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useful_days 10/9:村川拓也『エヴェレットラインズ』

村川拓也は『エヴェレットラインズ』の当日パンフレットに次のような文章を寄せている。
 
1.30人〜40人の人々に手紙を送った。手紙を受け取った人々はこの作品の出演候補者である。手紙には指示が書いてある。その指示に従う場合は当日劇場に来て出演者として振る舞う。指示に従わない場合は当日劇場に来ない。この作品は、出演者未定の演劇作品である。
2.上演中にプロジェクションされる字幕は、手紙を送った人の名前、居住地、職業、年齢、そして手紙に書かれた出演時間と指示の内容である。
3.出演者は出演が終わると劇場を出て、それぞれどこかへ帰っていく。だからカーテンコールはない。 
 
まるでゲームのルール説明のようなこの文章が『エヴェレットラインズ』という作品のほとんど全てを説明している。さらに、
 
その人が生きているか死んでいるかを知る為には、その人が目の前にいないと判断できない。今、あの人はどこかで死んでいるかもしれない。
 
という文章は『エヴェレットラインズ』というタイトルへの解説としての役割までも果たしていると言える。エヴェレットとはおそらくヒュー・エヴェレット3世のことであり、彼は量子力学において多世界解釈を提唱した人物の1人として知られている。量子力学に関連してより人口に膾炙しているのはシュレディンガーの猫だろう。箱の中の猫は生と死の重なりあった状態で存在しており、フタを開けその姿を観測することで初めて状態が確定される。『エヴェレットラインズ』の「出演候補者」がシュレディンガーの猫に喩えられているのは明らかだ。数行の手紙がシュレディンガーの猫を創り出す。
 
アフタートークで村川は「ドキュメンタリー映画を作るのと同じやり方で演劇を作りたい」と発言していた。「演劇はスタッフや出演者とともに一つの作品を作り上げるという共通の目標に向かっていくが、ドキュメンタリー映画は違う」「撮影される人たちは撮影自体には協力してくれていても映画の完成を目標としていない」という村川の言葉は『エヴェレットラインズ』のルール3に反映されていると言えるだろう。劇場に一時的にやってきてはそれぞれの場所に帰っていく「出演者」たちの姿は分岐する可能世界のイメージとも重なり合う。
 
さて、ではこのような作品において観客は一体どのような役割を果たすことになるのだろうか。シュレディンガーの猫の喩えに従うならば、劇場という箱の蓋を開け舞台を観測することで状態を確定するのが観客の役割だということになる。観客が上演を見ることによって「出演候補者」が劇場に来た/来なかったことが確定されるのだ。ところが、当日パンフレットの村川の言葉が示唆するのは観客が上演を見ることによって生じる不確定性である。『エヴェレットラインズ』の上演において、ある「出演候補者」が「生きているかもしれないし死んでいるかもしれない」状態になり得るのは、舞台上にプロジェクションされた名前の人物が劇場に現れなかったときだけなのだ。
 
つまり、『エヴェレットラインズ』には複数のレベルの不確定性が仕組まれているのである。「出演候補者」が来るか来ないかは実際にその時間が来るまでわからない。来なかった「出演候補者」が生きているか死んでいるかは実際にその人に会うまでわからない。いや、「出演候補者」として名前がプロジェクションされているその人物がそもそも存在しているのかどうかも観客にはわからない。いやいや、そもそも本当に出演依頼の手紙が出されたのかどうかも観客にはわからないではないか。舞台上で起きた出来事が全てあらかじめ上演台本に書かれていた可能性は否定できないのである。このように考えていくと『エヴェレットラインズ』というタイトルに対する異なる読みが可能となってくる。『エヴェレットラインズ』とはシュレディンガーの猫としての上演台本を指す言葉ではなかったか。
 
このような複数のレベルにおける不確定性への疑念は単なる深読みではなく、作品それ自体によって引き起こされるものである。たとえば、ある「出演候補者」への「舞台裏で物音を立てる」という指示が壁にプロジェクションされる。少し経つと実際に舞台裏から物音が聞こえてくるのだが、観客が舞台裏の「出演候補者」の姿を見ることはできないため、それが実際に「出演候補者」が立てた物音なのかどうかはわからないままだ。ここにさまざまな疑念=不確定性の生じる余地がある。「出演者の姿が見えない状態で実行される指示」によって「出演者の不在の可能性」へと意識が向けられるのである。プロジェクションされる名前の中に含まれる故人の名前も同じような効果を持つ。そこで示唆されているのは「手紙が受け取られない可能性」であり、翻って「そもそも手紙が出されなかった可能性」である。実際的なところを考えれば、故人への手紙は出されなかったのだろう。と、多くの観客は考えることになる。
 
