぐるみが吊るされている。一見、人工的な秩序に満たされた空間なのだが、そこにあるものは奇妙にチグハグである。いや、そこでは食事と薬品の摂取が、人体と動物の体とが同じ尺度のもとに計られている…。

白いテントを抜けるとやはりそこは白に埋め尽くされている。床には発泡スチロールのような素材でできた繭状のものが敷き詰められ、それは深いところでは膝下のあたりにまで達している。長方形の空間の対角線を横切るように白いベッドが並ぶ。壁にかけられた抽象画のような染みの向かいには長いアームを持つ奇妙な機械。アームの先のスポンジには血を思わせる赤黒い塗料が付着している。この機械があの絵(?)を描いているのだろうか。ベッドが突然上下運動を始める。ベッドの向こう側には打ち捨てられた引き出しと灯油などを入れるポリタンク。やはり時おり動いている。これも色は白だ。その隣には2本のポールが立ち、一番上には拡声器が備え付けられている。奥には何台ものテレビが積み上げられた山があり、不鮮明な画像を映し出している。高い天井から吊るされたブランコは誰かが座る度にキイキイと軋む。外には墓地が見える。体育館のおよそ3分の2という広大なスペースを使ったこの展示空間からは人の気配、生の気配が排除されている。ただただ鑑賞者たちだけが機械仕掛けの空間に佇み、それを見つめている。全体を通して強く表れているのは、人間や生命をモノとして扱う態度であり、その行き着く先が、あの生命のない、機械だけが並ぶ体育館の空間なのだ。

 

2.

この作品を日本の文脈で読み換えることも可能なのだろう。F/Tのサイトによれば作品は「初の東京滞在制作の体験をも反映させたもの」だということだ。例えば最後の立て札。昨今の日本の、中国や韓国、そしてアメリカとの決して良好とは言えない関係や TPPをめぐる議論を振り返れば、「外国人に食物を与えないでください。」という文言は俄かに、日本人に直接関わるものとしての不穏さを漂わせ始める。近い将来、日本でもこの言葉が有効なものとなってしまうときが来るのではないか。そう言えば、立て札はデモで掲げられるプラカードにも似ている。新作インスタレーションとして追加された2部屋(「教唆する部屋」と「入浴する人々の部屋」)が置かれている地下の空間はヨーロッパの「移民キャンプ」を示すようなものは極端に少なかった。そこで密やかに示されていたのは放射能標識であり、日本の文脈で作品を解釈し直すならば原発の問題は避けて通れないことになる。

放射能標識が置かれていたのは「入浴する人々の部屋」だった。ではそこにあるのは、避難生活を余儀なくされ、今も仮設住宅に住まう人々の姿だろうか。それとも、今このときも危険な作業に従事している原発作業員の姿だろうか。だとすると、そこで行なわれる「入浴」は、作業後の除染を意味することになる。いずれにせよ、ここも一つの「移民キャンプ」だったのだ。彼らの顔は奪われている。危険を知らせるかのようにベルが鳴り響き、定期的に水が排出される。入り口近くに置かれた石膏像は放射能標識の記されたボードを掲げ、その手のひらには蝉の抜け殻が置かれている。殻を脱ぎ捨てた蝉は1週間ほどしか生きられない。

「教唆する部屋」はダクトのような物体が這い回り、不穏な煙が立ちこめる部屋だった。そこに現れるのはまたしても殻のモチーフだ。鍋の中で卵が茹でられる一方、机の上には白身のような物体。殻の中身はこぼれ出てしまった。棚に整然と並ぶ卵は投入を待つ核燃料か。殻のモチーフが「入浴する人々の部屋」へと引き継がれることを考えると、鍋への投入を待つ卵は原発作業員の姿にも重なってくる。そして隣の「ダンスフロア」にはそんなことは知らぬげに、煌々たる明かりの下で踊り狂うモンスターたち。「入浴する人々の部屋」とのコントラストは明白だ。

卵のモチーフは形を変えながらこの作品の全編を貫いている。「教唆する部屋」の卵は「入浴する人々の部屋」では巻かれた包帯へと姿を変え、やはり整然と棚に並ぶ。体育館の床に敷き詰められていたのは白い繭上の物体だった。観客は繭を掻き分け、ときに踏みつけながら進む。「キャンプ」の家の整然とした並びはマス目状に並ぶ蚕の家を思わせる。踊るモンスターがまとっていたのは白い包帯状のビラビラではなかったか。卵/包帯/繭のアナロジー。絹糸を取るためには蚕を繭ごと茹でなければならない。彼らの衣装は蚕を殺して得たものだ。

 

3.

このように解釈していくことは「正しい」のだろうか。これは作品や作者に対する問いではない。作品に対峙する自らへの問いである。作品はたしかにそのように解釈できる。おそらくはそのように作られている。この作品は現実を「アーティスティックな視点で再構成した」ものなのだから。だが、作品はその「意味」を読み取るために存在するのか。正直に告白しよう。私は作品に誘われ、思考することに夢中になっていた。巧みに造られた世界に没頭していたのだ。だからこそ、最後に突如として登場した、鑑賞者を突き放すかのような立て札に茫然としてしまった。

そもそも『たった一人の中庭』には作りものしかなかった。いや、それが芸術作品である以上、そこにあるのは常に何らかの意味で「作りもの」でしかない。それはそうなのだが、しかし、現実にある問題に題材を採り、それを「作りもの」として提示することの意義は何か。トーキョー/シーンに掲載されたインタビューでLFKsのジャン・ミシェル・ランブリュイエールはこう語っている。「芸術は道徳主義の拒絶以外の何ものでもない」「この作品は、我々が観客を誘い、入り込ませ、思考させる形態(モード)であり、そこから遠ざかったり、免れたり、回避できる形態ではありません」と。アーティスト/芸術作品としてはそれでよいのかもしれない。それはまさに罠として働き、私を思考へと誘ったのだから。

だが、そのことと、鑑賞者たる私が作品に耽溺することは話が別だ。「芸術は道徳主義の拒絶以外の何ものでもない」という言葉は、鑑賞者の免罪符にはならない。ならばどうすればいいのか。どうしようもない。『たった一人の中庭』という作品を観た私が、作品の魅力に囚われてしまったという事実は消せない。作品によって思考が導かれたということもまた事実であったとしても、それが美しく魅力的であったこと、自分がそれに魅せられたことに対し、私は屈託を抱かずにはいられない。そうでなければ現実に対する裏切りであるとさえ思う。これは私個人の倫理であり、譲れない部分なのだろうか。おそらくそうなのだろう。だから、私はそれをそのまま書くしかなかった。私がいかに作品に耽溺し、それを嫌悪したかを。書くこともまた、作品に耽溺することなのかもしれない。ならば沈黙するのか。しかし見ること/書くことを選んだ以上、私はこの分裂を抱えたままで見/書き続けるしかないのだ。