ルビンの壷、あるいは演劇 村川拓也論

はじめに

村川拓也の演劇作品はルビンの壺に似ている。ルビンの壺とは図地反転図形の1つ、壺にも向き合う2人の人物の顔にも見えるというあの図形の名前である。

たとえば、村川の演劇作品『ツァイトゲーバー』『言葉』『羅生門』ではそれぞれ「介護」「被災地での体験」「羅生門」というモチーフが扱われている。ところが、これらの作品が前景化するのはそこで扱われるモチーフというよりはむしろ、作品を成立させる演劇という仕組みそのものなのである。もちろん、作品においてそれらのモチーフが蔑ろに扱われているというわけではない。図地反転図形が成立するためには図と地とが拮抗していなければならない。図と地が拮抗してはじめて反転が起き得るからだ。村川の演劇作品についても同じことが言える。それはたしかに特定のモチーフ(「介護」「被災地での体験」「羅生門」)を扱った作品であり、そこでは演劇によってその特定のモチーフが立ち上げられている。それにも関わらず、観客はいつしか自らが見ているものが演劇の仕組みそのものであることに気づく。図と地は反転し、そこで扱われるモチーフは演劇の仕組みを浮かび上がらせるための地の役割を果たすことになるのである。

さて、ではここで言う演劇の仕組みとは何か。実は村川の扱う演劇の仕組みそれ自体もまた、ルビンの壺になぞらえることができる。多くの演劇において観客は、役者をその演じる役の人物そのものとして見るだろう。「実際にそこにあるものを別のものとして見る」という認識の仕方こそが演劇を成り立たせているのである。演劇の上演の場において提示されるヒト・モノ・コトは本来、ルビンの壷と同じように多義的な存在であるはずなのだ。村川は図と地の反転によってその多義性を暴き出す。

村川の演劇作品はその手法からしばしば「ドキュメンタリー的」であると言われる。村川がもともと映像作家でもあり、映像作家としてはドキュメンタリー作品を撮っていることもそのような評価に多少なりとも関係しているだろう。もちろん、村川の演劇作品において「ドキュメンタリー的」な題材が多く選択されていることは間違いない。だが、村川の演劇作品が演劇として真に「ドキュメンタリー的」であるとすれば、それは選択された題材によってと言うよりはむしろ、演劇という場所で生じる現象そのものに焦点をあてているがゆえに「ドキュメンタリー的」なのである。演劇において行なわれている知覚の操作、観客が何を図として上演を見るのかという無意識の選択に焦点をあて、そのような機構それ自体を浮かび上がらせること。その意味において村川の演劇作品はドキュメンタリー演劇というよりはむしろ、常に演劇のドキュメンタリーとしてあるのだ。

ツァイトゲーバー

『ツァイトゲーバー』は2011年のFESTIVAL/TOKYO(以下F/T)公募プログラムの一環として上演され、参加作品の中から優秀作品を選ぶF/Tアワードにおいて、受賞こそ逃したものの高く評価された。村川の名が広く知られるきっかけとなった作品であり、2011年の初演以降も再演を重ねている村川の代表作である。

『ツァイトゲーバー』は障害者介助を題材とした「演劇」作品であり、舞台上では一日の介助の様子が再現される。出演者の工藤修三は役者ではなく、普段は実際に障害者介助に携わっている。一方、被介助者(フジイさん)を演じるのは観客の一人だ。開演前、村川によって「作品を手伝ってくれる女性の観客」が募集され、それに応じた観客がフジイさんを演じることになる。*1

村川の作品のいずれにおいても共通して指摘できる特徴の一つは、作品を構成する要素が極端に切り詰められているという点である。このような特徴は「要らないものを捨て続け、『それでも演劇と言えるかどうか』というのを見極めるのが、僕の中では勝負だと思っています」*2という村川の言葉の実践として見なすことができるだろう。『ツァイトゲーバー』もまた例外ではなく、一見したところは極めてシンプルな構成を持つ。

ところが、『ツァイトゲーバー』のシンプルな構成は「演じる」という行為の不可思議さを浮き彫りにしていく。まず、介助者を「演じる」工藤は本物の介助者であり、舞台で行なわれる動作は日頃の業務におけるそれと基本的に同じものである。そこでは「自らとは異なる何者かを装う」という意味での「演技」は一切行なわれていない。一方、観客から選ばれたもう一人の出演者は正しくフジイさんを「演じる」ことになるのだが、フジイさんを演じる観客が要請されるのは「何もしないこと」である。フジイさんはまぶた以外は動かすことのできない麻痺患者であり、誰かが彼を正しく演じようと思えば動かないでいるしかないのだ。結果として、舞台上にいるその人物が「フジイさん」であることを保証するのは客席からそれを見る観客の了解と、工藤による介助行為のみとなる。そこでは「演じる」行為はひたすらに受け身の形でしか成立しない。

このような状況の下に提示される介助の様子は限りなく「リアル」なわけだが、同時にそれらの行為は異化され続けてもいる。「フジイさん」の乗る車椅子はパイプ椅子で代用されており、当然、移動はスムーズにはいかない。工藤が「フジイさん」に話しかける際に必ず使用されるハンドマイクもまた、特に用いる必要性がないように思われるだけにより一層、観客に対してこれが実際の介助行為ではなく「実演」であることをアピールする効果を持つだろう。

異化効果が働くのは工藤の行為に対してのみではない。観客の演じる「フジイさん」もまた、上演の中で異化されていくことになる。村川は「フジイさん」を「演じる」人間に女性という指定をしていたが、実のところフジイさんは男性である。無意識のうちにフジイさんが女性であると思い込んでいた観客は、上演の中で交わされる会話や行為から生じる違和感によってフジイさんが男性であることに気づかされる。あるいは、上演前に「フジイさん」に対してなされる「上演中に三度、好きなタイミングで願いごとを言ってください」という指示もまた、「フジイさん」がフジイさんでないことを強烈に主張する仕掛けであると言うことができる。言うまでもないことだが、言葉を発することのできないフジイさんを「演じる」のにそのような「願いごと」への指示は不必要なものだからである。実際に発せられた「願いごと」に工藤が一切反応を見せないことも観客の中に大きな違和感を植え付けるだろう。

『ツァイトゲーバー』が巧妙なのは、これらの異化効果が、しかし決して演劇のイリュージョンを破壊するには至らない点である。パイプ椅子もマイクも男性を演じる女性も、観客にとっては「そのようなものである」と了解可能な範囲内に収まるものであり、「介助行為の演技」という枠組みを揺るがすには至らない。実際にはあり得ない「フジイさん」の発話でさえ、観客はそれを「言葉としては発することのできないフジイさんの心の声」として受け取ることができる(もちろん「願いごと」の内容次第ではあるのだが)。『ツァイトゲーバー』は実際の介助行為=「実践」から巧妙に距離を取りつつも、決してその枠組みからは逸脱しない形で上演されているのである。

