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contact Gonzo『Abstract Life《世界の仕組み/肉体の条件》』

 

0. 
本稿では2012 年9月、神奈川芸術劇場での企画、KAFE9の一部として上演(?)されたcontact Gonzo(以下ゴンゾ)の『Abstract Life《世界の仕組み/肉体の条件》』(以下『Abstract Life』)という作品を取り上げる。KAFE9の公式サイトではこの作品は写真展+サウンド・パフォーマンスとクレジットされているが、「+」の記号が端的に示しているように、それぞれは独立している。つまり、写真は劇場の入り口に展示されており、観客は劇場内でのサウンド・パフォーマンスの上演(?)の前後にその写真を見る(あるいは見ない)ことになるのだ。サウンド・パフォーマンス自体は事前に録音された音を多チャンネルのスピーカーから流すことでそれが録音された状況を立体的に再構築するという形式のものであり、基本的には視覚的な要素はない。ゴンゾの活動の中心は肉体のぶつかり合うパフォーマンスに置かれてきた。「ぶつかり合う」というのは比喩でも何でもない。メンバーは互いの体を押し、引っ張り、打ち合う。一見喧嘩のようにさえ見えるその動きこそが彼らのパフォーマンスなのだ。そんな彼らが劇場で発表する作品に生身の肉体が登場しないというのはなかなか奇妙な事態ではないか。彼らにとって/私たちにとって、『 Abstract Life』はどのような作品だったのだろうか。
作品の検討に移る前に論点を整理しておこう。前節で提示した作品の概要から既に複数の論点が見出せる。それは大まかに言うならば、「なぜこのような作品形式を採ったのか」という問いであり「この作品形式によって目指されたのは何か」という問いである。本稿では形式それ自体の検討に加え、そこで何が起きていたのかを検討することによって、つまり筆者の個人的な鑑賞体験を検討することによってこの問いに答えることを目指す。形式について検討するべき点は多い。サウンド・パフォーマンスはサウンド・インスタレーションとは違うのか。写真の担う役割は何か。生身の肉体の登場しない作品を劇場で「上演」することの意味は何か。それぞれの「トラック」は何を意図したものなのかという内容に関する問いもある。いくつかの論点は互いに関連することが予想されるが、ひとまずは以上のような論点に基づいて検討に移りたい。
 
1.
ゴンゾは以前にも肉体の登場しない作品を発表している。サウンド・インスタレーションとして発表されたその作品は、展示室に設置されたいくつかのスピーカーから、録音された音が流されるという形式のものだった。このことから、今回の『Abstract Life』において採用された肉体不在の形式は偶発的なものではなく、ゴンゾの活動の中で何か一貫したものを求めた結果、あるいはその途中経過であると言うことが出来るだろう。同時に、それぞれの作品に異なるレッテルが貼られていること、サウンド・インスタレーションとサウンド・パフォーマンスという二つの名称が使い分けられていることにも注意が必要だ。そこでは明確に違いが意識されている。両者の違いはどこにあるのだろうか。
まずはっきりと異なるのは観客の出入りに対する制限の有無だろう。サウンド・インスタレーションではそれが展示されている部屋への出入りのタイミングは基本的に観客に任されている。作品自体にある程度決まった持続時間、はじまりと終わりがあるとしても、展示室への出入りが制限されていないかぎり、観客が作品を鑑賞し始めるタイミングや鑑賞にかける時間をコントロールすることはできない。作品は時間的に開かれている。一方、劇場で上演される作品においてはそのはじまりと終わりは明確に指定されている。劇場作品においては観客はある一定の時間に生じる出来事をひとつのパッケージとして受け取ることになるのだ。これが一つ目の違いである。
時間的な区切りとともに重要なのは観客の身体に課される制限だろう。劇場での鑑賞は観客の身体を客席に固定する。もちろん、厳密に言えば劇場作品であろうと作品の途中で席を立つことは可能である。また、今回の『Abstract Life』に関して言えば、明かりが点いている間は自由に歩き回ってもよい、というアナウンスが事前に行われていた。だがこのアナウンスでは同時に、多チャンネルに振り分けられたスピーカーの位置の関係から、椅子が設置してある場所こそが鑑賞に最適であることも述べられていた。『Abstract Life』においてもやはり、基本的には席に着いた観客を想定していると言えるがしかし、このアナウンスはいささか奇妙である。上演中に席を離れることを許可しながら、同時に鑑賞中は着席状態にあることを推奨しているからだ。それは席の移動を認めるという趣旨のアナウンスだったのだろうか。だが筆者の記憶では、アナウンスは「席の移動」には触れておらず、あくまで「歩き回ってもよい」というニュアンスであったように記憶している。しかも席を離れることが許可されていたのは、上演時間のうち明かりが点いている間に限られていた。本論の冒頭でこの作品には「基本的には視覚的な要素はない」と述べた。だが、作品として見るべきものは提示されていないという事実とは裏腹に、照明の変化はあったのだ。そしてその変化は緻密に計算されたものであると筆者には感じられた。アナウンスが照明に言及している以上、観客が席を立つことと照明との間には何らかの関連があるのだろう。では照明の使用はどのような効果をもたらしたのか。
 
