嘘と戯れる―須田悦弘の演劇性―

美術館の床に雑草が生えている。現代美術作家、須田悦弘の作品である。須田は精巧な木彫を様々な場所に置くことでそれをインスタレーションとして展示する。木彫のモチーフとなるのは一貫して植物であり、作品は部屋の片隅などに、あるいは専用の展示ボックスの中に設置される。

須田の作品は、それだけ見れば精巧な、しかし単なる木彫である。何の変哲もない木彫に現代美術としての性質を与えているのはその展示方法であり、その見せ方は極めて演劇的である、とひとまずは言うことができるだろう。例えばコンクリートやフローリングの床に置かれることの多い《雑草》という作品(同じタイトルの作品が繰り返し、様々な場所に作られている)。この作品の面白みは、生えそうもないところに雑草が生えているように見えるという点にある。このようなものの見方は演劇を見る観客の態度に近い。観客は舞台上で生じる出来事が本当のことではないと知りつつ、それを「本当のこと」として享受する。須田の作品もまた、そのような遊戯的鑑賞態度を要求するのである。

観客と作品との間に「ごっこ遊び」を成立させるためには、木彫はなるべく精巧な方がよい。その方が「リアル」だからだ。一方で、そこでは本物と見分けがつかないほどの精巧さは要求されていない。「ごっこ遊び」はあくまで遊びであり、本物と見紛うばかりの、つまりは本物にそっくりではあるがニセモノとしての徴をたしかに持った木彫こそがクオリティの高い「ごっこ遊び」を成立させるのである。だからこそ、須田の木彫は非常に精巧でありながら、精巧な木彫という範疇を越え出ることは決してしない。遠目に見ると植物と見紛うばかりの作品も、間近でその質感を確認すれば、むしろ木彫であることを殊更に主張するかのような質感に仕上げられていることがわかる。

さて、このような須田の作品はしかし、常にあるアンビバレンスに曝されることになる。観客が「演劇的」な展示を自明のものとしてしまえば、その面白さは半減してしまうのである。言うなればマンネリズムの一種ではあるが、須田の作品にとってそれは致命的である。なぜなら須田のインスタレーション作品は、木彫作品と周囲の空間との間に生じるギャップを利用したものであるからだ。須田の作品に慣れてしまった観客は木彫を含む空間全体を須田の作品として捉えてしまい(そしてそれは限りなく「正しい」認識なのだが)、木彫と空間との間にあるギャップを埋めてしまう。《雑草》が展示されていることを知っていてそれを見た場合と知らずにそれを見た場合を想像してみればその体験の差は歴然だろう。須田の作品を「宝探し」と揶揄する批判も、その意味ではあながち間違ってはいない。「宝探し」となってしまった時点で、つまり、作品のあり方を自明のものとしてしまった時点で作品の魅力は半減してしまうのだ。

このような事態は演劇では生じ得ない。なぜなら、演劇においては基本的に「ごっこ遊び」の中身にこそ焦点があるからである。一方、須田の作品において「ごっこ遊び」の中身として提示されるのは、それのみでは単なる工芸品であるとさえ言えてしまう木彫でしかない。つまり、木彫は「ごっこ遊び」の瞬間を浮かび上がらせる契機として、ほとんどそれだけのためにそこにある。ゆえに、「ごっこ遊び」であることをそもそもの前提として作品にあたる観客にとって、木彫は契機として機能せず、特別な瞬間がそこに生じることもない。「ごっこ遊び」であることを前提としてしまうことで、作品は逆説的に、単なる木彫作品となってしまうのである。須田の作品のバリエーションは、このような感覚の鈍化への抵抗としてあると言うことができる。そこでは様々な手段を以って、作品の「演じる」という位相が開示されていくのである。以下、千葉市美術館の須田悦弘展(2012年10月30日〜12月16日)で展示された作品を中心に、作品に用いられたいくつかの戦略を見ていきたい。