ところで、『ツァイトゲーバー』は障害者介助を題材としながら、それについての倫理的な問いを提示したり、あるいは観客に何らかの共感を促したりすることはしない。もちろん、個々の観客が上演を通して受け取るものはあるだろう。例えば百田知弘は「一方は、裕福な家庭に生まれながらも重い障害を負い、さらなる病の進行や突然の経済的な苦境などの危惧がつきまとう身。そしてもう一方は、高給は望めず肉体的にも厳しい仕事に就いてはいるが、休みには自分の両足で出かけて余暇を楽しむこともできる身。残酷なまでの不平等が、両者の間に、決して埋められない隔たりとして横たわる」とフジイさんと工藤の境遇の対比を指摘している。*3だが、障害者介助という題材から一歩引いてこの作品を眺めたとき、そこにはまた別の倫理的な問いが提示されていることに気づかされる。それは演劇性(theatricality)をめぐる問いである、とひとまずは言うことができるだろう。  演劇性とは何か。明確な定義があるわけではないが、それはしばしば「わざとらしさ」と結びつけて考えられる。*4「意図的に演じられたもの、装われたもの」に対する感覚やそのような感覚を生じさせる何かを演劇性と呼ぶのである。それはつまり「本物らしさ」の感覚であり、裏返せば「本物でない」という感覚でもある。*5そしてこの「本物でなさ」こそが『ツァイトゲーバー』における観客の見る行為を可能とする。

演劇性はそれを孕む出来事についてのあらゆる倫理的な問いを棚上げにし、観客がそれをただ見ることを是とする機能を持つ。演劇性によって観客は舞台上で(あるいはそれ以外の場所で)生じる出来事にコミットする義務を免れ、代わりにそれをただ「見る」権利を得るのである。多くの人間は普段、障害者をまじまじと見ることは決してしないだろう。もちろん障害者に限らず、他人をまじまじと見ることそのものが一般的には失礼な行為にあたるのだが、対象が障害者である場合、そこにより一層の倫理的な規制が働くであろうことは想像に難くない。『ツァイトゲーバー』はこの倫理的な規制を無効にする。あえて露悪的に言うならば、舞台上で行なわれているのが実際の介助ではないがゆえに、観客は「安全に」それを眺められるのである。「フジイさん」が「ニセモノ」であることも観客の「安全」を保証する。本物のフジイさんが舞台に登場した場合、例えそれが本人の同意に基づくものであったとしても、観客の多くは舞台上で行なわれる介助の様子を凝視し続けることに抵抗を覚えるだろう。『ツァイトゲーバー』においてはこのような心理的な障壁は周到に排除されている。観客は舞台上の出来事を、それが常に「ニセモノ」であることを主張し続けているがゆえに、良心の呵責を覚えることなく見続けることができるのである。 演劇性は観客に「見る」特権を付与する一方、舞台上で実際に起きていることに対する目隠しとしても機能する。観客が舞台上の役者を役者自身としてではなく役として知覚するのと同じように、舞台上で生じる出来事はそれ自体としてではなく何かの表象として知覚されるのである。仮にこれらをフィクションの層とリアルの層と呼ぶならば、演劇における観客の知覚は常にこの二つの層に対する知覚の混合物としてある。もちろん、観客の知覚がそれぞれの層をどの程度の割合で享受するかについては様々なケースがあるだろう。だがいずれにせよ、舞台上に複数の層が存在していることに変わりはない。観客はそこでリアルの層を見ずにフィクションの層だけを見るという態度をとることも可能なのである。『ツァイトゲーバー』においては、舞台上で起きる全ての出来事は障害者介助の一環を表象するものとして知覚される。それが絶えず異化され続けていようとも、観客のこのような知覚は揺らぐことがない(『ツァイトゲーバー』が「介助行為の演劇」という枠組みを決して逸脱しないことはすでに指摘した通りである)。たとえば、工藤が「フジイさん」の座るパイプ椅子を引きずる様子は、観客に対しそれが実際の介助ではないことを主張しつつ、それでいて介助の様子を表象するものとして知覚される。そこでは工藤がパイプ椅子を引きずっているという事実=リアルの層は見て見ぬ振りをされることになるのである。

『ツァイトゲーバー』において演劇性による「目隠し」が最も強く作用しているのは、工藤と「フジイさん」の接触への観客の知覚に対してだろう。舞台上で行なわれる介助行為には、当然のことながら、介助者と被介助者の肉体的な接触が含まれている。たとえば布団に横たわる「フジイさん」を車椅子に移動させるためには、工藤が「フジイさん」を抱きかかえなければならない。現実社会においては、見知らぬ者同士の肉体的な接触は、それが異性間におけるものでなくても、特に必要がない限りは回避されるものである。異性間であればなおさらであり、特に男性の側から見知らぬ女性に触れることはほとんど禁止されていると言ってよい。それにも関わらず、『ツァイトゲーバー』において、男性である工藤が見ず知らずの女性である観客の1人に接触する行為は、それが「介助行為の表象である」という理由で見過ごされるのである。一部の観客は異性間における肉体的な接触に違和感や抵抗を覚えたかもしれない。しかしその違和感や抵抗が積極的に表明されることはなかった。「見知らぬ異性間における肉体的な接触」というリアルの層は「同性間における介助/被介助」というフィクションの層によって覆い隠され、看過される。 演劇の観客は自らの見る作品に対して倫理的な責任を負わない。フィクションの層についてはそれがフィクションであるがゆえに、リアルの層についてはそれがフィクションによって覆われているがゆえに、観客は舞台上で起きている出来事に対して行動を起こす義務を免れているのだ。『ツァイトゲーバー』が倫理的な問いを提示していたとすれば、それはこの点に他ならないだろう。タイトルであるツァイトゲーバーはドイツ語で「時を与える者」を意味する。演劇の観客は「見ること」を許された特権的な時間を付与されているのであり、『ツァイトゲーバー』はそのような演劇の原理をあからさまに提示しているのだ。そしてこの演劇性をめぐる思考/試行は、以降の作品においても変奏されていくことになる。