2.
照明によって観客には何が見えるのか。『Abstract Life』はKAATの大スタジオで上演された。スタジオ中央に複数台の(少なくとも四台以上の)スピーカーが置かれた正方形の台。その四辺を囲むように客席となる椅子が置かれ、客席を含めた大きな正方形のさらに四隅にそれぞれ複数台のスピーカーが客席に向けて設置されていた。客席は中央のスピーカーを囲むように設置されているため、照明が点いている状態で目に入るのは当然、まずはスピーカーである。もちろん劇場自体の様子も目に入るが、この作品のために設置されたもので目に入るのはいくつかのスピーカーとそれが置かれている台、そしてPAブースとして使用されているらしきテントで全てである。音が録音された状況を観客に想像させる鍵としてテントはあったのだろうか。たしかに音の一部は山の中で録音されているようではある。しかしこのテントは座る位置によっては完全に死角に入ってしまう場所にあり、照明を使った主な目的がテントを見せることにあったとは考えづらい。最後に残ったのは客席、観客である。
照明は客席を、観客を照らし出すために使われていた。だからこそ、照明が点いている間のみ、観客は歩き回ることを許されていたのではなかったか。ならば次の問いはこうだ。なぜ観客を照らす必要があったのか。しかも、照明には変化がつけられていた。いや、むしろ闇に変化がつけられていたという方が近いだろうか。照明の変化は、スタジオ全体の様子がかろうじてわかる程度の薄暗がりからほぼ完全な闇までのグラデーションを構成していた。観客自身の姿がうっすらと見える状態から完全に闇に沈んだ状態へ。両者を行き来することは何を引き起こすのか。それは観客の=観る私の身体の消失である。
 
3.
ゴンゾのパフォーマンスで強く感じるのは肉体の存在感だ。目の前で殴り合う体。体と体が接触するその瞬間に生じる音。吐息。圧倒的なリアリティ。それは『Abstract Life』というこの作品にもたしかに受け継がれている。全10トラックからなる『Abstract Life』のうち2トラックは、普段のゴンゾのパフォーマンスのような格闘の様子を収録したものである(あるいはそのように聞こえる)。ところが、彼らの肉体の存在感がリアリティを持てば持つほど、私たち観客は自らの身体がそこにはないという感覚に襲われる。映画や演劇の観客には決して生じ得ないこの感覚こそが、録音という複製技術が劇場空間においてパフォーマティブに生み出した効果であり、この作品の要なのだ。
観客の身体はいかに消え得るのか。映画や演劇において、鑑賞の対象となる作品と観客は別々の空間にある。これは物語世界であるとか劇場空間であるとかそういう難しい話ではなく、単純に客席と舞台あるいはスクリーンは物理的に別々の空間(=「ここ」と「そこ」)だという話である。その意味で、観客のいる空間と作品空間は決して重ならない(俳優が客席にまで入り込んだとしても、観客の身体が物理的に占めている空間と俳優の身体が重なることは不可能だ)。ところが、音が録音された状況を立体的に再現する『Abstract Life』においては事情は異なる。音=作品空間は観客の身体がある空間も含めた劇場空間に重ねて構築される。客席と四隅のスピーカーによって作られた正方形。そこでは劇場空間と作品空間が二重に重なりあって存在するのだ。向こうから来た人物(の足音)が私を突き抜けて向こうへ歩いていくこともあるだろう。そこで不在なのは私の肉体か、あるいは彼の肉体か。
照明効果が観客の感覚をさらに揺さぶる。うっすらと周囲が見える状態から暗闇へと移行するとき、今そこで鳴っている音と、客席で身動きもせず声も出さずに座っている私との関係は逆転する。照明がついている間、私たち観客の身体はたしかに存在する。それはそこに見えているのだし、歩き回ることだってできる。だが暗闇でリアリティを獲得するのは音だ。暗闇には彼らの存在感だけが響く。観客の身体はそこにはない。そして再び照明が明るくなる、今度は音のみの彼らが幽霊となる。照明の明暗が観客の知覚に作用する。優位に立つのは劇場空間か作品空間か。そこでは図と地は容易に入れ替わり、私たちは不安定な世界へと放り込まれる。
 