プロジェクションされる指示と「出演者」の行為とのズレはまた別の疑念を呼び込む。例えば、「10回咳をしてください」という指示を受け取った男性は舞台上で散発的に数度の咳をしていたが、咳の回数が10回に到達する前に劇場から出て行ってしまった(ように思う)。そもそも、「10回咳をしてください」という指示は「どのように」についての指示(それを演出と呼ぶこともできるだろう)の抜け落ちた曖昧なものであり、それが「10回の連続した咳」を意味するのかそれとも単に回数をこなせばよいのかの判断は「出演者」に任されることになる。そして「出演者」の解釈とプロジェクションされた指示を見た観客の解釈との間にズレがあるとき、そこに微妙な違和感が生じてくるのである。たとえば私は、「10回咳をしてください」という指示を「連続して10回咳をする」という意味で受け取っていたので、「出演者」が咳を1回で止めてしまったとき、彼が指示を間違えたのではないかと思った。「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という指示についても同じことが言える。この指示を受け取った女性は舞台にいる間中、客席に向かって「秋本」と呼びかけ続けていたのだが、これ以前に「10回を咳をしてください」という指示を目にしていた観客の多くは「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という回数の指定のない指示を見て「誰かの名前を1回呼ぶ」という意味に取ったのではないだろうか。ここにもまたいくつかの不確定性がある。それは「解釈の違い」なのか「指示の誤認」なのか。そこにはそれが「指示自体の違い」である可能性すら存在している。プロジェクションされ観客が目にしている指示は果たして本当に「出演者」たちが手にしている手紙に書かれているものと同じなのだろうか。
 
作品の終盤における2つの出来事が『エヴェレットラインズ』の不確定性を決定的なものにする。作品は、まず「出演候補者」の名前や指示がプロジェクションされ、その後「出演者」が登場して指示を実行するという流れで進行していくのだが、あるとき、何の前触れもなく=プロジェクションによる指示なく1人の男が登場してくる。そこまでの一連の流れでは、プロジェクションによって予告された「出演候補者」が劇場に現れないことはあっても、予告されない人間が舞台上に登場することはなかった。それゆえ男の存在は観客に対し強い印象を与えただろう。観客によっては彼は指示の時間よりも早く登場してしまったのだと思ったかもしれない。だがその後も彼に関する情報と指示がプロジェクションされることはなかった。続けて何人かの「出演者」が登場するが、彼らについての情報もまた観客に開示されないままであった。ここではまさに、「出演候補者」に対する指示自体がシュレディンガーの猫として存在していることになる。観客は「出演者」たちがどのような指示を与えられているのか(そもそも指示としての手紙を受け取っているのか)を知らぬままに上演を見ることになるのだ。舞台上に彼らの名前や彼らへの指示がプロジェクションされていないことを考えれば、登場する予定のなかった闖入者であるという可能性すらある。さらに言えば、「出演候補者」についての情報が開示されないことで、もしかしたらそこにいたかもしれない、劇場には来なかった「出演候補者」についてはその存在すらも観客には知られることがない。逆に言えば、観客が「いたかもしれない出演候補者」に思いを馳せるとき、それは存在しない人物についての思考なのかもしれないのである。
 
このように、舞台上に指示がプロジェクションされなくなった状態で登場するのがカンペである。ある「出演者」がめくるカンペを別の「出演者」が読み上げるという場面があるのだが、この場面では観客の側を向いた「出演者」にカンペが向けられているため、観客はカンペに書かれている内容を見ることができない。観客と「出演者」、そしてカンペとがむすぶ関係はそのまま観客と「出演者」、そして「出演者」への手紙がむすぶ関係とパラレルである。「出演者」への指示を観客が直接知ることはできない。
 
だが実はこれは演劇の基本的な仕組みでもある。演劇はそのメディアとしての特質上、上演においては現実とフィクションとが常に二重写しの状態で存在しているのだ。舞台上のモノや人、生じる出来事を現実とフィクションとに切り分けることは極めて困難であり、観客は通常、意識することなくそれを二重写しのままに受容する。村川はフィクションを規定するものとしての「出演者」への指示を開示することでそこに亀裂を入れ、観客に対し両者の関係を問い直すように促す。舞台上で起きていることは予定されていた出来事なのかそれとも一種のハプニングなのか。文字として提示されている情報は事実なのかそれともフィクションなのか。自明だと思われていた現実とフィクションの境界は揺るぎはじめ、限りなく不確定なものとして存在しはじめるのであった。
 
最後に、10月9日13時の回の『エヴェレットラインズ』をめぐる一つの事実を紹介してこの文章を終わりにしよう。この回の上演では機材トラブルがあった。アフタートークの中で明らかにされたことだが、上演の途中で字幕が映らなくなってしまったというのである。上演の途中で字幕が映らなくなったのは用意された演出ではなく、現実的な機材トラブルであった(果たして本当にそうだったのか)。現実とフィクションの境界を揺るがす『エヴェレットラインズ』という作品にこれ以上ふさわしいエピソードはないだろう。
 
 
 
村川拓也作品については
および
フレームを揺らす(『羅生門』レビュー)
も参照していただければと思う。そには村川の(あるいはそれは筆者のものかもしれないが)一貫した興味を見出すことができるだろう。
 
なお、11/4(月・祝)の文学フリマで発売予定の批評同人誌ペネトラに、これまで発表した原稿に加筆修正を加え、さらにドキュメンタリー映画『沖へ』、ダンス作品『瓦礫』、そして東京で行なわれたワークショップに関する考察を盛り込んだ村川拓也論「ルビンの壷、あるいは演劇(仮)」が掲載予定。