さて、ここまでは『ツァイトゲーバー』という作品そのものについて論を展開してきたわけだが、最後に、2013年2月16日のTPAMでの上演をめぐるエピソードを紹介したい。この上演が特別なものだったのは、客席にフジイさん本人が居合わせたからに他ならない。この「出来事」は『ツァイトゲーバー』の本質を浮き彫りにすることになる。  フジイさんは上手最前列の客席にいた。観客のほとんどはそれがフジイさんであることを知らなかったと思われるが(筆者がそれを知ったのも後日Twitterを通してである)、客席にいる人物がフジイさんであることを知っていたかどうかはさほど重要ではない。重要なのは、『ツァイトゲーバー』に登場する「フジイさん」と同様と思われる障害を持つ人物が客席にいたということである。上演が始まるまでは彼がそこにいることに気づかなかった観客も多かったかもしれない。だが、上演が始まるとほとんど全ての観客は彼の存在に気づいたはずだ。自分のことが作品として上演されているためか、フジイさんは上演の最中にしばしば声を上げていたからである。上演中の静かな客席で彼の声は否が応でも耳に入る。だが、多くの観客はチラとフジイさんの方に目をやることはあっても、「礼儀正しく」その声を無視する。「わたしは気にしていませんよ」とでも言うように。そして舞台上の「フジイさん」を見続ける。ここにはあからさまなまでの転倒がある。そこにいる「本物の」フジイさんをいないものとして扱い、舞台上のニセモノの「フジイさん」だけが存在しているかのように見続けるのだから。*6もちろん、観客のこのよう反応は一般的に言って「正しい」。だが、客席のフジイさんを「礼儀正しく」無視する一方で、舞台上の「フジイさん」を見続ける自分に気づいたとき、観客は「見ること」(それは「見ないこと」でもある)を許された特権的な立ち場にいる自分を発見することになるだろう。2013年2月16日の上演は観客に対し、自らが行使する権力の暴力性を突きつける結果となった。

言葉

『言葉』は「ことばの彼方へ」というF/T12のテーマへの応答として発表された、出演者の「被災地での体験」を元に構成された作品である。ところが村川は一方で、「震災の前年からこの作品の構想はあって、実際に稽古を始めていた」とも発言している。*7村川の「創作ノート」からは言葉とそれが描写する対象とのズレへの関心が読み取れる。もともとの村川の関心と、震災とそれに伴う経験の「言葉にできなさ」とが結びついた結果として『言葉』という作品は生まれたのである。

『言葉』は公演初日と2日目以降で演出にいくつか大きな変更があった。ここからは筆者が見ることのできた初日と最終日との差異のうちの2つを手掛かりに、『言葉』の上演によって何が提示されていたのか、その一部を明らかにしていきたい。

1つ目の変更点は出演者の向きだ。初日には互いに向き合っていた出演者は、2日目以降は客席を向いて言葉を発していた。この変更について村川は2日目のポストパフォーマンストークで、「2人が向き合うことで過度にドラマが生じてしまうのを避けたかった」という趣旨の発言をしていたという。だがそれでは、向きの変更とともに舞台の中央に出現した2台のスピーカーは何だったのだろうか。出演者が発言の際には基本的にマイクを使うという点は初日から変わっていない。だが初日の時点ではスピーカーは舞台の奥、あるいは上に設置されており、少なくとも舞台に注がれる観客の目にスピーカーが触れることはなかった。最終日、舞台の中央付近に並んで据えられた2台のスピーカーは、それがほぼ唯一の舞台装置だということもあり、かなりの存在感を発していた。観客の聞く声の発生源が自らであることを誇示するかのように舞台上に立つスピーカー。それは観客に役者の声が機械によって媒介されたものであることを意識させる機能を持つ。

2つ目の変更点は手話通訳者の立ち位置だ。初日には手話通訳者は一貫して舞台下手手前に立っていた。おそらく上手側の観客の中には手話通訳者の存在に気づかなかった者もいただろう。ところが最終日には、いくつかのシークエンスの後、彼女たち(手話通訳者は全員が女性であった)は舞台の中央に進み出て手話通訳を行なうことになる。舞台中央に手話通訳者、その左右やや後方に2台のスピーカー、そこからさらにグッと離れて舞台の奥、ほぼ角の位置に二人の出演者。手話通訳者を頂点にV字を描く形だ。これは観客の注意を手話通訳者へと集中させる演出であり、手話通訳者の存在が『言葉』という作品の1つのポイントであることは間違いない。さて、手話通訳者に関しては稲垣美実が興味深い考察を行なっている。手話通訳は出演者たちの言葉から「余計な」言葉を、たとえば「あのー」などの特に意味のない言葉や関西弁のニュアンスを、削ぎ落としてしまうというのだ。*8これは手話通訳に限らず、言葉の通訳・翻訳に常に付きまとう問題だろう。ある言語を他の言語に変換する際、全てのニュアンスをそのまま伝えることはほとんど不可能だ。そこには不可避的にいくらかのズレが生じることになる。だがしかし、手話通訳によってないことにされてしまうのは元の言葉のニュアンスだけではない。

通訳はまず、通訳者自身の言葉を抑圧する。通訳という行為の性質から自明のことだが、通訳者が発する言葉は常に他人の言葉を変換したものであり、通訳者自身は媒介でしかない。その意味で、通訳者は舞台上に置かれたスピーカーと同じなのだ。観客は舞台中央に立つ手話通訳者を見ながら、その実、出演者たちの発する言葉を受け取っている。手話通訳者の言葉はあらゆる意味で観客に届かない。というのはつまり、観客の大多数は手話を理解することができないからだ。そもそも、そこで行なわれている動きが手話であり、出演者たちの言葉を通訳した身ぶりであることを保証するものは、実は何もないのである。手話通訳者が出演者と全く違う言葉を発していたとしても(さらに極端なことを言えばそれが手話でないとしても)、観客の多くはそのことに気づくことができない。 演劇の原理として「AがBを演じるのをCが見る」ということがしばしば言われるが、この構造は通訳のそれとほぼ同じであると言うことができる。「AがBを示すのをCが受け取る」と言い換えると共通点が見えやすいだろうか。どちらにおいてもAはBをCに伝えるための媒介なのである。一般的に通訳においては、「C」が「B(の使う言語)」を解さないため、「A=通訳者(とその話す言語)」を経由したコミュニケーションが図られる。当然、「C」は「A=通訳者が話す言語」を解することが前提となるが、すでに指摘したように『言葉』ではそのような構図はズラされている。つまり、『言葉』においては「B=出演者の言葉」を「C=観客」が直接理解しているにも関わらず、間に「A=手話通訳者」が置かれているのである。しかも、手話通訳者の言葉を観客のほとんどは解さない。結果として、観客は手話の意味内容を理解していないにも関わらず、「手話通訳者たちが出演者の言葉を手話に変換しているものとして見る」という事態が生じることになる。

