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「として見る」こと ー村川拓也『ツァイトゲーバー』『言葉』のtheatricalityー

舞台
0.はじめに
 
村川拓也の『ツァイトゲーバー』は2011年のFESTIVAL/TOKYO(以下F/T)公募プログラムの一環として上演され、参加作品の中から優秀作品を選ぶF/Tアワードにおいて、受賞こそ逃したものの高く評価された。この評価を受け、続く2012年のF/Tでは主催プログラムの一環として『言葉』という作品が上演されることとなった。両者に共通して言えるのは、どちらも作品を構成する要素が極端に切り詰められた作品であるという点である。この事実は村川の「要らないものを捨て続け、『それでも演劇と言えるかどうか』というのを見極めるのが、僕の中では勝負だと思っています」という言葉に対応するものであると見なすことができるだろう。本稿はこの村川の言葉が『ツァイトゲーバー』『言葉』の両作品において具体的にどのように実践されているのかを探る試みとなる。特に、『言葉』という作品については今までのところこのような側面から作品を論じる試みはほとんどなされていない。紙幅の都合もあり、両作品の全体を詳細に検討することは叶わないが、『ツァイトゲーバー』を経由することで、『言葉』を「演劇」という観点から改めて考えるための端緒を示したい。

1.ツァイトゲーバー

『ツァイトゲーバー』は障害者介助を題材とした「演劇」作品である。舞台上では一日の介助の様子が再現される。出演者の工藤修三は役者ではなく、普段は実際に障害者介助に携わっている。一方、被介助者(フジイさん)を演じるのは観客の一人だ。開演前、村川によって「作品を手伝ってくれる女性の観客」が募集され、それに応じた観客がフジイさんを演じることになる。
 
ここでは「演じる」という概念が様々な角度から問題とされている。まず、介助者を「演じる」工藤は本物の介助者であり、舞台で行なわれる動作は日頃の業務におけるそれと基本的に同じものである。そこでは「自らとは異なる何者かを装う」という意味での「演技」は一切行なわれておらず、その意味では、工藤のしていることは表現/representationではなく実演/presentationであると言うことができる。一方、観客から選ばれたもう一人の出演者は正しくフジイさんを「演じる」ことになる。ところが、フジイさんを演じる観客が要請されるのは「何もしないこと」なのである。フジイさんはまぶた以外は動かすことのできない麻痺患者であるためだ。舞台上にいるその人物が「フジイさん」であることを保証するのは、客席からそれを見る観客の了解と、工藤による介助行為のみとなる。そこでは「演じる」行為もまた、ひたすらに受け身の形でしか存在しない。
 
このような状況の下に提示される介助の様子は限りなく「リアル」なわけだが、同時にそれらの行為は異化され続けてもいる。「フジイさん」の乗る車椅子はパイプ椅子で代用されており、当然、移動はスムーズにはいかない。工藤が「フジイさん」に話しかける際に必ず使用されるハンドマイクもまた、特に用いる必要性がないように思われるだけにより一層、観客に対してこれが「実演」であることをアピールする効果を持つだろう。「フジイさん」に課せられた条件もまた異化効果を持ち、こちらは「フジイさん」自身に作用する。上演の中で徐々に明らかになることだがフジイさんは男性であり、女性である「フジイさん」との間には距離が設けられている。上演前に「フジイさん」に対してなされる「上演中に三度、好きなタイミングで願いごとを言ってください」という指示も、言葉を発することのできないフジイさんを「演じる」には不要なものであり、実際に発せられた「願いごと」に工藤が一切反応を見せないことも手伝って、観客の中に大きな違和感を植え付けることになる。『ツァイトゲーバー』は実際の介助行為=「実践」から巧妙に距離を取った形で上演されているのである。
 