4.
そもそも、作品が「今ここ」ではない場所で録音された音を元に構成されている以上、音によって再現的に構成される作品空間に観客は不在である。作品の冒頭、「シャベル」と題されたトラックはその意味で非常に示唆的だ。そこに収録されているのはタイトルの通り、シャベルで地面を掘り起こす音である。だが、その音は私たちの目線と同じ高さか、あるいはそれよりやや上のあたりから聞こえてくるように思える。自分が穴を掘る作業を見ていると想像してみてほしい。地面を掘っているのだからそれを見る私たちの視線は地面より下へと向かう。ところが、スタジオの床に穴はなく、スピーカーは私たちの目線の高さにある。いくら立体的に音を再構築しようと、床より下の空間に音を響かせることは出来ない。穴を掘る音は上から聞こえてくることになる。では、それを聞く私たちはどこにいるのか。地面の下に埋まっているのだろうか。筆者の記憶では、この段階では照明はまだうっすらと周囲が見える状態だったが、観客の身体の不在は既にこのような形で暗示されていたのだ。私たちは大地の下に眠る死者だ。
トラック7「みかじり溺れる」ではこのような観客の身体の不在がさらに強調されることになる。ゴンゾの三ヶ尻敬悟が滝壺(?)に飛び込む様子を録音したこのトラックでは、滝の音、飛び込む飛沫の音、水中で三ヶ尻が立てたと思しき音などが聞こえてくるのだが、私たち観客の位置は明らかに水中にある。空間の高さを強調してうっすらと青みがかった照明は、水底から水面を見上げているかのような錯覚を呼ぶ。いずれにせよ、私たち観客が占めるのは生身の肉体には不可能な位置、死者の位置なのだ。
このように、観客の身体の不在は録音された音のディテールによってもまた補強されているわけだが、ではその音のディテールはどこから生じるのだろうか。もちろん、多チャンネルで収録された音自体の力に負うところは大きい。高性能なマイクによって録音された音はたしかなリアリティを持って私たちに訴えかける。だが、私たち観客はそれが何の音であるのかを本当に理解しているのだろうか。例えばトラック9「事務所02/果物の速度」。このトラックに収められているのは主にグレープフルーツと人体の衝突によって生じる音である。だがそもそも純粋に音だけを聞くならば聞き取れるのは「ドゴッ」という鈍い音のみであり、そこからそれが何の音であるかを判別することはほとんど不可能である。私たちがそれを飛んでくるグレープフルーツが人体に命中したときの音であると判断するのは、トラックに「事務所02/果物の速度」というタイトルが付されているからであり、スタジオに入る前に見た写真の中に、グレープフルーツをぶつけられる男性の写真があったからに他ならない。当日パンフと写真の展示が要請される理由はここにあった。当日パンフには全10トラックそれぞれのタイトルが示されるだけでなく、各々のトラックについて、三行程度の説明のようなものが付されている。展示されている写真は音の録音と並行して撮影されたものだ。だからそれらをヒントに観客は音から想像を膨らませることが出来る。つまり、写真と当日パンフの文言は、音へのキャプションとして用意されたものであり、私たちの想像はそれらによって誘導されたものであったのだ。トラック9には次のような言葉が添えられている。「事務所を水平に飛ぶ果物は、もはや見えなかったと言っても過言ではない。」果たして本当にグレープフルーツは飛んだのか。
 
5.
本稿では『Abstract Life』という作品がいかに観客の知覚に働きかけ、存在/不在のリアリティを生み出していたかを論じてきた。そこでは私たち観客の身体の存在は揺らぎ、作品空間のリアリティが立ち上がる。ところが、そこに見たリアリティ、つまり、音から想像した世界は、あくまで私たちが頭の中で作り上げたものでしかない。今作の副題《世界の仕組み/肉体の条件》はこのことを指したものではなかったか。そう言えば、中央のスピーカーの上には脳の模型が吊るされていたではないか。ゴンゾは劇場に不在の肉体を提示することで観客の身体感覚をあぶり出し、同時に、世界を観客の脳内に構築してみせたのだ。それは通常の、暗がりに身を潜めてそこで起きることを享受する観劇体験とは真逆の体験である。私たちが舞台を観るとき、世界は私たちの外部にあった。そう、見えた。ゴンゾの逆説は私たちを揺さぶる。世界はたしかにそこにある。だが、そこはどこだ?