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演劇をめぐる言葉について

舞台

この文章はワンダーランドに掲載された『紙風船文様』のクロスレビューhttp://www.wonderlands.jp/archives/23433/)への西尾さん(『紙風船文様』構成・演出)の応答(http://www.wonderlands.jp/archives/23742/#more-23742)から派生したやりとり(http://togetter.com/li/504546)の続きです。

どう書こうか迷ったのですが西尾さん宛てに書くことにします。

 

 基本的には西尾さんのおっしゃる劇評に関する諸々(「何が見えた」の積み重ねが大事、作家の意図とは別の作品に対する妥当な読みがあり得るetc...)に異論はありませんし、「批評家が頑張ってくれよ」という言葉にも書き手のひとりとしては「精進します」と言うほかありません。

ですがその一方で、作り手からの発信もまた、やはり必要なものだというのが僕の考えです。以下ではそのことについて述べます。

西尾さんのおっしゃるように演劇をめぐる批評活動は現状では決して十分に(量・質ともに)行なわれているとは言えないと思います。

では演劇をめぐる言説を豊かにするためにはどうすればいいのでしょうか。何もしなくても登場してくる書き手は少数ですし、演劇を語るのに十分な言葉を獲得することができる書き手はさらに限られてくるでしょう。優秀な書き手を生み出すためには(そして演劇をめぐる言説を豊かにしていくためには)土壌としての活発な言語活動が必要なのではないでしょうか。

上演を観たあとに(あるいは観る前にでもいいのですが)劇評などその作品をめぐる言説に触れる習慣のある観客がどの程度の割合でいるのかはわかりませんが、劇評はあくまで作品に対して2次的なものです。劇評は書き言葉なので時間的な射程は広いですが、一方で、今まさに上演されている作品には間に合わないことがほとんどです。

劇評はある作品を観ることができなかった人に作用することができる一方で、その作品を観た観客には届かない可能性がある。演劇は上演の場に立ち会わなければ体験できない芸術形態ですので、劇評は演劇の「弱点」を時間的射程によってカバーし得るものであり、それが劇評のひとつの存在意義です。しかしその「遅さ」は劇評の弱点でもある。どのような上演からどのような言葉が生まれるのかを知ることができるのは「上演の場に立ち会い」「劇評を読んだ」観客だけです。さらに言えばそもそも「その作品に対する劇評が書かれる」必要があります(書かれなければ読む機会は存在しません)。そのことを考えると、上演とそこから生まれる言葉の関係について考えることができるのは観客の中のごくごく一部であるということになります。

一方、作り手から発信される言葉の場合はどうでしょうか。さまざまな媒体による発信が考えられますが、webにせよ当日パンフにせよアフタートークにせよ、それらは劇評と比較すると、観客に直接届く(上演とともに観客に届く)可能性の高い言葉であるということができるでしょう。作品そのものによっても思考は生まれますが、言葉が与えられることではじめて可能になる思考もあります。作品に触れると同時に言葉にも触れること。そのことによって思考が生まれ、語る言葉が獲得されていくのではないでしょうか。未来形の観客に届けるのは劇評の役目ですが、現在形の観客に思考の道具としての言葉を与えるのは作り手(側)の役目でもあると思います(もちろん、劇評とは別の形で書き手がここに関わることは可能だししていく必要があるとも思いますが)。

形の残る芸術においては作り手が一切発信をしなくても作品とそれをめぐる言葉を同時に享受することは可能です。作品と言葉を同時に享受することでそれらがいかなる関係を結んでいるのかを検討する機会が生まれ、次の世代の書き手がそこから学び育っていく。作品を享受する機会の限定される演劇においてそれを可能にするには作り手側が言葉をより積極的に発信していくべきだと思います。多くの観客が思考する言葉を手に入れれば自ずとより多くの書き手が育つようになるでしょう。