ところで、『ツァイトゲーバー』は障害者介助を題材としながら、それについての倫理的な問いを提示したり、あるいは観客に何らかの共感を促したりすることはしない。もちろん、個々の観客が上演を通して受け取るものはあるだろう。例えば百田知弘は「一方は、裕福な家庭に生まれながらも重い障害を負い、さらなる病の進行や突然の経済的な苦境などの危惧がつきまとう身。そしてもう一方は、高給は望めず肉体的にも厳しい仕事に就いてはいるが、休みには自分の両足で出かけて余暇を楽しむこともできる身。残酷なまでの不平等が、両者の間に、決して埋められない隔たりとして横たわる」とフジイさんと工藤の境遇の対比を指摘している。(百田知弘「言葉なき雄弁、あるいは、ままならなさの可能性」http://www.festival-tokyo.jp/gekihyo/2011/11/post-31.html)だが、障害者介助という題材から一歩引いてこの作品を眺めたとき、そこにはまた別の倫理的な問いが提示されていることに気づかされる。それはtheatricalityをめぐる問いである、とひとまずは言うことができるだろう。
 
『ツァイトゲーバー』は「演劇作品」として上演された。ここで「演劇」の定義や「演劇」と「パフォーマンス」との違いに紙幅を費やすつもりはないが、一体何が『ツァイトゲーバー』という作品を「演劇」たらしめているのだろうか。この問いに対する答えこそがtheatricalityであり、『ツァイトゲーバー』はこのtheatricalityを剥き出しの形で観客に提示する。theatricalityとは何か。明確な定義があるわけではないが、それはしばしば「わざとらしさ」と結びつけて考えられる。「意図的に演じられたもの、装われたもの」に対する感覚やそのような感覚を生じさせる何かをtheatricalityと呼ぶのである。それはつまり「本物ではない」という感覚であり、この「本物でなさ」こそが『ツァイトゲーバー』における観客の見る行為を可能としている。
 
theatricalityはそれを孕む出来事についてのあらゆる倫理的な問いを棚上げにし、観客がそれをただ見ることを是とする機能を持つ。theatricalityによって観客は舞台上で(あるいはそれ以外の場所で)生じる出来事にコミットする義務を免れ、代わりにそれをただ「見る」権利を得るのである。私たちの多くは普段、障害者をまじまじと見ることは決してしないだろう。もちろん、障害者に限らず、他人をまじまじと見ることそのものが一般的には失礼な行為にあたるのだが、対象が障害者である場合、そこにより一層の倫理的な規制が働くであろうことは想像に難くない。『ツァイトゲーバー』はこの倫理的な規制を無効にする。あえて露悪的に言うならば、舞台上で行なわれているのが実際の介助ではないがゆえに、観客は「安全に」それを眺められるのである。「フジイさん」が「ニセモノ」であることも観客の「安全」を保証する。本物のフジイさんが舞台に登場した場合、例えそれが本人の同意に基づくものであったとしても、観客の多くは舞台上で行なわれる介助の様子を凝視し続けることに抵抗を覚えるだろう。『ツァイトゲーバー』においてはこのような心理的な障壁は周到に排除されている。観客は舞台上の出来事を、それが常に「ニセモノ」であることを主張し続けているがゆえに、良心の呵責を覚えることなく見続けることができるのである。
 
theatricalityは観客に「見る」特権を付与する一方、舞台上で実際に起きていることに対する目隠しの機能を持つこともある。観客が舞台上の役者を役者自身としてではなく役として知覚するのと同じように、舞台上で生じる出来事はそれ自体としてではなく何かの表象として知覚されるのである。仮にこれらをフィクションの層とリアルの層と呼ぶならば、演劇における観客の知覚は常にこの二つの層に対する知覚の混合物としてある。もちろん、観客の知覚がそれぞれの層をどの程度の割合で享受するかについては様々な場合がある。だがいずれにせよ、舞台上に複数の層が存在していることに変わりはなく、演劇の観客はリアルの層を見ずにフィクションの層だけを見るという態度をとることも可能となるのである。『ツァイトゲーバー』においては、舞台上で起きる全ての出来事は障害者介助の一環を表象するものとして知覚される。それが絶えず異化され続けていようとも、観客のこのような態度は揺らぐことがない。例えば、工藤が「フジイさん」の座るパイプ椅子を引きずる様子は、観客に対しそれが実際の介助ではないことを主張しつつ、それでいて介助の様子を表象するものとして知覚される。そこでは工藤がパイプ椅子を引きずっているという事実=リアルの層は見て見ぬ振りをされることになる。
 
