現代日本演劇のSF的諸相 第23回 お布団 フィクションの倫理(初出:SFマガジン2017年2月号)

 お布団は二〇一一年に得地弘基を中心に結成されたユニット。第一回公演では得地の書き下ろし戯曲を上演したが、第二回公演以降は古典戯曲を題材とし、得地が改作した戯曲を上演してきている。得地が問うのはフィクションの倫理だ。あるいはフィクションの呪い。得地にとって作品を上演することはフィクションの登場人物たちにかけられた呪いをどうにかするための試みの失敗の連続としてある。得地はそのために彼らを殺し続ける。
 第四回公演として二〇一四年に上演された『悪い森』はシェイクスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』を原作とする。マクベスは自らが王になるという魔女の予言を受け、仕える王を殺してしまう。「女の股から生まれたものはマクベスを殺せない」「バーナムの森が動いてこない限り、マクベスは無敵。森が動くとき、マクベスは死ぬ」という予言に自信を得るマクベスだったが、森をカモフラージュとして近づいてきたイングランド軍と、帝王切開で生まれたマクダフによって追い詰められ、敗死する——というのが原作のあらすじだ。しかし『悪い森』のマクベスは予言を恐れるあまり、バーナムの森を切り倒してしまう。森がなくなったことでイングランド軍が攻めてくることはなくなったが、同時にマクベスが死ぬこともなくなった。死ぬことができない体になってしまったのだ。王の座から転落したマクベスは永遠にこの世をさまよう。先立ったマクベス夫人と地獄で再会することも決して叶わない。
 原作以上に悲劇的な結末は、マクベスが自身の運命、あるいは魔女の予言に逆らうことによって引き起こされている。運命に逆らうことは許されないのか。しかしそれはマクベス自らが掴み取った運命ではなく、魔女の予言という形で与えられたものだ。さらに言えば、マクベスの運命は魔女の予言以前にシェイクスピアの言葉によって規定されている。マクベスは『マクベス』という戯曲の一登場人物に過ぎず、当然、その物語から逸脱することはできない。原作以上の悲劇は、物語というまさに絶対的な運命に登場人物が逆らおうとすることで引き起こされたものだ。
ハムレット』を原作とした『幽霊と王国』(二〇一五)では事態はさらに深刻だ。「世界の関節は外れてしまった」というあの有名な台詞に導かれるように、『幽霊と王国』は少しずつ『ハムレット』の物語から逸脱していく。やがて恋人オフィーリアではなく母ガートルードが川で溺れると、ハムレットは引きこもって姿を見せなくなってしまう。登場人物たちは物語のほつれから姿を消すかのようにいなくなっていき、オフィーリアだけが残される。「0.消失点」と題された最後の節には「そして、王国は消失した」という一行だけがある。物語は、一つの関節が外れただけで瓦解してしまうのだ。
 お布団/得地が古典戯曲を扱う意味はここにある。何千回何万回と繰り返される物語という名の牢獄。得地は登場人物をそこから解き放つために物語を改変する。得地による改作は、物語への抵抗なのだ。しかしもちろん、抵抗は予め失敗を運命づけられている。得地による改作もまた、新たな物語の創出に他ならないからだ。登場人物たちは上演の度に新たな物語を生き、そして死に続ける。まるでゾンビのように。
 不死の存在や転生は第一回公演である『超家族』(二〇一一)から繰り返し登場するモチーフだ。地方の旧家・桜内家の親戚一同が会し、しきたりに従い、天狗に呪われた一族の血塗られた歴史=物語を上演する。『超家族』は得地のオリジナル作品だが、この時点ですでに物語への抵抗は一つの主題としてはっきりと提示されている。全ての歴史がリセットされ、天狗の呪いからの解放と世界の再生が示唆される結末は救いであると同時に新たな牢獄の誕生でもある。桜内家の歴史が儀式として繰り返し上演されてきたのと同じように、『超家族』という作品もまた(少なくとも公演回数である五回は)繰り返し上演されることになるからだ。
 登場人物にかけられた天狗の呪いを解こうとする得地の身ぶりは実のところマッチポンプに過ぎない。解かれる呪いは得地自身によって用意されたものであり、繰り返し呪われる彼らの運命=物語自体、得地が創り出さなければそもそも存在しないものだった。救うために呪うこと。ここには一つの欺瞞がある。この欺瞞に気づいていたからこそ、得地は古典戯曲の改作に手を出したのではないだろうか。少なくともその呪いは、得地自身が用意したものではないからだ。改作もまた新たな牢獄を創り出すことに変わりはないが、得地はそのことの責任を真摯に引き受けようとしているように見える。
アンティゴネアノニマス-サブスタンス/浄化する帝国』(二〇一六)はギリシャ悲劇『アンティゴネ』をドイツの劇作家ブレヒトが改作したものに基づく作品だ。テーバイの王クレオンは戦場から逃亡した裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じ、ポリュネイケスの妹であるアンティゴネはその命令に背き兄を埋葬しようとする。得地が改作の対象としたのは、ブレヒトによる改作のうち「序景」と題された本編に入る以前の部分だ。「序景」に登場するのは一組の姉妹とナチス親衛隊員。冒頭の「ベルリン、一九四五年四月」というト書きからも明らかなように、この「序景」にはテーバイを舞台としたギリシャ悲劇『アンティゴネ』を現代の観客へと接続する機能が担わされていた。はるか歴史のあちら側の出来事をこちら側へと引き寄せて考えること。だがそんなことは果たして可能なのだろうか? あるいは、そのような態度は果たして誠実なものだろうか? 無関係と切り捨てるよりかは幾分かはマシかもしれない。しかしいくら引き寄せてみたところで、それがフィクションであることに変わりはない。フィクションの世界は絶対に「こちら側」ではない。だから、得地は回路を逆転させる。
 そこではやはりテーバイがアルゴスと戦っている。しかし舞台はテーバイでもベルリンでもなく、アルゴスだ。時は三〇一六年。テーバイで起き、ベルリンで起きたかもしれない出来事が、アルゴスでも起きていると仮定すること。過去に起き、今また起きたことが未来にも起きうると仮定すること。タイトルに冠された「アノニマス」の意味はここにある。私たちの知らない、名もなき誰かのうえにも悲劇は起こる。彼ら彼女らのいる「あちら側」への想像力。必要なのはそれだ。
 物語はごく短い。姉妹が家にいると外から喚き声が聞こえてくる。様子を見に行こうとするとアルゴスの兵士が現れ、そして問う。「お前たちは誰だ?」姉妹は答えられず立ち尽くす。あるいはそこに、テーバイの兵士が現れるかもしれない。彼はアルゴスの兵士を撃ち殺す。いや、テーバイの兵士は現れず、アルゴスの兵士は姉妹を撃ち殺す。一九四五年のベルリン、紀元前のギリシャ、三〇一六年のアルゴス。シチュエーションを少しずつ違え、繰り返される地獄。しかしこれらが上演されているのは、もちろん二〇一六年の東京でしかない。だから、上演される全ては「あちら側」の話だ。
 繰り返し殺される女はやがてこれがフィクションに過ぎないことを暴露しはじめる。

