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範宙遊泳『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』について3

舞台
昼に2回目を観てきた。佐々木敦×山本卓卓のアフタートークでは「今の人たちは日常的に文字とコミュニケーションしている」「文字が出てくるとそれを読んで想像するから、荒唐無稽な内容でも観客と同一化する部分が必ず出てくる」といった話が出た。

前回観たときと少しだけ違っていたのは、観客が多かったからだろうか、舞台となっている畳の上にも座布団の客席が用意されていた点である。これは「呪い被害者の会」の場面で大きな効果をあげていた。自分が最前列に座っていたこともあり、劇場の観客が「被害者の会」に参加しているかのような錯覚を覚えたのだ。さて、以下は再び考察の続きである。

『さよなら日本』にはあからさまな(そしてさまざまなレベルの)謎が無数に存在しており、作品のオープニング(何が語られているのか)とエンディング(なぜそのように終わるのか)もまた、大きな謎である。

オープニングでは出ていった「君」への「俺」からの語りかけが文字として壁に投影されるのだが、「君」と「俺」が何者であるのかはそのセリフからは読み取ることが出来ない。というか、最後まで作品を観たところで冒頭のシーンは謎のままである。「君」=マリ、「俺」=カッちゃんというのが1つの可能性だが(作中で「出て行く」女性はマリだけである)、答ははっきりとは提示されない。しかも、作品の冒頭部はそのような謎とは異なる部分で観客に強いインパクトを与える。「俺は君の服をどけるだけ」というセリフ(ちょっと違うかも)が表示された直後、舞台上のイスに無造作にかけられていた服がズルズルとひとりでに動き出すのである。あたかも服それ自体が意思を持つかのように。ここに至る言葉にもその萌芽はあった。「0.5ミリのボールペンのインクは切れないだろう」「何もせずとも手帳の予定は埋まっていくだろう」といった「君」の失踪とは一見したところ関係なさそうな言葉たち。そこで語られるモノたちはあたかも意思を持っているかのようである。そして動き出すシャツ。あるいは、マリが最後にはイスになってしまったことを考えるならば、冒頭に置かれていたイスもまた、もとは人間(カッちゃん?)だったのかもしれない。いずれにせよ、そこで語られる無人の風景は奇妙な平穏で満たされているようであった。誰もいなくなってしまった場所。残り続けるモノ。この作品もまた、あの日以降の作品であることから逃れることはできない(あるいはそれを観る私自身が)。

無人の風景はラストで再び繰り返されることになる。戻ってきた夫(なぜ戻ってきたのだろうか?)が「あいちゃん、今夜は子作りしよう」と言った直後、「50年後にはみんな死にます。私たちはそれをじっと見ています」という言葉が投射されて作品は終わる(たしかイスに光があたる)。死にゆく人間と残されるモノ。つらなる生命とただ朽ちゆくしかないモノ。

続く。