バストリオ 世界のかけら(SFマガジン2015年10月号 現代日本演劇のSF的諸相 第15回)

世界はただ、そういうふうになっていた。

 『100万回』

 

バストリオの作品をはじめて見たのは二〇一三年の二月、横浜のnitehi worksでのことだった。タイトルは『点滅、発光体、フリー』。複数の物語の断片、歌、ダンス、光のコラージュで作り上げられた時間は夢のような手触りを持っていた。手を伸ばせば掴めそうで、しかしするりとすり抜けていく意味と、圧倒的な生々しさ。夢とはつまりリアリティだ。見たことのあるものでできた見たことのない世界がそこにはあった。

バストリオの話を個人的な記憶からはじめるのは、彼らの作品にはそれがふさわしいからだ。バストリオの作品は、彼らの活動は常に世界との出会いとしてある。

バストリオは今野裕一郎が全作品の作・演出を務める演劇ユニット。二〇一〇年に活動を開始。これまでに本公演として六作品を上演し、他にもミュージシャンとのコラボレーションやワークショップ公演としてパフォーマンスを上演してきた。大学でドキュメンタリー作家の佐藤真に師事していた今野は、映画監督としてもドキュメンタリー映画とフィクション映画の両方を製作している。

今回取り上げるのはバストリオの演劇(とパフォーマンス)だが、そのいずれにも、「ドキュメンタリー作家」としての今野の姿勢がはっきりと表われている。寓話的、非現実的な物語の断片が並び、明確な意味を結ばないかのようなバストリオの演劇作品は、一見したところ、ドキュメンタリーの対極にあるようにも思える。しかしそれらは出演者たちとの稽古の中で生まれた断片によって構成されたものであり、その意味で、バストリオの演劇はまさにドキュメンタリーなのだ。断片的な場面を並べるという手法はまた、映画におけるモンタージュを思わせる。ドキュメンタリーは目に見える現実を素材とするが、作家は場面を連ねることで見えないものを浮かび上がらせる。モンタージュはそのための手段だ。異なるもののモンタージュが世界の輪郭を鮮やかに描き出す。

バストリオの演劇作品がドキュメンタリーだとして、それはフィクション=物語を排除するものではない。むしろ、そこには常に複数の物語がある。現実の世界と同じように、作品もまた複数の物語が交錯する場なのだ。出演者個人の物語。作品が上演される場所の物語。そしてそこに導入される虚構としての物語。それらが交差するところに演劇という「今」がある。

バストリオはここ数作品、すでにある物語を起点として作品を立ち上げている。たとえば、二〇一三年八月に新潟県松代の山ノ家で上演され、その後、二〇一四年二月に下北沢の富士見丘教会で上演された『100万回』は、タイトルが示す通り、佐野洋子の絵本『100万回生きた猫』をモチーフとした作品だ。輪廻転生を繰り返す美しい白い猫の物語と、出演者たちの日記、彼らが思い出を語る言葉が並ぶ。minamo×バストリオ名義で発表されたこの作品では、音楽ユニットminamoの杉本佳一と安永哲郎が音楽と生演奏を担当した。

作品のはじまりはこうだ。出演者が登場し、今野が彼らを紹介する。中央に立った今野はマッチを擦り、火を点ける。火が消え、煙が上がる。「その猫は、死にました」。冒頭から告げられる死は輪廻転生を暗示するようでもある。生と死はバストリオの多くの作品で主要なモチーフとなっている。だがそれらは(特に「生」は)抽象的な概念としてではなく、かぎりなく個別具体的なものとしてあり、生をそのようなものとして享受する場として演劇は選ばれている。出演者と観客は同じ空間にいる。作品が上演される建物も、その場にあるモノも、音の響きも、あるいは天気も。『100万回』を観た日は大雪だった。天井の高い教会のしんと冷えた空気と、半身に感じる暖房の熱を覚えている。新潟の上演では夏の熱気や虫の音があっただろう。用意されたものであれ、たまたま居合わせたものであれ、ただ「今そこにあること」。その積み重ねとしてのみ「生」はあり得る。

マッチの先に灯るささやかな火と立ちのぼる煙、そしてかすかな匂い。告げられる猫の死が火葬のイメージを呼び込み、あるいは命の儚さを感じさせるが、一方でバストリオの作品ではしばしば、マッチというアイテムはまさに「今そこにあること」=生を象徴するものとして使われているようでもある。『100万回』下北沢公演の特設サイトには次のような言葉が掲げられている。「1.予測できることは予測しない」「2.予測できないことは制御しない」。これらは世界と出会うための、出会い直すための心構えだ。マッチのもたらす火や煙は人間の意志とは無関係にただそこにある。揺らめく炎も煙のたなびく様も、マッチの擦られるその度に異なるものとなるだろう。あるいは、現実をそのようにまっさらな目で捉え直すための儀式としてマッチは擦られるのかもしれない。

