柴崎友香『わたしのいなかった街で』

和食の味の決め手は出汁です。そして上質な出汁をとるためには丁寧な仕事が必要です。湯を沸騰させ、鰹節を入れる前に火を弱める。鰹節を入れたら風味が飛ばぬよう、弱火のまま3分。こまめにアクを取りつつ、再び煮立ってきたら固く絞った布巾でゆっくりと濾す。いえ、もっとそのずっと前からです。鰹をおろし、煮て、骨を抜き、燻す。カビを付け、落とし、天日に干す。これらの工程を経て完成した鰹節を削り、そして丁寧な仕事を加えてようやく、金色に澄んだ出汁が完成します。口に含んだ瞬間に広がる豊かな旨みと香りは、凝縮された時そのものです。
 
小説の話でした。『わたしのいなかった街で』では、他の柴崎作品の多くと同じように、これといった出来事は起こりません。語り手である「わたし」が夫と離婚し、それまで住んでいたマンションを売り払い、新居への引っ越しが済んだところから始まるこの小説は、たとえば「わたし」が新たな男性と巡り合って離婚の傷心を乗り越えるだとか、周囲の人々との関わりあいから少しだけ前向きな気持ちを取り戻すだとか、そういう「物語」を語ることはしません。この小説に描かれているのは世界のあり方です。
 
私がこの小説を読みながら思い浮かべていたのは電話をする母の姿でした。普段はまったくの標準語で話す母は兵庫県の出身で、学生時代の友人から電話がかかってくると関西弁でしゃべります。どこかの街につながっているその電話は過去にもつながっていて、そこには私の知らない母がいます。
 
『わたしがいなかった街で』というタイトルは、直接的には「わたし」が好んで見る戦争ドキュメンタリーの中の街を指す言葉で、「わたし」の祖父がいた広島を意味する言葉でもあります。小説はこんな一文から始まります。
 
「一九四五年の六月まで祖父が広島のあの橋のたもとにあったホテルでコックをしていたことをわたしが知ったときには、祖父はもう死んでいた。」
 
ここにはいくつもの「時」が織り込まれています。語る「わたし」の「今ここ」に重なる無数の過去。私たちが何気なく生きている「今ここ」は、いつも「今ここ」ではない時、場所とつながっている。
 
作中、海野十三という作家の日記が繰り返し引用されます。「わたし」がその日記を読んでいるのは、住んでいる街の名前がその日記に登場したからでした。そうじゃなかったら、この出会いはなかったかもしれません。
 
世界はたまたまでできています。私たちが時に因果だとか運命だとか呼んでしまうものは、結局のところ、たまたま、偶然なのです。柴崎友香はそのたまたまを、今こことそうでないものたちとのあり方を、丁寧に掬いあげる。だからそこには、たまたまそうであった世界のあり方への細やかな視線と、ありえなかった世界への痛みがあります。
 
「変えることのできない過去、取り戻すことのできない時間、絶対に行けない場所。それらを、思い続けること。繰り返し、何度も、触ることができないと知っているから、なお、そこに手を伸ばし続ける。」
 
料理の味は、そのときそのときの素材の状態やちょっとした調味料の加減、もしかしたらその日の気分によっても簡単に変わってしまいます。料理の出来は、必ず、いくらかは偶然によって決まるのです。だから、一皿一皿は一期一会でもあります。
 
『わたしがいなかった街で』は、世界を素材に、最小限の手わざで仕上げた一皿です。謎やロマンス、あるいは教訓などでこってりと意味づけされた小説では味わえない、素材本来の味わいがそこにはあります。刺身は包丁の入れ方ひとつで味が変わってしまいますが、柴崎友香の腕は熟練の寿司職人のように巧みです。新鮮な世界を、どうぞ。