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他者を殺す想像力 鳥公園『蒸発』

舞台
「わたし」には「あなた」の考えていることはわからない。ただ想像するしかない。たとえば平田オリザ/青年団の演劇において、登場人物の内面は緻密に組み立てられた表層によってのみ観客に示唆される。役を演じる俳優がそのとき何を考えているのかは問題とされない。ある俳優はその日の夕飯のことを考えていることさえあるという。しかしそのことを観客が知ることはない。夕飯についての俳優の思考は駆動する観客の想像力によってなかったことにされてしまうのだ。

芸劇eyes番外編第2弾『God save the Queen』で上演された鳥公園『蒸発』(作・演出:西尾佳織)が描いていたのは理解できない他者の存在と、そこに働く想像力の暴力だった。

登場人物は2人。櫓のようなものの上に立ち、向かいに住む(?)ヒロキという男の生活を覗いている「森ちゃん」とそのルームメイトらしき「野津ちゃん」。ヒロキはどうやら自慰行為の最中らしい。その様子をブツブツとつぶやく「森ちゃん」。「野津ちゃん」はそんな「森ちゃん」に対してさまざまなコメントをする。

『蒸発』には他者の内面を想像するセリフが多い。ヒロキの自慰行為を報告する「森ちゃん」のセリフはいつしかヒロキ自身の記憶や心情の吐露(についての妄想?)へとスライドし、「野津ちゃん」の「森ちゃん」へのコメントはいつしかヒロキを観察する「森ちゃん」の心の声のように響きはじめる。「森ちゃん」にとってのヒロキ、「野津ちゃん」にとっての「森ちゃん」はそれぞれ理解不能な対象であり、彼女たちはつながれない相手との距離を埋めるために相手の内面を想像する。

だがそこで生み出されるものはどこまでいっても想像≒妄想でしかない。「そんなこと考えてない」という「野津ちゃん」への「森ちゃん」のセリフに端的に示されているように、他人の心を読み取ることはできないのだ。それどころか、想像力による他者の内面の創造は、逆説的に他者の真の内面を覆い隠してしまう。「相手がどう思うか想像してみよう」という一見したところ道徳的なフレーズは、「相手がどう思うかを完全に理解することはできない」という単純な事実を忘れたとき、他者を殺す暴力として作用する。

何の脈絡もなく挿入されるように思われる食肉用の鶏を巡るエピソードはこのことを強く示唆する。効率的に食肉を生産するために品種改良されたその鶏は脳を持たずに生まれてくるという。殺されるときに鶏が感じる苦痛を取り除くためには、そもそも苦痛を感じる器官である脳を持たなければよい。グロテスクな思いやりは鶏の「心」を殺す。

ヒロキが鶏との性行為に及ぶというエピソードもまたこれとは無関係ではない。ヒロキに押さえつけられてなお抵抗を示さない鶏の姿は食肉用の鶏のイメージと重なる。そこでも内面は必要とされていない。性欲の捌け口に心はない方が都合がいいのだ。

西尾は当日パンフレットに「理解できない、したいとも思えない他者がいる感覚」を「考えたいと思って、この作品を作った」と書いている。「理解したいと思えない(理解する必要のない)他者」を前にしたとき、人は自らの想像力を停止するだろう。相手の内面など考えない方が都合がいいことは多い。思考停止はわかりやすい「暴力」の形だ。一方、「理解できない他者」を前にしたとき、多くの人は理解しようと想像力を働かせるだろう。だがその想像力もまた「暴力」として働くかもしれない。

作品のラスト、「野津ちゃん」はそれまでの部屋着から着替えて出かけて行く。出かける理由はわからない。作品の中で「野津ちゃん」について語られることは少ない。観客は「野津ちゃん」のことを想像する。一方、過剰なまでに語り語られた「森ちゃん」のこともまたわからないままなのだが、果たして「森ちゃん」に想像力を働かせる観客はどれほどいたか。

わかったフリをすることとわからないままに措くこと。想像力の暴力から逃れる術はあるのだろうか。