読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

範宙遊泳『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』について4

舞台
冒頭の「モノ」ローグが終わるとハヤシエリコという女性が登場する。彼女は周囲の人間に点数を付けている。道に唾を吐いたら10点、すれ違いざまに舌打ちをしたら3点。バイト先の店長は少し前まで86点だったが色々あって今は1点だ。続けて登場する店長はハヤシエリコのことをモグたんあるいはもぐもぐぐもぐ子と呼ぶ。そこで行なわれているのは対象を名指す行為であり、与えられた名=言葉は対象を、そして自分を縛りつける。つまり、それは呪いだ。ハヤシエリコは自分を泣かせた店長に呪いをかけ(0点をつけ?)、店長は行方不明になる。

マリは泥酔して見知らぬ男と寝ては後悔するという悪癖を持つ。彼女の主観的にはその行為に自らの意思は介在していない。いや、それは酔わずともそうなのだ。朝、男の財布から金を盗って逃げ出そうとしたところを「どうしてそんなことするの?」と咎められたマリは「わからない」と答えるしかない。流されるままに生きる人間とモノとの間にいかほどの違いがあるだろうか。

点数をつける、キャラづけをする、年齢や立ち場で相手を捉えるといった行為もまた、ともすれば非人間化への契機を含むだろう。人を人と見なさぬ態度。あるいは生身の役者と投射される文字との対話もまた、そのような態度の発露と見なせるかもしれない。

作品内で2度目の過ちを犯したマリが朝の街を歩く場面。影絵とパステル調の映像で表現される街並みとマリの歌、そして飛び交うシャボン玉が美しいこの場面が観客の胸を打つのは、それがただ美しいだけでなく、そこに悲しみがあるからだ。ペラペラの書き割りのような街を歩くマリ。いや、書き割りのような街もときに美しく輝く瞬間がある。

物語のラスト。店長の妻であるあいは夫のことを忘れており、ついには彼女の胸から「夫」という文字も逃げていってしまう。必死にそれを抑えようとするあいたちの努力も虚しく、空へ空へと上っていく「夫」の文字。ところが「夫」が消え去った次の瞬間、生身の夫が帰ってきてこう告げる。「今夜は子作りしよう」。

例えばこの場面をポジティブに解釈するならば、「夫」というレッテルを放棄することで再び生身の夫と向き合うことができるようになった、と見ることができるだろう(そう言えば彼女の携帯には夫の番号は「旦那」と登録されていた。夫個人の名前ではなく関係を表す言葉としての「旦那」)。

だが、「子作り」=セックスがこの作品において重みを持たないこともまた事実である。泥酔して見知らぬ男と寝るマリ。処女であるにも関わらず(だからこそ?)ナンパしてきた男とその日のうちに寝てしまうヨーコ。イスになってしまったマリはカッちゃんに押しのけられ、隣のイスとキスしてしまうことになるのだが、セックスもまたモノの接触と大して代わりのないものとして表象されている。

続く。