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範宙遊泳『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』について2

舞台
もう少し文字の扱いについて考えてみようと思う。作品の中である登場人物は「あ」という文字を失い(発声することができなくなり)、その「あ」はなぜか立体化/実体化して別の登場人物に飼われることになる。感情によって色を変えるという「あ」は人間の腰くらいまでの大きさのオブジェとして舞台上にも登場する。上演のほとんどの時間、舞台手前にあるプロジェクターから奥の壁へと映像が投射されているため、登場人物や小道具がその光を遮ると奥の壁には影ができる。実体化した「あ」は常に正面を向いているため、その影はそのまま「あ」の形で壁に映し出される。「あ」が拾われるシーンでは「あ」はプロジェクターによって投射される文字としてあり、つまりは平面の存在=文字から空間の存在=オブジェへと「あ」は変容したわけだが、さらなる逆転としてプロジェクターの光によってオブジェは文字へと還元されているのである。

登場人物の影はどうか。役者の多くは演技ゾーンの手前に控えており、出番が来ると手前→奥の方向に移動する。このとき、プロジェクターの光を遮るように移動するため、観客からすると、まずは奥の壁に映る役者の影が、その後に役者の身体が目に入ることになる。演技ゾーンは基本的に舞台の一番奥、壁の間際に設定されているので、役者がそこに立つ頃には役者の身体と壁に映る役者の影はほとんど重なることになる。平面的身体=影と空間的身体=役者の一致。壁際は平面と空間の接する場となり、そこで境界の乗り越えが行なわれる。

実際、平面と空間の境界はあまりにも簡単に乗り越えられるものとしてある。ある登場人物は自らを動画に撮り、それをネットにアップしている。空間から平面へ。さらにその動画の中には『リング』に言及している部分がある。平面から再び空間へ。あるいは近所のレンタルビデオ店では店員に「動画の方ですよね」と声をかけられる。ここでもまた平面から空間へ。いやいや、そもそもそこに境界などあっただろうか。文字が色を変えるなんて、そんなの最初から画面上のできごとに決まってるじゃないか。

作品の終盤、「呪い被害者の会」の集会の場面がある。この場面が恐ろしいのは、壁に写し出されているのが今まさに自分の存在している空間、STスポットだからである。私たちのいるこの空間は、いつの間にか向こう側へと送り込まれてしまった。ならばここはどこなのだ。

4月末、文学フリマに参加するために訪れたニコニコ超会議は画面の向こうから溢れ出た魑魅魍魎(としか俺には思えないモノ)で埋め尽くされていた。

というわけで、読もう読もうと思いつつ放ってある『イメージの進行形』を読んでみようと思う。

続く!