『ツァイトゲーバー』においてtheatricalityの持つこのような作用が最もはっきりと作用しているのは、工藤と「フジイさん」の接触に対する観客の知覚に対してだろう。舞台上で行なわれる介助行為には、当然のことながら、介助者と被介助者の肉体的な接触が含まれている。例えば布団に横たわる「フジイさん」を車椅子に移動させるためには、工藤が「フジイさん」を抱きかかえなければならない。現実社会においては、見知らぬ者同士の肉体的な接触は、それが異性間におけるものでなくても、特に必要がない限りは回避されるものである。異性間であればなおさらであり、特に、男性の側から見知らぬ女性に触れることはほとんど禁止されていると言ってよい。それにも関わらず、『ツァイトゲーバー』において、男性である工藤が見ず知らずの女性である観客の1人に接触する行為は、それが「介助行為の表象である」という理由で見過ごされるのである。一部の観客は異性間における肉体的な接触に違和感を覚えたかもしれない。しかしその違和感が積極的に表明されることはなかった。「見知らぬ異性間における肉体的な接触」というリアルの層は「同性間における介助/被介助」というフィクションの層によって覆い隠され、看過されることになる。
 
演劇の観客は自らの見る作品に対して倫理的な責任を負わない。フィクションの層についてはそれがフィクションであるがゆえに、リアルの層についてはそれがフィクションによって覆われているがゆえに、観客は舞台上で起きている出来事に対して行動を起こす義務を免れているのだ。『ツァイトゲーバー』が倫理的な問いを提示していたとすれば、それはこの点に他ならない。タイトルであるツァイトゲーバーはドイツ語で「時を与える者」を意味する。観客は村川によって/演劇によって特権的な時間を付与されているのであり、そのような演劇の原理=theatricalityそのものを剥き出しのまま、あからさまに提示することこそが『ツァイトゲーバー』の試みだったのである。そしてこのtheatricalityをめぐる思考/試行は、続く『言葉』においてもその変奏を認めることができる。

2.言葉

『言葉』は公演初日と二日目以降で、演出にいくつか大きな変更があった。ここからは筆者が見ることのできた初日と最終日との差異のうちの二つを手掛かりに、『言葉』の上演によって何が提示されていたのか、その一部を明らかにしていきたい。

一つ目の変更点は出演者の向きだ。初日には互いに向き合っていた出演者は、二日目以降は客席を向いて言葉を発していた。この変更について村川は二日目のポストパフォーマンストークで、「二人が向き合うことで過度にドラマが生じてしまうのを避けたかった」という趣旨の発言をしていたという。だがそれでは、向きの変更とともに舞台の中央に出現した二台のスピーカーは何だったのだろうか。出演者が発言の際には基本的にマイクを使うという点は初日から変わっていない。だが初日の時点ではスピーカーは舞台の奥、あるいは上に設置されており、少なくとも舞台に注がれる観客の目にスピーカーが触れることはなかった。最終日、舞台の中央付近に並んで据えられた二台のスピーカーは、それがほぼ唯一の舞台装置だということもあり、かなりの存在感を発していた。自らが観客の聞く声の発生源であることを誇示するかのように。そう、マイクとスピーカーは、役者の声が機械によって媒介されたものであることに観客の意識を向ける働きを持つのである。

二つ目の変更点は手話通訳者の立ち位置だ。初日には手話通訳者は一貫して舞台下手手前に立っていた。ところが最終日には、いくつかのシークエンスの後、彼女たちは(交代しながら通訳をする手話通訳者は全員が女性だった)舞台の中央に進み出て手話通訳を行なっていたのだ。舞台中央に手話通訳者、その左右やや後方に二台のスピーカー、そこからさらにグッと離れて舞台の奥、ほぼ角の位置に二人の出演者。手話通訳者を頂点にV字を描く形だ。観客の注意を手話通訳者へと集中させる演出だと言える。手話通訳者に関しては稲垣美実が興味深い考察を行なっている(「『言葉』の番人たち」http://blogcamp-festivaltokyo.com/『言葉』の番人たち/)。手話通訳は出演者たちの言葉から「余計な」言葉を、たとえば「あのー」などの特に意味のない言葉や関西弁のニュアンスを、削ぎ落としてしまうというのだ。これは手話通訳に限らず、言葉の通訳・翻訳に常に付きまとう問題だろう。ある言語を他の言語に変換する際、全てのニュアンスをそのまま伝えることはほとんど不可能だ。だがしかし、手話通訳によってないことにされてしまうのは、元の言葉のニュアンスだけだろうか。

