ハリボテの世界 冨士山アネット/Manos.『Woyzeck/W』(マノスver.)

ヴォイツェクには常人には見えないものが見え、聞こえない音が聞こえる。医者に精神錯乱であると診断されるヴォイツェクの見る世界。しかし常人の見る世界とヴォイツェクの見るそれの果たしてどちらが正常なのか。2つの世界に確たる境界はあるのか。

冨士山アネット/Manos.『Woyzeck/W』(マノスバージョン=演劇)に特徴的なのは小道具による見立てである。舞台装置は極めてシンプル。舞台奥にはホワイトボードが立ち、その手前の空間に円を描くようにして雑多な小道具が置かれている。それらはヴォイツェクの生きた200年前のモノではなく、ボトル型缶コーヒーの缶やペットボトル、荷物を運ぶためのキャスターや洗濯籠など現代の雑貨の類だ。これらの小道具による見立ては極めて効果的にイメージの連鎖を生み出していた。例えば毒々しいまでに赤いヘッドフォン。鼓手長からヴォイツェクの内縁の妻たるマリーに贈られるイヤリングに見立てられるそれは不貞の証であり、鼓手長とマリーが踊るための音楽をもたらすものとしてもある。そしてマリーの首へとかけられたそれはそのまま罪の証、ヴォイツェクによって殺されたマリーの首に開く赤い傷口となる。赤のイメージはマリーの唇の色やマリー殺害の夜に浮かぶ真っ赤な月と響き合い、月に見立てられた赤い風船はマリーの死の瞬間に破裂する。あるいは、加速するヴォイツェクの狂気を示すものとしての電気シェーバーや電動鉛筆削り。ヴォイツェクの副業である髭剃りと直接的につながる電気シェーバーは逃れ得ぬ日常の圧力と、鉛筆削りによって尖らせられ消耗させられていく鉛筆はヴォイツェク自身と重なって見える。ヴォイツェクがマリーの殺害へと向かう場面の背後でこれらの道具は狂気を掻き立てるかのように耳障りな騒音を発し続ける。他にも影絵や映像による演出が、色とりどりの小道具から様々なイメージを作り上げていた。

現実の事物とそれが生み出す様々なイメージ。実は両者のこのようなあり方は老婆の語る童話の形で戯曲の中にも書き込まれている。世界にひとりぼっちで残された子どもがたどり着いた月は「腐った木のかけら」、太陽は「枯れた向日葵」、星は「小さな金色の油虫」であり、仕方なく帰ってきた地球ですら「ひっくり返った壺」でしかなかったということがわかってしまう。そして「今でもその子はそこに坐ってひとりぼっちでいる」という。戯曲ではヴォイツェクによるマリー殺害の場面の直前に置かれているこの挿話は、「信じていた世界の崩壊」を示唆するものと見なすことができるだろう。見えている世界と世界の実体。太陽・月・星の影絵で表現されるこの場面は上演の中でも際立って美しいものとして、そして孤独の悲しみを湛えたものとして印象深い。他者と世界を共有できなかったヴォイツェクの深い孤独。

だが、そこにはないものを見てしまうのはヴォイツェクだけではない。観客もまた、舞台上にそこにはないものを幻視し、イメージの虜となっていたではないか。私たちは自らの見たいように世界を見てしまう。今見ている世界がハリボテでしかないと気付いたとき、私たちはまだ正気でいられるだろうか。他者と決して共有することのできない世界の中で、壺の中に引きこもらずにいられるだろうか。『Woyzeck/W』は見立てという極めて演劇的な仕掛けを使ってヴォイツェクの孤独と狂気を観客に突きつける。

*今回の公演にはアネットバージョン=ダンスとマノスバージョン=演劇の2つのバージョンが存在する。これは演劇バージョンについての劇評である。