ここに『言葉』の「演劇作品」たる所以がある。村川は通訳の構造を脱臼させることで、観客に「として見ること」を促したのだ。「として見ること」とはつまり演劇性の発露に他ならない。『ツァイトゲーバー』において観客が工藤の行為を介助の再現として知覚したように、『言葉』の観客は手話通訳者の手話を出演者の言葉を変換したものとして知覚する。手話通訳者が実際には全く別の内容を発している可能性があろうと、観客はそれに対して見て見ぬ振りをし、あるいは気づきもせずに、「として見る」ように誘導されていたのである。手話通訳者が透明な存在として看過されてしまうこともまた、『ツァイトゲーバー』において「フジイさん」を演じる観客が女性であることが看過されてしまうことと同様の構図であると言うことができるだろう。

この「として見る」というテーマは『言葉』という作品全体に敷衍して考えることも可能だろう。たとえば、作品の中盤で流されるスライドショーには軽快なBGMがついており、観客はそのスライドショーを楽しげな様子を写したもの「として見る」ように促される。実際、そこには出演者の被災地での笑顔を写したスライドも多い。そしてこのスライドショーがあることで、観客は自身がある予断を持っていたことに気づかされる。つまり、『言葉』が「被災地での体験」に基づいた作品であるという情報が、観客がそれを「真面目」なもの「として見る」ように方向づけていたのである。もちろん、ここで言う「として見ること」をそのまま演劇性と短絡することはできない。だが、ドキュメンタリー映画を撮る映像作家でもあるという村川の経歴を考えたとき、この「として見る」というテーマは、村川の作品を考えるうえで極めて重要な視点であることは間違いない。あるものごとをどのように見るかにドキュメンタリー作家としての姿勢が表われるからだ。このように見ていくと、村川が作る演劇作品が演劇性に強くフォーカスしていくことはある種の必然だったということがわかる。

沖へ

『沖へ』は2011年11月から2012年4月にかけて撮影され、2012年に公開されたドキュメンタリー映画である。南三陸町歌津に取材したこの作品は「被災地に取材したドキュメンタリー作品」である。ところが、この作品は「被災地のドキュメンタリー」として見られることを徹底的に回避しようとしているように見える。

津波によって大きな被害を受けた宮城県本吉郡南三陸町歌津の伊里前地区「伊里前契約会」の会長・千葉正海とその家族への取材を中心に構成されたこの作品が映し出すのは彼らの日常の風景である。もちろん、画面に映し出される光景や彼らの会話の端々には、震災の影響が直接的に表われている。ところが、『沖へ』という作品が震災に関連した物語を紡ぎ出すことはない。たとえば「復興に向けた取り組み」などといった作品を理解するために「わかりやすい」枠組みは一切用意されていないのである。村川自身、単純な画面や物語に回収されてしまうことは避けたかったと発言している。*9むしろ、作品を「被災地のドキュメンタリー」として見ようとする観客の欲望を挫くかのように、「何てことはない」場面ばかりが映し出されるのである。それどころか、観客はしばしば、ひとつのカットの「主題」に焦点をあてることすら困難な状況に置かれることになる。居間でのインタビューの場面では千葉の飼い犬が頻繁に画面に割り込み、台所でのインタビューでは包丁の音が音声をかき消してしまう。そこで話されている内容や画面の中央に映し出されているものとは無関係のものが画面に映り込み、観客の集中力は散らされ続ける。カメラはひたすらに意味の周縁=沖へと向けられているのである。

『沖へ』における村川の撮影・編集への姿勢は「見たいことしか見ない」ことへの抗いとして見ることができるだろう。千葉が新橋のカラオケで大盛り上がりする場面が映画のクライマックス(?)となっていることからもそれは明らかである。千葉は震災後の対応についての講演をするために上京をしたのだが、講演会自体はほとんど映されず、代わりにカラオケでの打ち上げの場面が延々と映し出されることになる。そこは被災地ですらない。そして映画のラスト、長期に渡る取材の感想を聞かれた千葉は村川の名前を間違えてしまう。「撮影者である村川と取材対象である千葉の信頼関係によって成り立っている作品」あるいは「取材を通して生まれた信頼関係」といった「物語」すら否定するような脱力感(もちろんこのような場面に千葉という人物の魅力が表われていることは言うまでもないのだが)。

物語化への拒絶は逆説的に、普段私たちがいかにものごとを物語化して見ているか、見たいことしか見ていないかを暴き出す。ドキュメンタリー映画である『沖へ』という作品もまた、演劇作品である『ツァイトゲーバー』『言葉』と通底するモチーフを持っていることがわかるだろう。

羅生門

村川版『羅生門』は「AAFリージョナル・シアター2013 〜京都と愛知 vol.3〜 愛知京都演劇プロジェクト Bungakuコンプレックス」という企画の1作品として上演された(もう1作品はニノキノコスター構成・演出『地獄変』)。一貫して「物語」を排除してきた村川が突如として芥川龍之介の小説の舞台化という「物語」のある作品を手掛けることになったのはこの企画の趣旨によるものであった。

村川拓也が芥川龍之介の小説『羅生門』を上演するにあたって採用した方法は一種の「発明」であった。その手法はほとんどあらゆる文学作品や物語を「村川拓也の舞台作品」として上演することを可能にしてしまう。一方、あらゆる物語が上演可能であるということは同時に、あらゆる物語が上演不可能であるということをも含意する。どんな物語でも同じ方法論で上演できるということは、そこに差異を見出さないということだからだ。何を上演しても同じであるならばそれを上演することに価値を見出すことは困難となる。その意味で、村川の発明した方法論は「演出」のひとつの極北を指し示していると言ってよい。

上演の概要はこうだ。両側を客席に挟まれた形の舞台。舞台の中央には巨大な長方形のフレームが床と長辺とが平行になる向きで吊るされている。客席からはそのフレームを通して向かい側の客席が見える。フレームの片側の短辺の脇にはイスがあり、そこに外国人と思しき若い女(Anna Milena Quitz)が観客に横顔を見せて座っている。やがて男(大石英史)が登場すると女に向けて語りはじめる。どことなく観客を意識しているようにも見える。語られるのは小説『羅生門』そのままの言葉だ。常にジェスチャーを伴いつつ展開されるその語りは女に対して『羅生門』を説明しているようである。男の語りがひと段落すると今度は女が外国語で語りはじめる。男のジェスチャーは続いている。女の語りに合わせて客席上部に字幕が映し出される。だがそれは『羅生門』ではない。「彼は貧富の問題について語っています」という言葉に続いて現代社会についてのさまざまな思索が展開される。女が語り終えると再び男が『羅生門』を語りはじめる。例外的に2人が同時に発話する場面もあるが、男女が交互に発話する形はラストまで継続される。『羅生門』のテキストについては基本的に語りの順序も内容も使われる語句も原作そのままであった(省略された箇所はあったかもしれない)。