作品とそれをめぐる言葉を同時に享受する機会を提供することが書き手の養成につながり、演劇をめぐる言葉を豊かにすることが演劇を豊かにすることつながる。作り手も発信する「べき」であると僕が考える理由のひとつ目は以上です。


ふたつ目。

今の演劇批評には作り手の意図とその達成度を検証する形の批評が少ないのではないでしょうか。作り手の意図していなかった読みを展開したり、作り手が言語化できない部分を言語化したりするのも劇評の機能ですが(そしてそのようなものが書けるようになりたいと切に願っていますが)、作り手や作品を評価することもまた劇評の機能です。書き手が作り手の意図に寄り添う必要は必ずしもありませんが、同時に、寄り添った形の批評も絶対に必要です。作り手が自分の試みを検証し、「次」につなげるための批評。それは作品への「読み」を限定するリスクと十分に釣り合うものであるように思われます。検証と研鑽のためには作り手側が手の内を明かすことも必要です。

(ただ、このふたつ目の理由についてはさまざまな場合があるだろうなとも思っています。自分の試みを言語化することの不得手な作り手もいるでしょうし、言葉にすることでそれに自ら縛られてしまう作り手もいるでしょう。僕は作り手の生理は分からないので、もしかしたらほとんどの作り手にとって、外側からの評価は研鑽や深化の役には立たないのかもしれませんし。ただ、「意図を汲んでもらえない」という甘えや根拠不明の評判(Twitter上での「面白かった」などですね)に依拠した驕り(「自分たちは面白い」!)も一部に確実に存在しています。そんな連中は相手にするなと言われればそれまでですし、実際問題として自分が関わることは少ないですが、そのような作品や作り手は演劇への参入障壁となりかねません。ある人がはじめて観た演劇が全く楽しめず、誉められている根拠もはっきりしない、となればその人はもう二度と演劇を観ないかもしれません。それは演劇にとっての損失です。あるいは面白い試みをしているにも関わらず、方法がマズいがために試み自体が看過されてしまうということもあるでしょう。もちろんその時点でその作品は失敗ですが、自ら意図を発信することで改善への手がかりが得られるかもしれません。いずれにせよ、作り手からの発信が増えることは演劇の状況の改善につながる、というのが僕の考えです。)


もちろん、発信を積極的にしていこうという試みをすでに行なっている劇団や団体もあります。柿喰う客は毎公演後にアフタートークを行ない、トークの冒頭で作品の意図(的なもの)を説明するのが恒例になっているようですし、サンプルのサンプル・クラブもまた広義の発信であると捉えることができます。あるいはSPACでは演目ごとにエッセイや批評を掲載した「劇場文化」という冊子が配られています(もちろん、公共劇場だからできるのだと思いますが…)。ただ、演劇全体としてはまだまだ作品とともに言葉に触れるための十分な機会が提供されているとは言えないのが現状だと思います。

ロールモデルとしてはドイツのドラマトゥルク(http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4883032787/ref=redir_mdp_mobile)を念頭に置いています(そもそも演劇をめぐる状況が全く異なるのでそのまま当てはめるわけにはいきませんが)。日本のドラマトゥルクは創作プロセスへのコミットに重点が置かれていることが多いように僕には見えますが、ドイツではドラマトゥルクは観客と作品との批評的橋渡しの役割も担います。作品の関連図書を紹介したりプレトーク(これは日本ではあまり実施されませんね)やアフタートークを準備したり。作り手の側にこのような機能を用意することで(書き手を活動の中に取り込むというのも選択肢のひとつだと思います)、広く観客に思考の道具としての言葉を与え、深く作品に潜ることが可能になるというわけです。

以上が僕が演劇に携わる人間として「作り手からの発信もあるべきだ」と強く考える理由です。

が、一方で僕は演劇に書き手として携わっている人間ですので、作り手からの発信がなくても十分な劇評を書かなければいけないとも思っています。こちらは書き手個人の責任として。


なんだか我ながらエラそうだなあと思うところもありますが以上です。