助けてと、言っても助けてくれないことは分かっていました。姉妹であるわたしたちは存在していません。現実に兵士に殺されようとしている「わたし」としては。存在していないので、助けて! とこうやって叫ぶこともできるし、存在していないので、あなたたちは助けないことができます。むろん存在していたとしても、あなたたちは助けないことができます。ですが、存在していないのはどういうことなのでしょうか。助けを呼んでいるわたしは誰なのでしょうか?

ここで「あなたたち」と名指されるのはもちろん観客だ。観客はフィクションの登場人物たちを見殺しにし続ける。彼らは何度でも生き返り、そしてまた死んでいくだろう。
『浄化する帝国』の世界では死体が兵器として「再利用」される。君臨する帝王はだから、得地自身の似姿でもあるだろう。自身を「冠を授けられた者。呪いを担わせられた者。玉座に座らせられた者。秩序の修復を任せられた者。民の地獄を背負う者」と呼ぶ帝王は、自らに流れる「穢れた血」を「清潔で神聖な白亜」の血と入れ替え、死ねない体になってしまう。救いをもたらさんとする者は自らも呪いを受け入れなければならない。おそらくはそれが彼なりの誠実さなのだ。
 お布団/得地は繰り返しフィクションの倫理を問うて来た。フィクションの登場人物を救おうとしながら、自分に彼らを生かす/殺す権利はあるのかと問い続ける。答えは見つからない。だが得地はそれでも「あちら側」へと手を伸ばさずにはいられない。なぜなら、「あちら側」に広がっているのはフィクションの世界だけではないからだ。それは決して届かない他者への働きかけだ。
『浄化する帝国』もまた試みとしては失敗に終わり、「呪い」が世界を覆い尽くしてしまった。だが幸いなことに、『浄化する帝国』には続きが用意されている。続編にしてお布団の新作『アンティゴネアノニマスフェノメノン/善き人の戦争』は二〇一七年一月二五日(水)から一月二九日(日)まで、シアターバビロンの流れのほとりにてで上演される。「戦争」が「帝国」にもたらす結末を見届けたい。
 さらに、三月には新宿眼科画廊でプラトン『クリトン』などを原作とした『対話篇(仮)』の上演も予定されている。こちらは青年団リンク・キュイを主宰し、第1回・第3回せんだい短編戯曲賞で大賞を受賞した劇作家・綾門優季が戯曲を書き下ろすのだという。死刑執行を待つソクラテスと彼を助け出そうとするクリトンとの正義をめぐる問答は、フィクションの倫理を問い続ける得地にどのような解を与えるのだろうか。