今までの村川作品がそうであったように、『羅生門』もまた非常にシンプルな構成を採っている。しかしそこには複数の企みが精緻に組み合わされており、その意味では、シンプルな見た目とは裏腹に極めてcomplexな作品であった。以下では、村川版『羅生門』をどのような作品として見ることができるのかをいくつかのレベルで検討していく。

村川版『羅生門』を見てまず感じられるのは、舞台上の男女の意志疎通がうまくいっていないという印象である。男が日本語で発する『羅生門』は女に理解されず、女は男の身振りから異なる物語を読み取る。言葉は互いに向けて発せられているように見えるがかみ合わない。舞台上の男女と同じように、小説『羅生門』の下人と老婆のやりとりにおいてもミスコミュニケーションは発生している。骸から髪を抜き取る行為を正当化しようとする老婆の言葉は、下人から危害を加えられることを避けようとする彼女自身の意図とは裏腹に、老婆に対する下人の追い剥ぎ行為のきっかけとなってしまうのである。村川が小説『羅生門』を舞台化するにあたり、原作の「転」にあたる場面の要素、つまりはミスコミュニケーションを作品の中心に据えたと見ることはそれほど不自然なことではないだろう。

それでは、女の語りとして字幕に表示される言葉は男の語る『羅生門』とは何の関係もないのだろうか。実は字幕の言葉もまた、小説『羅生門』の対応物としてある。小説『羅生門』には「主人に暇を出された下人」「飢饉や疫病で荒廃した京都」「鬘を作るために若い女の骸から髪を抜き取る老婆」と「老婆を咎める下人」などのエピソードが登場する。字幕に現れる「労働」「貧富」「老い」「美醜」「正義」「利己的なふるまい」といったモチーフは小説『羅生門』の扱う事象を抽象的に、あるいは現代社会と接続する形で語り直したものとして見ることができるのである。

だが果たして、作品に対するこのような理解は正しいのだろうか。もちろん、ここまで展開してきた解釈は作品内容に基づいたものであり、村川版『羅生門』をそのようなものとして見ることにそれなりの妥当性はあるだろう。しかしここで、まさにその村川版『羅生門』が「ミスコミュニケーション」をモチーフの1つとしていたことを考えるとき、この作品には複数のレベルでのミスコミュニケーションの可能性が孕まれていたことに気づかされることになる。

ここで字幕についてもう一度考えてみよう。ここまで、字幕として表示されるテキストが女の発話する外国語に対応しているものとして話を進めてきたが、実は字幕の内容=女の発話内容として見ることには何の根拠もない。女が口にする言葉は英語ですらなく、観客のほとんどは彼女の発する言葉を理解することができないのである。だからこそ日本語の字幕が用意されているわけだが、その字幕と女の語る言葉の内容とが一致している保証はない。つまりこれは『言葉』における手話通訳者の変奏なのだ。男と女の間で生じているように見えたミスコミュニケーションは、実際のところ、女と字幕の間で生じていたのかもしれない。女は『羅生門』を外国語で語っていたにも関わらず、字幕がそれとは異なる言葉を示していた可能性は否定できないのである。*10重要なのは、女の発話と字幕の言葉が実際に一致していたかどうかではなく、大半の観客に対し、一致していなかった可能性が開かれている点である。観客がそこで起きていることを正確に理解していない可能性、つまりは観客と作品との間のミスコミュニケーションの可能性がそこにはある。いやむしろミスコミュニケーションこそが村川作品の要であるのだとさえ言うことができるだろう。

たとえば、村川版『羅生門』の男女は下人と老婆を演じているわけではない。しかし小説『羅生門』の登場人物もまた下人と老婆という2人の男女だけであり、作品を見ている観客はいつしか舞台上の男女を物語中の男女と重ねて見るようになっていく。男の語りに身ぶりが伴っていることも大きいだろう。実際、下人が老婆の着物を剥ぐ場面では、男は女の間近に立ち、ほとんど女に覆いかぶさるようにして着物を剥ぐ仕草をしてみせる。この場面において、舞台上にいる男女と物語の中の男女とは、あるいは語る行為と演じる行為とは限りなく接近しているように見える。ここにもまた、「実際にそこで起きていることを別のものとして見る」という認識の仕方=演劇の原理的な仕組みが働いているのである。

村川作品にはいつも観客の「認識の枠組み」を揺らす瞬間が用意されている。前述の下人が老婆の着物を剥ぐ場面では、追い剥ぎの場面であるはずなのに舞台上で愛の営みが行なわれているかのような違和感があった。着物を剥ぐ男のいやに丁寧な仕草と字幕に表示される愛や世界の素晴らしさについての言葉、そして舞台上にいるのが若い男女であることが観客の認識の枠組みを揺らし、そこで行なわれているのが追い剥ぎ行為であると同時に愛の営みであるかのような錯覚を生じさせるのである。あるいは、『ツァイトゲーバー』を観たことのある観客にはそれは介護行為のように見えたかもしれない。着物を剥ぐ男の仕草は『ツァイトゲーバー』での着替えの場面に酷似していたし、何より、女が座っているパイプ椅子を男が押して移動させるという行為はあからさまに『ツァイトゲーバー』を思い出させる。この場合、観客は三重の認識の枠組みの間で揺れることになる。

思えば認識の枠組みへの注意は作品の冒頭から喚起されていた。舞台上に吊るされたフレームは観客に自分の視点が何らかの枠組みに基づくものであることを意識させ、フレーム越しに見える向こう側の観客は自らのものとは異なる視点の存在を意識させる。作品中、1度だけ男が舞台上のフレームに触れる場面があった。男に触れられたフレームはそれからかなり長い間、ゆらゆらと左右に揺れていた。物語上は必然性の認められないこの行為はまさに、認識の枠組みを揺らすという村川の作品そのものへの自己言及ではなかったか。ミスコミュニケーションの可能性の暴露が観客に認識の枠組みに揺さぶりをかけるのである。

羅生門』における男と女、上演される舞台と観客との間に孕まれるミスコミュニケーションとはつまり誤読可能性である。男が語る『羅生門』は女に誤読され、上演される『羅生門』は観客に誤読される。誤読される『羅生門』というモチーフはまた、村川版『羅生門』の上演それ自体、可能な読みの一つでしかないということをも示すことになるだろう。村川は小説『羅生門』とそれに対する解釈を、男による発話と字幕として示される言葉という形で別々に提示し、さらには両者の間にジェスチャーと外国語という媒介を挿入することで、小説『羅生門』とその読み(=解釈、上演)との結びつきが恣意的なもの、交換可能なものであることを暴いてみせたのである。

