The end of company ジエン社『キメラガール アンセム/120日間将棋』(2012)

The end of company ジエン社『キメラガール アンセム/120日間将棋』(以下ジエン社、『キメラガール』)で彼らが希求していたのは世界の可能性だ。演劇というメディア、同時多発会話という手法、将棋というモチーフは全て、世界の可能性に手を伸ばすために必要とされた。時に絶望にとらわれながら自分自身を、そしてこの世界を生きるしかない私たちの、それでもこの世界を生きていく私たちの、祈りにも似た切実な思いがそこにはあった。

『キメラガール』の舞台は将棋盤を模している。白を基調に青の格子が描かれた舞台はどこかサイバースペースも思わせる。実際、登場人物の1人はコンピューター上で将棋を指しているようだ。将棋とコンピューターはシミュレーションという接点を持つ。眼前の盤面から延びる無数の手を検討する棋士の思考は、仮想空間をシミュレートするコンピューターの挙動に近しい。だからこそ、将棋を指すコンピューターが可能となった。彼らは今目の前にある盤面から、無限の未来を想像する。そこにある現在には無数の可能性が内包されているのだ。

演劇もまたシミュレーションの芸術である。Aという役者がBという役を演じるのが演劇の基本的な仕組みだ。だから演劇の舞台上には、常にAとBという2人の「人物」が同時に立つことになる。作・演出の作者本介は今作ではその仕組みをさらに進めた形で利用し、主人公の将棋を指す男と、彼に関わる女を演じる役者たちに、複数の役を担わせている。将棋を指す男はアー君/たとえ/中村、女たちは阿藤さん/阿藤さんじゃない人、加藤さん/アー君妹、ランちゃん/マホと複数の名が与えられている。面白いのは役の切り替えがはっきりとは行われないところだ。アー君だと思っていたらいつのまにか中村になっていたというのはともかく、アー君であると同時に中村であるような場面さえ存在する。アー君でもたとえでも中村でもある男として舞台に立つ役者の姿は、複数の状態が重なり合ったままに存在する量子のふるまいを思わせる。

量子力学では量子のようにごく微小な物質の状態は確率を用いて記述される。観察以前のある量子の状態は今この瞬間、AかもしれないしBかもしれない。そしてそれは観察によって一定の確率でAあるいはBに収束するというのだ。観察以前の量子はAとBが重なり合った状態で存在することになる。量子の持つこのような性質はSF小説のモチーフとしてしばしば用いられる。たとえば東浩紀クォンタム・ファミリーズ』(つまり「量子家族」)は量子コンピューターによって生じる無数の可能世界を扱ったものだった。可能世界とはつまり「ありえたかもしれない世界」、平行世界(パラレルワールド)だ。世界は無数の可能性の重なり合ったものとして存在している。

『キメラガール』という作品は、舞台上に無数の可能性の重なり合った世界をそのまま構築しようという試みだったのではないか。アー君/たとえ/中村は別々の男ではなく、1人の男の複数の可能性に与えられた名前なのだ。そして時に人は、自らの失われた可能性を他者の中に見出してしまう。『キメラガール』の登場人物たちは互いのうちに自らのオルタナティブを探しているようにも見える。サラ金の球根叔父上(役名)はアー君を指して「俺の20代後半もあんな感じだったよ」と言う。彼が付き合っている阿藤さんはアー君の中学のときの憧れの女の子だった。ならば球根叔父上はもう一人のアー君だ。あるいは福沢とランちゃんの関係。放射能の影響で女としての機能を失ってしまった福沢は、妊娠したかもしれないというランちゃんの赤ん坊に拘泥する。女としての機能を失った福沢と対置されるかのように、男でも女でもある性=オカマとしてマインという登場人物がいる。あるいは、早稲田の文学部出身で本名が「山本」であるエロライター「女と出逢ってばかりの国」(役名、以下「国」)は明らかに作者本介(本名・山本健介)の投影としてある。演劇は舞台上に現実世界のオルタナティブを、世界の別の可能性を立ちあげる営みなのだ。