すでに述べたように、《雑草》という作品は繰り返し制作され、様々な場所に設置されてきた。設置場所のバリエーションは観客の感覚の鈍化を回避するための最も単純な手段であろう。今回の千葉市美術館では床のフローリングの継ぎ目から「生えて」いたが、コンクリートから生えていることもあれば(2002 ベネッセ・ハウス ミュージアム)、他の(須田とは直接関係のない)展示物の展示ボックスの中に生えていることもある(2012 サンフランシスコ・アジア美術館など)。特に展示ボックスの中に生えている《雑草》は、それが不可侵な空間であるがゆえに、大きなインパクトをもたらす。そもそも美術館という空間自体がそのような性質の空間であり、《雑草》という異物の侵入は、そのような空間の特性を改めて浮き彫りにする効果を持つのである。《雑草》はそこに生えているように「装っている」わけだが、ここで暴露されているのはむしろ、美術館という空間の虚構性であると言うことができる。

周囲の空間を異化し、その虚構性=演技の位相を暴露するよう機能する展示がある一方、展示する空間そのものも含めて作品として制作されているような作品の系譜もある。例えば《睡蓮》(2002)という作品は、4・5人の鑑賞者が同時に入ることのできるようなボックスの中に展示されている。ボックス内部の床には白いカーペットが敷かれ、円形にくり抜かれた中央部には黒光りする板が覗いている。その上に睡蓮を模した木彫が載っているのだが、これは全体として睡蓮の浮かぶ池を模した展示であるということができるだろう。もちろん、睡蓮以外の部分にリアルさはなく、それらは池に見立てられているに過ぎない(なんせ池は真っ黒であり、その周囲は真っ白である)。だがこのような見立てには、石庭などに連なる日本的な美意識のあり方を見出すことができる。ここでは観客は、自ら積極的に見立てに参加することを要請されることになる。あるいは、《泰山木:花》(1999)という作品。鑑賞者が1人ずつしか入れないようなごく狭い幅の、奥行きのあるボックスに展示されている。ボックスの最奥部、白い枠を持つ灰色の長方形に重なるようにして花の木彫が展示されている様子は、まるで壁にかかる掛け軸のようである。実際、ボックスの入り口から中を覗くと、それは一幅の絵のように見える。だが、ボックスは緩やかにカーブを描いているため、鑑賞者が歩を進めるに連れ、木彫の持つ陰影、それが壁に投げかける影の様子が変化して見える。鑑賞者の移動が、そこにあるのが絵ではなく立体であることを暴露するように設計されているのである。ここにもまた、「演じること」とその暴露の構図がある。

あるいは、木彫に「物語」を付与することで、「演技」の強度を高める手法も見られる。例えば、須田の作品には落下の様子をモチーフを取り入れたものが数多くある。今回の展示では《バラ》(2012)がそれにあたる。バラの木彫は壁のかなり高い位置に花を下に向ける形で貼り付けられていた。傍らには花から剥がれ落ちたと思われる一片の花弁が舞っている。落下のモチーフは、基本的に不動である植物に動きという物語を導入するために採用されていると見なすことができる。落下するバラが空中で静止しているというそのありえなさが「演技」であることを保証し、それを単なる木彫として見てしまうことから救っているのである。同時開催されていた「須田悦弘による江戸の美」における展示方法もまた、木彫にフィクションを加味する方向性の展示であった。《椿図屏風》(江戸時代前期)の傍らに屏風から零れ落ちたかのような《椿》(2002)が置かれ、あるいは雀を描いた絵の脇には《米》(2012)が点々と散っている。《椿》や《米》はあたかも絵の世界から現実世界へと越境してきたかのようにそこにあり、そのようなコンテクスト=物語の下に鑑賞されることになる。これらの作品においては木彫作品の提示と同時に、作品に重ねて見るべき物語があからさまに提示されており、観客はその「つくりごと」を自覚的に了解して作品を鑑賞するのである。そこには「フィクション」の立ち上がる瞬間がある。

須田の作品はたしかに美しく、木彫としての完成度も非常に高い。だが、観客が須田の作品に思わずニヤリとするのは、そこに「遊び心」があるからに他ならない。須田は木彫という即物的・具体的な作品を通してフィクションと戯れて見せ、観客もそのゲームに参加するよう誘われる。そこには何か、演劇の本質、いや、人間の本質とでも呼ぶべきものが見え隠れしてはいないだろうか。須田悦弘の作品はフィクションに快楽を覚える我々の本能を刺激してやまない。

【この文章は映画美学校批評家養成ギブスの最終課題として執筆されたものであり、修了文集である「クリテカ!」に収録されたものの再録です。】