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村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』

大筋は去年の『エヴェレットラインズ』(こちらを参照のこと)から変わらないものの、全体の構成や照明などの演出はより丁寧に。上演中、誰もいない空間に照明があたる瞬間が何回かあるのだけれど、その瞬間に象徴されるように、不在によりはっきりとフォーカスがあたっている。出演(候補)者の来る/来ないによって分岐していく可能世界もよりはっきりと見える構成になっていた。

たとえば、出演(候補)者に対する指示の中に、モノを置く指示(「持ってきた傘を緑の印のところに置いてください」)とモノを使う指示(「舞台上の傘を差して歩いてください」)がいくつかあって、その指示を出された出演(候補)者の来る/来ないによって舞台上で起きる出来事は2×2=4通りに分岐する。この指示も必ずしも1:1対応ではなくて、その後に登場する何人かの人物が関わる可能性を持つように想定されたと思しきものもある。このように互いに関連のある指示があることによって、観客はある出演(候補)者の出番が過ぎた後で、遡ってその出演(候補)者の存在/不在に思いを馳せることになる。時間の経過を利用して観客の想像力を広げるような手法は『エヴェレットラインズ』のときはなかったように思うので、ここは射程を広げてきたなといった感じ。「今ここ」から「今ここ」ではない時間・場所を想像すること。それはもちろん演劇の根源に他ならない。

去年と唯一大きく違う部分、阪神大震災から五年後に書かれた忌野清志郎の手紙(の文章)がスクリーンに写し出される場面については(まだ考えたいのだけど)、現実のこの世界そのものが非現実へと反転してしまったような、ゾッとする感覚を覚えた。阪神大震災から五年後の世界についての言葉であるにも関わらず、今の日本の社会情勢を反映したかのような言葉(「地震の後には戦争が来る」)。そしてそれが2014年には死者となってしまっている者によって発された言葉であるという事実。途中まではまさに現在形の日本の社会状況に対するコメントとして読んでいたので、正直なところを言えば白けてしまっていたのだけど(2014年の日本のおかれている状況は、間接的にはもちろん作品に関係してるんだけど、直接的にそういうことを言う作品ではなく、作品の他の部分から明らかに浮いているため)、その文章が阪神大震災の五年後に書かれたものであることがわかり、そして最後に忌野清志郎の名前が出てきたとき、自分がいる「今」のリアリティは急速に失われていった。過去についての言葉が来るべき未来への予言として機能してしまうことで時間感覚は宙吊りにされ、自分が今いるこの世界はすでに死んでしまった世界となる(「歴史は繰り返す」のであればそれは極めて「演劇的」な世界だろう)。

さて、『エヴェレットゴーストラインズ』が人間の不在への想像力を刺激する作品であることははっきりしている一方、別の角度から見れば、これほどに個々の出演(候補)者に重きが置かれていない作品もそうあるものではない。出演(候補)者はどこまでも代替可能な存在でしかなく、そもそも必ずしも出演することを必要とされているわけでさえない。村川に確認したところによれば作品の構成自体は常に固定されており、日によって異なる出演(候補)者が登場する(あるいはしない)という。ある出演(候補)者が舞台に登場するとき、その背後には無数のゴーストが立っている。

 

間違いなく『エヴェレットラインズ』より完成度は上がっているし、実験的でありながらより広い層にも見てもらえる作品にはなっていると思う一方で、この作品に関してはもう少し無防備な部分があってもいいのではないかという気もする。出演(候補)者の出席率が高かったというのもあるけど、10/4(土)の上演はやや「仕込み感」が強く出てしまっていたように感じた。ともすれば「これは全て演出なのでは?」という疑惑を招きかねないほどに。当たり前だけど、仕込みだと思われると現実と虚構の境界は揺らがない。そういう意味で、あまりに「構成されている」感じが前面に出てしまうと作品にとってはマイナスなのではないかなと思う(でもこれは去年のを見てるから思うことかも)。