村川の相対化への志向はさらに徹底している。この作品に関連したインタビューで村川は「なぜ芥川なのか?とか、なぜこの芥川小説でなければならないのか?という」「問題を解決、もしくは回避することが今後の作品づくりに大きく関わってくると思います」と述べているが、実際のところ、『羅生門』という作品の選択は相対的なものでしかない。*11何らかの作品とそれに対する解釈を用意すれば、ほとんどどんな作品でも今回の村川版『羅生門』と同じ演出プランで舞台化することができてしまうのだ。ここには「Bungakuコンプレックス」という企画自体への村川の批評的な視点を読み取ることができる。京都・愛知の若手演出家が芥川龍之介の小説を演出し舞台化するという企画で、自らの作品における『羅生門』をあくまで交換可能なものとして提示するということはつまり、『羅生門』あるいは芥川龍之介の小説に特権的な価値を付与することを拒否する身振りであるからだ。村川版『羅生門』で不動のものとしてそこにあるのは村川の演出プランのみである。

最後に、村川が『羅生門』という作品を選択したことの含意について述べておこう。当日パンフレットに寄せられた村川の言葉で周到にも触れられているように、黒澤明監督の映画『羅生門』は芥川の小説『羅生門』を映画化したものではなく、同じ芥川の『藪の中』を原作とした作品である。そしてその『藪の中』は、ある1つの事件をめぐって食い違う証言を扱った話であった。そこにはたった1つの真相というものはなく、複数の見え方だけがある。小説と映画とで全く異なる作品として現れる『羅生門』。相異なる複数の見え方を内包するものとしての『羅生門』。認識のフレームによって見え方が変わってしまうことを示してみせる村川作品のあり方は『羅生門』という作品それ自体によく似ている。

瓦礫

瓦礫』はDance Fanfare Kyotoの「演劇×ダンス」というプログラムの1本として上演された、村川にとって今のところ唯一のダンス作品である。この作品では3人の女性ダンサーが、自身の従事するアルバイト(定食屋の店員、映画館のスタッフ、フィットネスのインストラクター)の身ぶりをダンスとして提示する。「ダンスとして提示する」と言っても、身ぶりを切り刻んでいわゆる「ダンス」として再構成しているわけではない。編集こそ加えられているものの、基本的にはアルバイトの業務におけるひと通りの動作が(出勤のあいさつから退勤のあいさつに至るまでが)そのまま再現されている。ダンス作品として上演された『瓦礫』だが、手法としては演劇作品である『ツァイトゲーバー』を継承していることがわかるだろう。

仕事の身ぶりを再現するというこの手法は村川のワークショップでも採用されていた。村川は「自分でもなく、他の誰かでもなく、社会によって要請される身ぶり」としての仕事の身ぶりに興味があると語る。*12この言葉を踏まえるならば、仕事の身ぶりを実行する人間はその瞬間、社会に踊らされているのだと言うことができるかもしれない。

さて、『瓦礫』という作品は『ツァイトゲーバー』と同じ手法を採用しつつ、演劇作品ではなくダンス作品として提示されている。2つの作品は同じ手法をベースとしつつ、それぞれ全く異なる部分に焦点があてられているのである。すでに述べたように『ツァイトゲーバー』は「演劇性」に焦点をあてた作品であった。一方、『瓦礫』は身ぶりそのものに焦点をあてた作品だと言うことができる。

3人の女性パフォーマーの衣装は黒で統一されており、舞台には何もない。また、3人の「ダンス」は舞台上に同時に展開される。『ツァイトゲーバー』とは違い、『瓦礫』においては彼女たちが行なっている業務そのものを「再現」する意図がないことは明らかである。そこで行なわれていることはむしろ、仕事という文脈に強力に結びついている身ぶりをそこから引き剥がし、純粋な身ぶりそのものとして提示することである。「瓦礫」とは文脈から切り離され、まとっていたはずの意味を失ったものを指す言葉なのである。それはただそこにある。

作品を見終えた今となっては、彼女たちの身ぶりが仕事に由来するものであることは明らかなのだが、作品の冒頭部においてそれは観客にははっきりとはわからない形で提示されていた。彼女たちが「おはようございます」の言葉とともに出勤してから仕事に取りかかる準備をしている間、彼女たちの身ぶりの意味を観客が完全に理解することは不可能である。彼女たちの仕事を知らない観客にとって、靴を脱いだり服を着替えたりという一般的な動作については何となく把握できても、それ以外の身ぶりが何をしているものなのかを推測することは非常に困難であることは自明だろう。実際の業務が(おそらく)はじまってからもしばらくその状態は続く。作品の冒頭部においてはほとんど言葉が発せられないことも観客の推測をより困難にする。何もない空間では言葉が文脈の規定に対し驚くほど大きな意味を持つのだ。

やがて上演が進むにつれ観客はそれぞれの身ぶりがどのような仕事に由来するものなのかを理解していくことになる。言葉が頻繁に発せられるようになっていくことも観客の理解を助けるだろう。だがそれでも、舞台上の身ぶりが仕事という文脈に完全に(再)回収されてしまうことはない。同時に提示される3人の身ぶりが互いを異化し続けるからである。村川による身ぶりの編集も効果を挙げている。無関係のはずの3人の動作がところどころでシンクロしたり、あるいはすれ違ったりすることで、それがまるでダンスの振り付けであるかのような錯覚を呼ぶのである。『瓦礫』がダンス作品であるというバイアスもこのような見方を促進する。

仕事という文脈=社会による意味づけの無効化。その意味で、『瓦礫』は『ツァイトゲーバー』と同じ手法を使いつつ、それとは真逆の実践としてあった。徹底的に「として見ること」を押し進める『ツァイトゲーバー』とそれを無効化する『瓦礫』。双子としての2つの作品の違いはむしろ、村川の一貫した関心を示しているのである。

エヴェレットラインズ

*KYOTO EXPERIMENT2014で上演される『エヴェレットゴーストラインズ』は『エヴェレットラインズ』を元にした作品です。ネタバレが気になる方はご注意ください。

 

『エヴェレットラインズ』はKYOTO EXPERIMENT 2013フリンジ企画オープンエントリー作品の1本として上演された、現時点での村川の最新作である。『エヴェレットラインズ』がどのような作品であったかは当日パンフレットの村川の言葉に端的に示されている。

