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useful_days 10/12:ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』

愛知まで足を伸ばしてあいちトリエンナーレの上演演目、ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』(原作:サミュエル・ベケット/クレジットは「原作」となっているものの、基本的には戯曲に忠実に上演されている)を見てきた。
 
(以下、ネタバレ多々あり。関東圏でもTPAMで上演されるとのことなのでご注意を。)
 
金氏徹平の舞台美術、倉石信乃の新訳と安藤朋子の演技がそれぞれよかったのは言うまでもなく、それが組み合わさることで素晴らしい効果を上げていた。言葉と舞台美術が同じリズムを持つと言うべきか、はたまた同じ原理によって構成されていると言うべきか。
 
倉石信乃は当日パンフレットに「ピストルと穴」というタイトルの文章を載せている。『しあわせな日々』に登場するこれらのモチーフは当然、男性(器)と女性(器)のメタファーなのだが、舞台美術にもこれらのモチーフは受け継がれているように見えた。一見すると無秩序なガラクタの山のように見える舞台美術はよく見るといくつかの対となるモチーフの反復・集積によって構築されているようである。
 
ひとつは有機物と無機物。舞台美術の山は灰色(岩やコンクリート、パイプ)と茶色(木切れ)、そして少しの緑(植物、しかし限りなく人工的なようにも見える)で構成されており、それらは単に積み重なるだけでなくところどころでは溶け合い、同じ生き物の一部のようである。この山に埋もれる女もまた、生物=生から無生物=死への途上にあり、山に埋もれる体は少しずつ動かなくなっていくのである(女が山と一体化していくことを示すかのように、彼女が被る帽子は苔のような緑だった)。
 
対を作る他のモチーフでもその境界は溶け合い反転していく。例えば棒と穴。舞台上には棒状のもの、穴のあいたものがさまざまに散らばっているが、2つのモチーフはパイプにおいてその合一を果たす。穴のあいた棒状のものとしてのパイプ。あるいは凸と凹。両者が実は同じものであることを主張するかのように、舞台上にはひっくり返されたバケツが並ぶ。そしてこれらのモチーフはそこかしこで少しずつ形を変えながら反復しているのである。
 
反転し溶け合い変容していくリズムはセリフの中にも見出せる。倉石の新訳では「わたしのうた歌え、わたし。わたしいのり祈れ、わたし」などという形で名詞と動詞、そして語順が(場合によっては主語と述語とが)くるくると変転していくのである。舞台美術と言葉はともに、「穴に出入りすること」=「男女の結合」=「相反するものの結合」とそこから生じる変容を見事に視覚化、聴覚化していた。
 
今回の『しあわせな日々』の上演がさらに素晴らしかったのは、「男女の結合」のモチーフが単に観念的なものに陥らず、限りなく世俗的な、ありきたりの男女の関係としても十分に表現されていた点である。第一幕では山の陰にちらちらとその姿が見えるだけだった女の夫は第二幕の終盤で山の前方へ姿を表す。地に這いつくばり、女の埋もれる山に縋ろうとする男の姿は許しを乞うているかのようである。男の伸ばした手は拳銃には届かない。「あなた他の穴にはまり込んでいたの?」「あたしも昔は助けてあげられたんだけど」「そんな目であたしを見ないで」といった一連のセリフはエロティックでメロドラマティックな響きを帯びはじめ、その頂点で女は歌うのである。死へと向かう女が最後に爆発させるエロス。浮気の詰問にも見えるラストシーンは生への欲望の発露として奇妙に生々しい感動を呼び起こすのであった。