メヘル・シアター・グループ『1月8日、君はどこにいたのか?』(2012)

『1月8日、君はどこにいたのか?』は1挺の拳銃をめぐるサスペンスだ。ジャン・ジュネ女中たち』の稽古のために芸術家サラの家に集まった4人の女とその関係者の2人の男。男の1人、兵士のアリが目を覚ますと他の面々の姿はなく、そして彼の拳銃も消えていた…。誰が、そして何のために拳銃を奪ったのか。携帯電話を通じての会話から浮かび上がる各自の思惑とすれ違い、互いの関係性とその変容。観客は文字通り息を詰めてなりゆきを見守ることになる。一見何も起きていない舞台で繰り広げられるスリリングなやりとり。この作品は何よりもまず、第一級のエンタテイメントであり、それだけで十二分に観る価値のある作品であった。まずはその点を強調しておきたい。 

イランという国で演劇を上演するためには検閲を通過しなければならない。F/Tが発行する冊子「TOKYO/SCENE」のインタビューで作・演出のアミール・レザ・コヘスタニはこう語っている。「ある問題を直接表現するのではなく、その前段階の状況を再現すると、観客は劇作家が問いかけている問題を理解することができる。そうした迂回した表現を施すことで、検閲にさらされる“告発”の痕跡を残さずに伝えることができるのです」と。「問題」となる部分は周到に迂回されているのだ。

このような検閲をめぐる状況は作品の構造にも反映されている。登場人物たちは「銃」という言葉を使うことを避け、代わりにそれを「カツラ」と呼ぶ。盗聴などで誰かに聞かれるのを恐れてのことだろうか。そのような隠喩を交えた会話は核心を避けるかのように旋回し、中心にあるはずの拳銃はその所在すらなかなかはっきりしない。観客に対しても同様だ。最後まで拳銃は観客の前に姿を表すことはない。この作品は一貫して、そこにないものをめぐる物語なのだ。

だが、「そこにないもの」は「存在しないもの」ではない。そのことを強調するかのように、真っ白だった床は物語の進行とともに様々なものによって汚されていく。血の付いた包帯、写真、足跡、ビデオテープ、そして血痕。出来事の痕跡。それらは過去の何か、そこにはないものの微かなしるしを留め、見る者に伝えている。

物語の終盤、『女中たち』のセリフが引用される。「あたしたち、絶対に痕跡を残している、確かよ。(…)あたしには見えるんだ、絶対に消すことのできない無数の痕跡が。」これは『女中たち』のセリフであると同時に、自分たちが銃を盗んだことが露見するのを恐れる登場人物の心情吐露でもある。そして作者であるコヘスタニから作品を見る者へと向けられたメッセージでもあるのだろう。お前たちが見ている作品には検閲を経てなお「絶対に消すことのできない無数の痕跡」がある。それがわかるだろう。観客へのそんなメッセージだ。思わせぶりなセリフの縫い目から背後に隠された個々人の事情が見えてきたように、あるいは証拠を追う警察がやがては犯人へと至るように、観客は痕跡を辿り「そこにはないもの」へと手を伸ばす。

一方、作品制作にいたる経緯を考えたとき、そこには「痕跡」をめぐるアンビバレンツが見えてくる。この作品を創るきっかけとなったのは、コヘスタニと友人たちとの間に生じた認識のズレだったという。イランの大統領選挙とそれに伴う事件の当時、イギリスにいたコヘスタニとイランにいた友人たち。「彼らの大半は、私が西洋のメディアやYouTubeの映像を通して見た2009年6月にテヘランの路上で起こった事件、その報道を知らなかった。私と違って、彼らはむしろその事件を個人的に経験していた」とコヘスタニは言う(当日パンフレットより引用)。登場人物たちが互いの状況を携帯電話によってしか確認できないシチュエーションは、ある事件の渦中にいる人々が事態を個人的な出来事としてしか体験できないことを示す。共謀して拳銃を盗み出したはずの彼女たちの思惑は最初からズレを孕み、誰もが自分自身の置かれた状況と個人的に向き合っているのみであることが明らかになる。彼女たちは事態の全貌を把握することも、ましてやコントロールすることもできない。出来事のその瞬間には全体を俯瞰することは叶わず、事後にメディアなどを通じて確認した全体像は自らの経験とはどこか決定的にズレているのだ。客席からそれを見る観客は、全体で何が起きているのかを(あたかもメディアを通して事態の推移を見守る)少しずつ把握していきながら、しかしそれぞれの登場人物の個人的な事情を完全に理解することはできない。痕跡は痕跡でしかなく、そして誰よりもコヘスタニ自身が痕跡と実際の出来事、生の体験との間に生じるギャップを痛感している。その上でなお、コヘスタニは痕跡に託すという手法を採った。それでいいのだろう。目的は「真実」の追求にはない。

検閲の存在が「直接語らない」という手法を要請し、この作品は「不在の拳銃」をめぐるミステリとして結実した。小説や映画におけるミステリもまた、謎、つまり「そこにそれとしてはっきりとは提示されていない事柄」を扱うジャンルであった。『1月8日、君はどこにいたのか?』は物語、形式、作品制作の事情と作品において扱われる問題という複数の面で「そこにはないもの」をめぐってのやりとりだったのだ。しかしこの作品において「そこにはないもの」にたどり着いた観客はさらに先に進まねばならない。ミステリにおいて「そこにはないもの」への到達は謎の解決を意味するが、この作品を経て観客がたどり着く「そこにはないもの」は答えではなく問いだからだ。痕跡をたどる観客がたどり着くのはコヘスタニが投げかけたイランの現状=「そこにあるもの」への問いなのだ。観客はそれを受け、今度は自ら「そこにはないもの」=未来への思考/試行を始めることを促されている。