1.30人〜40人の人々に手紙を送った。手紙を受け取った人々はこの作品の出演候補者である。手紙には指示が書いてある。その指示に従う場合は当日劇場に来て出演者として振る舞う。指示に従わない場合は当日劇場に来ない。この作品は、出演者未定の演劇作品である。

2.上演中にプロジェクションされる字幕は、手紙を送った人の名前、居住地、職業、年齢、そして手紙に書かれた出演時間と指示の内容である。

3.出演者は出演が終わると劇場を出て、それぞれどこかへ帰っていく。だからカーテンコールはない。

 まるでゲームのルール説明のようなこの文章が『エヴェレットラインズ』という作品のほとんど全てを説明している。指示=タスクに基づいて「出演者」が行為するという点において、『エヴェレットラインズ』という作品はある種のダンスやパフォーマンスに近接していると見なすことができる。あるいは、「出演候補者」が劇場に現われず、観客の身じろぎする音や咳払いだけが聞こえる劇場は「4分33秒」が演奏されているコンサートホールのようでもあった。『エヴェレットラインズ』は極めてジョン・ケージ的な一面を持つ作品なのである。

このように、『エヴェレットラインズ』は村川の今までの作品とは全く違った方向性を模索したものとしての側面を持つ一方、そこにはこれまでの作品とも通底する村川の関心のさらなる展開を読み取ることもできる。

その人が生きているか死んでいるかを知る為には、その人が目の前にいないと判断できない。今、あの人はどこかで死んでいるかもしれない。*13

 『エヴェレットラインズ』というタイトルへの解説としての役割も果たしているこの文章は、この作品における村川の試みを読み解くためのヒントでもある。エヴェレットとはおそらくヒュー・エヴェレット3世のことであり、彼は量子力学において多世界解釈を提唱した人物の1人として知られている。量子力学に関連してより人口に膾炙しているのはシュレディンガーの猫だろう。箱の中の猫は生と死の重なりあった状態で存在しており、フタを開けその姿を観測することで初めて状態が確定される。『エヴェレットラインズ』の「出演候補者」がシュレディンガーの猫に喩えられているのは明らかだ。数行の手紙がシュレディンガーの猫を創り出す。

アフタートークで村川は「ドキュメンタリー映画を作るのと同じやり方で演劇を作りたい」と発言していた。「演劇はスタッフや出演者とともに一つの作品を作り上げるという共通の目標に向かっていくが、ドキュメンタリー映画は違う」「撮影される人たちは撮影自体には協力してくれていても映画の完成を目標としていない」という村川の言葉は『エヴェレットラインズ』のルール3に反映されていると言えるだろう。劇場に一時的にやってきてはそれぞれの場所に帰っていく「出演者」たちの姿は分岐する可能世界のイメージとも重なり合う。

さて、ではこのような作品において観客は一体どのような役割を果たすことになるのだろうか。シュレディンガーの猫の喩えに従うならば、劇場という箱の蓋を開け舞台を観測することで状態を確定するのが観客の役割だということになる。観客が上演を見ることによって「出演候補者」が劇場に来た/来なかったことが確定されるのだ。ところが、当日パンフレットの村川の言葉は観客が上演を見ることによって生じる不確定性を示唆している。『エヴェレットラインズ』の上演において、ある「出演候補者」が「生きているかもしれないし死んでいるかもしれない」状態になり得るのは、舞台上にプロジェクションされた名前の人物が劇場に現れなかったときだけなのである。

つまり、『エヴェレットラインズ』には複数のレベルの不確定性が仕組まれているのだ。「出演候補者」が来るか来ないかは実際にその時間が来るまでわからない。来なかった「出演候補者」が生きているか死んでいるかは実際にその人に会うまでわからない。いや、「出演候補者」として名前がプロジェクションされているその人物がそもそも存在しているのかどうかも観客にはわからない。いやいや、そもそも本当に出演依頼の手紙が出されたのかどうかも観客にはわからないではないか。舞台上で起きた出来事が全てあらかじめ上演台本に書かれていた可能性は否定できないのである。このように考えていくと『エヴェレットラインズ』というタイトルに対する異なる読みが可能となってくる。『エヴェレットラインズ』とはシュレディンガーの猫としての上演台本を指す言葉ではなかったか。

このような複数のレベルにおける不確定性への疑念は単なる深読みではなく、作品それ自体によって引き起こされるものである。たとえば、ある「出演候補者」への「舞台裏で物音を立てる」という指示が壁にプロジェクションされる。少し経つと実際に舞台裏から物音が聞こえてくるのだが、観客が舞台裏の「出演候補者」の姿を見ることはできないため、それが実際に「出演候補者」が立てた物音なのかどうかはわからないままだ。ここにさまざまな疑念=不確定性の生じる余地がある。「出演者の姿が見えない状態で実行される指示」によって「出演者の不在の可能性」へと意識が向けられるのである。プロジェクションされる名前の中に含まれる故人の名前も同じような効果を持つ。そこで示唆されているのは「手紙が受け取られない可能性」であり、翻って「そもそも手紙が出されなかった可能性」である。実際的なところを考えれば、故人への手紙は出されなかったのだろう(と、多くの観客は考えることになる)。

プロジェクションされる指示と「出演者」の行為とのズレはまた別の疑念を呼び込む。例えば、「10回咳をしてください」という指示を受け取った男性は舞台上で散発的に数度の咳をしていたが、咳の回数が10回に到達する前に劇場から出て行ってしまった(ように思う)。そもそも、「10回咳をしてください」という指示は「どのように」についての指示(それを演出と呼ぶこともできるだろう)の抜け落ちた曖昧なものであり、それが「10回の連続した咳」を意味するのかそれとも単に回数をこなせばよいのかの判断は「出演者」に任されることになる。そして「出演者」の解釈とプロジェクションされた指示を見た観客の解釈との間にズレがあるとき、そこに微妙な違和感が生じてくるのである。たとえば筆者は、「10回咳をしてください」という指示を「連続して10回咳をする」という意味で受け取っていたので、「出演者」が咳を1回で止めてしまったとき、彼が指示を間違えたのではないかと思った。「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という指示についても同じことが言える。この指示を受け取った女性は舞台にいる間中、客席に向かって「秋本」と呼びかけ続けていたのだが、これ以前に「10回を咳をしてください」という指示を目にしていた観客の多くは「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という回数の指定のない指示を見て「誰かの名前を1回呼ぶ」という意味に取ったのではないだろうか。ここにもまたいくつかの不確定性がある。それは「解釈の違い」なのか「指示の誤認」なのか。そこにはそれが「指示自体の違い」である可能性すら存在している。プロジェクションされ観客が目にしている指示は果たして本当に「出演者」たちが手にしている手紙に書かれているものと同じなのだろうか。

