読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

useful_days 9/28:KYOTO EXPERIMENT 2013 使えるプログラム支援系A

useful_days KEX
本日よりKYOTO EXPERIMENT 2013(http://kyoto-ex.jp/)がはじまります。
僕は「使えるプログラム支援系A」というのに参加して劇評などを書いていく予定。
ここでは劇評とは別にuseful_daysと題して日記的なものを書いていきます。

「使えるプログラム支援系A」とは何でしょうか。
「使えるプログラム」のweb(http://kyoto-ex-useful.jp/)にはこうあります。

「劇は使える」をコンセプトに、「劇」という、劇場や舞台といった意味に制限されがちな概念をとりあげ、その素材や領域を問い直し、思考する場を生み出すこと。そして劇を認知する回路が、日常の関係やコミュニケーションにおいても使える、ことを示そうとするプログラムです。
これだけ読んでもよくわからないかもしれません。一方、「支援系」についての説明は明快です。
「使えるプログラム」では、参加の仕方や度合いを参加者自身が選び、本プログラムを「いかに使うか」を考えることができるユニークな[支援系]も特色のひとつです。
[支援系]には[支援系A]と[支援系B]というふたつの関わり方があります。
[支援系A]は、ゲストへのインタビューや、トークイベントでの発言、ゲストと並んでの上演・ワークショップといった企画などを行うことができるもの。

[支援系B]は、本プログラムの制作現場や、会期前の批評講座を通して、批評的なまなざし・行動力・経験を得ることができるもの。

僕は「使えるプログラム」を「使って」劇評などを書いていくわけです。ちなみに支援系ABはともに公募で選ばれ、支援系Aの他の2人の参加者はどちらも演出家です(たぶん)。

さて、「使えるプログラム」全体に話を戻します。「劇を認知する回路が、日常の関係やコミュニケーションにおいても使える」とは一体どのような事態を意味するのでしょうか。

「使えるプログラム」に用意されたプログラムに目を向けてみると、『おかず石』(http://kyoto-ex-useful.jp/ws)というワークショップが用意されています。

あまからすっぱいものは、栄養があるとわかっているので、味わうことができるようになったのかもしれない。だけど舌への刺激という意味では、もっと他の、栄養のない、まだ味だと思っていないものも味わえるはず。
好みの石を拾い、煮沸消毒ののち、ご飯のおかずにします。
味わいの新次元を探求しましょう。
ますますわかりません。「劇」はどこへ…?と言うかそもそも石をおかずにする…?ところが、ここに『ウィルキンソンと石』という上演プログラムを並べると見えてくるものがあります。
どうして味のない炭酸水は飲まれるようになったのか。どんな判断が、なぜ下されたのか。
そのときどきに機能した判断基準を近代日本にはたらいた「演出」としてとらえ、ほかの局面でも適用できる形で引き出します。
その判断基準たちは、再び私たちにも使えるものなのでしょうか。そしてまだ、私たちにはたらいているのでしょうか。
認知の拡張を追ってきたけのびが、石を味わう『おかず石』の実践をふまえ、舌を発端に、身体をも書き換えるすべを探る、野心的な新作を発表します。
舌への刺激を味覚の一部と見做すこと。この「見做す」という行為は極めて演劇的です。一般に演劇はAという俳優をBという役と「見做す」ことによって成り立つからです。そして実のところ、「見做す」対象は人間に限りません。上演中、舞台上のあらゆるものや出来事が何らかの意味で見做しの対象となっているのです。

そう考えるとni_kaによるAR詩劇『キャラクターズ・リブ』がプログラムに並んでいることも頷けます。セカイカメラで拡張現実(Augmented Reality)を実際の街並みに重ねることで展開される「詩劇」。しかも舞台となる出町柳商店街はアニメ『たまこまーけっと』やご当地萌えキャラ「加茂川マコト」の「聖地」だそうです。ARを重ねるまでもなく、そこでは現実は拡張され、物語の舞台と「見做されて」いるのです。

もちろん、このような関連づけは僕自身の「使えるプログラム」に対する予断でしかなく(同時に予断もまた一種の「見做し」でもあるわけですが)、「使えるプログラム」で見出される「劇」の「素材」は「見做すこと」に限らないでしょう。しかしひとまずは「こんな感じ」をもって、いよいよ明日、実際のプログラムに参加してみます。

(今日は「使えるプログラム」を口実に「使って」鳥取で行なわれている鳥の演劇祭まで足を伸ばしたのですがその話はまた改めて)