通訳は通訳者自身の言葉を抑圧する。通訳という行為の性質から自明のことだが、通訳者が発する言葉は常に他人の言葉を変換したものであり、通訳者は媒介でしかない。その意味で、通訳者は舞台上に置かれたスピーカーと同じなのだ。観客は舞台中央に立つ手話通訳者を見ながら、その実、出演者たちの発する言葉を受け取る。手話通訳者の言葉はあらゆる意味で届かない。というのはつまり、観客の大多数には手話は理解できないからだ。そもそも、そこで行なわれている動きが手話であり、出演者たちの言葉を通訳した身ぶりであることを保証するものは、実は何もないのである。手話通訳者が出演者と全く違う言葉を発していたとしても、観客の多くはそのことに気付けない。

演劇の原理として「AがBを演じるのをCが見る」ということがしばしば言われるが、実はこの構造は通訳のそれとほぼ同じである。「AがBを示すのをCが受け取る」と言い換えると共通点が見えやすいだろうか。どちらにおいてもAはBをCに伝えるための媒介なのである。一般的に通訳においては、CがB(の使う言語)を解さないため、A=通訳者(とその話す言語)を経由したコミュニケーションが図られる。当然、CはA=通訳者が話す言語を解することが前提となるが、『言葉』においてはすでに指摘したようにそのような構図はズラされている。つまり、『言葉』においてはB=出演者の言葉をC=観客が直接理解しているにも関わらず、間にA=手話通訳者が置かれているのである。しかも、手話通訳者の言葉を観客のほとんどは解さない。結果として、観客は手話の意味内容を理解していないにも関わらず、「手話通訳者たちが出演者の言葉を手話に変換しているものとして見る」という事態が生じることになる。

『言葉』が「演劇作品」であるとされていたことに何らかの根拠があるとすれば、その理論的な根拠の一つはまさにこの部分に求めることができるだろう。村川は通訳の構造を脱臼させることで、観客に「として見る」ことを促したのだ。「として見る」こととはつまりtheatricalityに他ならない。『ツァイトゲーバー』において観客が工藤の行為を介助の再現として知覚したように、『言葉』の観客は手話通訳者の手話を出演者の言葉を変換したものとして知覚する。実質的に工藤の行為が異性への肉体的な接触であろうと、手話通訳者が実際には全く別の内容を手話として発している可能性があろうと、観客はそれに対して見て見ぬ振りをし、あるいは気づきもせずに、「として見る」ように誘導されていたのである。
 
3.おわりに
 
本稿では村川拓也の『ツァイトゲーバー』と『言葉』という二つの演劇作品を検討し、そこに共通するtheatricalityというキーワードを見出した。『言葉』については作品のごく一部しか扱うことが出来なかったが、「として見る」というテーマは作品全体に拡大/敷衍して考えることも可能だろう。例えば、作品の中盤で流されるスライドショーには軽快なBGMがついており、観客はそのスライドショーを楽しげな様子を写したもの「として見る」ように促される。実際、そこには出演者の被災地での笑顔を写したスライドも多い。そしてこのスライドショーがあることで、観客は自身がある予断を持っていたことに気づかされる。つまり、『言葉』が「被災地での体験」に基づいた作品であるという情報が、観客がそれを「真面目」なもの「として見る」ように方向づけていたのである。もちろん、この「として見る」はtheatricalityからは少々ズレたところにあるかもしれない。だが、ドキュメンタリー作家でもあるという村川の経歴を考えたとき、この「として見る」というテーマは、現実あるいは題材と作品の関係を考えるうえで重要なものとなるだろう。そこにドキュメンタリー作家としての姿勢が表われるからだ。ドキュメンタリー作家である村川が演劇を作るにあたってtheatricalityに強くフォーカスすることはある種の必然だった、と言うことができるだろう。