作品の終盤における2つの出来事が『エヴェレットラインズ』の不確定性を決定的なものにする。作品は、まず「出演候補者」の名前や指示がプロジェクションされ、その後「出演者」が登場して指示を実行するという流れで進行していくのだが、あるとき、何の前触れもなく=プロジェクションによる指示なく1人の男が登場してくる。そこまでの一連の流れでは、プロジェクションによって予告された「出演候補者」が劇場に現れないことはあっても、予告されない人間が舞台上に登場することはなかった。それゆえ男の存在は観客に対し強い印象を与えることになる。観客によっては彼は指示の時間よりも早く登場してしまったのだと考えたかもしれない。だがその後も彼に関する情報と指示がプロジェクションされることはなかった。続けて何人かの「出演者」が登場するが、彼らについての情報もまた観客に開示されないままであった。ここではまさに、「出演候補者」に対する指示自体がシュレディンガーの猫として存在する(存在しない)ことになる。観客は「出演者」たちがどのような指示を与えられているのか(そもそも指示としての手紙を受け取っているのか)を知らぬままに上演を見ることになるのだ。舞台上に彼らの名前や彼らへの指示がプロジェクションされていないことを考えれば、「出演者たち」は登場する予定のなかった闖入者であるという可能性すらある。さらに言えば、「出演候補者」についての情報が開示されないことで、もしかしたらそこにいたかもしれない、劇場には来なかった「出演候補者」についてはその存在すらも観客には知られることがない。逆に言えば、観客が「いたかもしれない出演候補者」に思いを馳せるとき、それは存在しない人物についての思考なのかもしれないのである。

このように、舞台上に指示がプロジェクションされなくなった状態で登場するのがカンペである。ある「出演者」がめくるカンペを別の「出演者」が読み上げるという場面があるのだが、この場面では観客の側を向いた「出演者」にカンペが向けられているため、観客はカンペに書かれている内容を見ることができない。観客と「出演者」、そしてカンペとがむすぶ関係はそのまま観客と「出演者」、そして「出演者」への手紙がむすぶ関係とパラレルである。「出演者」への指示を観客が直接知ることはできないということがここではあからさまに示されている。

だが実はこれは演劇の基本的な仕組みでもある。演劇はそのメディアとしての特質上、上演においては現実とフィクションとが常に二重写しの状態で存在している。舞台上のモノや人、生じる出来事を現実とフィクションとに切り分けることは極めて困難なのだ。観客は通常、意識することなくそれらを二重写しのままに受容する。村川はフィクションを規定するものとしての「出演者」への指示を開示することでそこに亀裂を入れ、観客に対し両者の関係を問い直すように促す。舞台上で起きていることは予定されていた出来事なのかそれとも一種のハプニングなのか。文字として提示されている情報は事実なのかそれともフィクションなのか。自明だと思われていた現実とフィクションの境界は揺るぎはじめ、限りなく不確定なものとして存在しはじめるのであった。

最後に、2013年10月9日13時の回の『エヴェレットラインズ』をめぐる一つの事実を紹介してこの文章を終わりにしよう。この回の上演では機材トラブルがあった。アフタートークの中で明らかにされたことだが、上演の途中で字幕が映らなくなってしまったというのである。上演の途中で字幕が映らなくなったのは用意された演出ではなく、現実的な機材トラブルであった(果たして本当にそうだったのか)。現実とフィクションの境界を揺るがす『エヴェレットラインズ』という作品にこれ以上ふさわしいエピソードはないだろう。

おわりに

2011年から2013年の村川の作品は「として見ること」をめぐる変奏としてあった。それは虚構と現実の関係についての問いでもある。演劇・映画・ダンスとメディアが変わり、そこで扱うモチーフが変わっても、「として見ること」への村川の関心は一貫している。一方で、当然のことながら変化している部分もある。『ツァイトゲーバー』『言葉』『瓦礫』では身ぶりにせよ言葉にせよ、出演者自身の持つもの(それが社会的に要請されたものだったとしても)に焦点をあてるところから創作がはじまっていた。ところが、『エヴェレットラインズ』ではそのような方法は構造上不可能である。『エヴェレットラインズ』の「出演者」が遂行するのは村川から発せられた=外部からの指示なのだ。この違いは大きい。村川は出演者の現実(リアル)に依拠する形でない演劇のドキュメンタリーの可能性を発見しつつある。その意味で『エヴェレットラインズ』は大きな転機となり得る作品だろう。今回は劇場という「場」に集まる形でドキュメンタリーが実践されたわけだが、ここにはまだ、極めて豊かな可能性が眠っている。演劇のドキュメンタリーをめぐる村川の思考/試行はむしろ、ここから広がっていくのかもしれない。

*1:『ツァイトゲーバー』はF/T11での初演の後、国立近代美術館で2012年8月26日(日)~9月8日(土)に行なわれたイベント『14の夕べ』で9月6日(木)に再演されたが、その際には「女性」という指定はなかったとのこと。

*2:『言葉』当日パンフレットより。

*3: 百田知弘「言葉なき雄弁、あるいは、ままならなさの可能性」 2013年10月26日閲覧。

*4:演劇性(theatricality)をめぐる議論については例えば次の3つの論文を参照のこと。 Josette Féral. “Theatricality: The Specificity of Theatrical Language” Thomas Postlewait and Tracy C. Davis. “Theatricality: an Introduction” Janelle Reinelt. “The politics of discourse: Performativity Meets Theatricality” 以上全てMartin Puchner編纂のModern Drama Ⅳ. London: Routledge, 2008.に収録。

*5:つまり、演劇性というのは偽物においては本物らしさとして、本物においては偽物らしさとして機能するものであり、かつ、観察される対象が孕む性質であると同時に観察者の得る感覚でもあるのだ。

*6:たとえばものまねショーにおける「本人登場」に対する観客の反応を考えると、その違いは明らかである。

*7:創作ノート 2013年10月26日閲覧。

*8:稲垣美実「『言葉』の番人たち」2013年10月26日閲覧。

*9:2013年2月9日、SNACでの上映会のアフタートークにて。

*10:実際にどうであったかと言えば、女の発話はドイツ語でなされており、筆者の乏しいドイツ語の知識の範囲で判断する限りでは、女の発話と字幕の言葉は対応関係にあった。

*11:公益財団法人愛知県文化振興事業団発行aaf通信第37号(2013年5月号) 2013年10月26日閲覧。

*12:ワークショップでの発言より。

*13:『エヴェレットラインズ』当日パンフレットより。