水や重力もまた、そこにあるリアルを、そこにあることのリアルさをはっきりと示して見せる。バストリオの出演者は舞台上で水を撒き、あるいは飲み、様々な物を放り投げてみせる。撒かれた水も放られた物も、火や煙と同じように「自由に」ふるまう。もちろんそれは当たり前のことだ。だがその当たり前を普段の私たちは見ていない。演劇は現実を素材に虚構を作り上げるが、作り上げられる虚構はしばしば現実に新たな側面から光をあてることになる(たとえば役を演じる俳優はより魅力的に見える(ことがある))。私たち観客は舞台上にあるというただそれだけで、いつもなら見過ごしてしまうようなものにも視線を注ぐようになる。バストリオが舞台上にあえて身も蓋もない「リアル」を持ち込むのはそのためだ。

バストリオの現実への姿勢は一貫している。バストリオは足立区の子供たちと「こどもえんげき部」として活動し、これまでに『みんなちがってる』『夢みたい』の二作品を発表している。残念ながら筆者はどちらの作品も未見なのだが、ドキュメンタリー作家としての今野の姿勢を考えれば、子供たちとの活動は一つの必然だ。ドキュメンタリー作家と子供たちとに共通しているのは、彼らの視線がただそこにある世界へと開かれているということだ。そしてそれは子供たちに、いや、他人に対峙するための最低限の倫理でもあるだろう。バストリオには他にも子供を主人公としたフィクション映画『信じたり、祈ったり』や、ある夫婦の間に子供が生まれてくる瞬間を収めたドキュメンタリー映画『3人、』がある。

二〇一三年七月に清澄白河SNACで上演された『グッドバイ』のある回では、開け放された空間にカナブンが迷い込んできたらしい。バストリオの作品においては、ブンブンと飛び回る侵入者カナブンもまた出演者になり得る。その回に居合わせた人々の感想には好意的なものが多かった。

『グッドバイ』は太宰治の小説『グッド・バイ』をモチーフとした作品だ。この作品にも出演者の日記の言葉がコラージュされている。言葉は過去を現在へと呼び込む。作品が、観客の目の前に立つ出演者たちが積み重ねた時間が示される。「わたしたちは別れなくてはいけないので、グッドバイをはじめます」。出会いは別れのはじまりであり、別れるためには出会わなければならない。日記の言葉は『グッドバイ』の出演者たちが出会ってから別れるまでの時間だ。作品が終われば彼らは別れていく。はじまり、終わり、そしてまた新たにはじまる時間。作品の終盤、日記の「15日」という日付が終戦の記憶を呼び込む。ここにもまた一つの終わりとはじまりがあった。その先に私たちのいる「今」がある。

「日本で戦争が起こるんだよ」。二〇一四年に上演された『アリス、どこに行くの?』の一節だ。夢のような、非現実的な手触りを持ったバストリオの作品は、しかし常にその時々の空気を色濃く反映している。世界の美しさを捉える目は、その残酷さにも等しく向けられている。アリスの通り抜けた穴は人が生まれ出る穴であり、死を告げる銃弾のあけた穴でもある。「穴がなくなったらどこにいくんでしょう」。「もうどこにも行けなくなるかもしれないな」。バストリオは現実に穴を穿つ。「繋がってるんですよ。わたしたちに見えないところで」。舞台にはリンゴが転がっている。落ちるリンゴを見てニュートン万有引力を発見したという。見え(てい)ないものに気づく力を与えてくれる知恵の実は、一方で楽園からの追放をもたらすだろう。バストリオの作品は世界に(そして私たち観客に)強烈な一撃を喰らわせる。それは世界への愛をこめた挨拶であり、現実への宣戦布告だ。

私たちが見て、聞いて、そして知ることができるのは、この広い世界の断片に過ぎない。バストリオ/今野はそれらを異なる形でつなぎ合わせ、世界のかけらの一つ一つを輝かせてみせる。その輝きはだが、はじめからそこにあったものだ。今野はただそれを引き出し、あるいは私たち観客の目をそれに向けて開かせる。世界はそこにある。注がれるまなざしは優しく厳しい。

バストリオの次回公演『ニュークリアウォーター』は十月一日(木)から五日(月)まで横浜のSTスポットにて。タイトルのニュークリアは原子力を意味するnuclearか、それともnew clear waterで「新しく澄んだ水」だろうか。おそらく両方なのだろう。二〇一〇年から活動を開始したバストリオの作品の多くは二〇一一年三月十一日以降に作られている。世界には絶望も希望もある。バストリオはしかとそれらと対峙する。