同時多発会話という手法もまた、世界の別の可能性を見せる手段として機能している。同時多発会話とはいかなるものか。作者本介の用いる同時多発会話は平田オリザのそれと異なり、自然さを装うことを目的としない。むしろそこにあるのは不自然かつ過剰な重ね合わせであり、全てのセリフを聴き取ることは容易ではない。舞台のそこかしこで会話が行なわれ、時に混線し、会話の相手が入れ替わり、そして時制さえも一定しない。互いに無関係のはずの会話が呼応し合い、新たな意味を紡ぐ。『キメラガール』の登場人物たちの多くは周囲の人間との意思疎通がうまくいっていない。恋人たちは別れ、別の相手と付き合い、それでも互いの思いはすれ違う。そんな中、舞台の異なる場所で発せられた言葉が互いに応答しあっているように聞こえることがある。あるいは、ある登場人物が発した言葉を直後に別の登場人物が発するようなことが。それはもちろん、作者によって巧みに配置された言葉なのだが、その瞬間には私たちをハッとさせるものがある。そこに見える意図せぬコミュニケーションの可能性。ありえたかもしれない会話や忘れてしまった過去からの言葉。今、目の前にいる相手に届かなかった言葉も、いつか、誰かに届くかもしれないという希望。終わってしまったはずの過去が現在に接続され、未来への可能性を取り戻す。そこにはわかりあえない失望と、届くかもしれないかすかな可能性が同時に提示されている。

作品のモチーフとなっている将棋もまた、一種のコミュニケーションである。だが、対局相手とルールを共有している将棋においてですら、相手の手を読み切ることはできない。ならば、ルールのない世界では? 作品の中盤、舞台中央には新たにもう一つの将棋盤が置かれる。そこで行なわれるのは将棋ではなく、山崩し(崩し将棋)だ。同じ盤面、同じ駒を使って行なわれる異なるゲーム。将棋のルールの通用しない世界。盤上の将棋の駒の山は瓦礫を連想させた。作中、「311以降でやっぱり断絶っていう物があるとおもうんです。(…)私達が変わる前に世界が変わっちゃったじゃないですか」というセリフがある。『キメラガール』の世界は「やや、神奈川よりの東京の住宅地。この世界の東京は復興しつつあり、人が戻りつつある。テレビが、再放送の繰り返しをやめて、またいつものように週一でバラエティを放送するようになった頃」に設定されている。作中には繰り返し放射能に言及するセリフもあり、作品世界が3.11.後の世界を反映していることは明らかだ。「変わっちゃった」世界で、私たちの「ルール」は通用するのか。 

しかし私たちに立ち止まっている時間はない。「待った」も「指し直し」ない。世界はいつまでも無限の可能性に開かれているわけではないからだ。タイトルの「120日間将棋」という言葉は、アー君の指す1日1手ずつ(観客の時間では1分1手ずつ)の将棋に由来する。始まったときには無数の可能性へと開けていたはずの盤面は、1手ごとに確実に終局へと向かっていく。『キメラガール』という作品も同じだ。開演前、さまざまな可能性を孕んでいた舞台は1つの姿、その日の上演へと収束していくのだ。23時59分、1日の終わりに駒の立てるカチリという音は時計の針の音にも似ている。私たちは日々選択し、人生の終わりへと1手を進める。 

タイトルの「キメラガール」はアー君に関わる3人の女の子、阿藤さん加藤さんランちゃんを指す。阿藤さんの顔、加藤さんの足、ランちゃんの声を持つ女の子(つまりキメラ)がアー君の夢の中に登場し、舞台上にはヨンミ(三位一体ならぬ「四位」?)として現れる。ヨンミこそがアー君が将棋を指している相手であり、彼女のもう一つの名「あから」は阿藤・加藤・ランの頭文字から取られているようだ。あから(阿伽羅)は10の224乗を意味する数の単位であり、将棋のあり得る局面の総数がこれに近いと言われている(ちなみに、2010年にプロ棋士とコンピュータープログラムの対局が行なわれており、4つのソフトウェアによる合議制の形を採ったそのプログラムの名が「あから2010」だった)。つまり「あから」という数には将棋の全ての局面が含まれているのだ。ならば彼女と将棋を指すことは、世界のあらゆる可能性と向き合うことだ。 

人は誰でも死ぬ。世界と対局する私たちには「負け」が運命づけられているのだ(2010年の対局においても人間のプロ棋士は敗北している)。アー君は死に至る病に侵され、放射能に汚染された世界は破滅への予感に満ちている。それでもなお、私たちは目の前の世界に向き合い、最善の一手を目指して選択を続けなければならない。そうすることではじめて、自らの人生を肯定できるのではないか。キメラガール=世界を内包する「あから」へのアンセムとはつまり世界への賛歌だ。それは単なる人生礼賛ではなく、ましてや現状肯定を歌ったものでもない。自らの生きる世界を受け入れるしかない絶望の中で、痛切に求められる希望なのだ。ラストシーン、底の抜けたコップから流れ出た水で水浸しになった将棋盤=世界を前にアー君は「これが、普通の生活か」と言葉を絞り出す。そこには失われた可能性への悲しみと過酷な選択の痛み、そしてそれでも生きていく者のたしかな強さが滲んでいた。