三野新『あたまのうしろ』(2012)

ヒッピー部『あたまのうしろ』は奇妙な作品だった。ヒマワリが咲く庭の映像とその前に立つ女。彼女の写真を撮る男。時おり言葉が交わされるものの、物語を紡ぐほどではない。舞台では人が動き、写真が撮られ、映像が撮られ、そして映し出されたそれらがまた撮られる。舞台上の一連の行為は世界を時間の流れから切り離し、そのままの姿で保存しようという試みだったのだろうか。だが『あたまのうしろ』を観た私が感じたのはそれとは真逆の感覚、捉えたはずの世界からの拒絶、あるいは、「私はそこにいない」という悲しみだった。私を包み込む世界がぐるりと裏返り、私は世界の外側に放り出される。

舞台では紗幕が効果的に使われていた。ヒマワリの咲く庭の映像が紗幕の裏から投射され、それが窓の外に広がる風景となる。あるいは、ビデオカメラが捉えた女のうなじが紗幕に映し出され、さらに紗幕を通過した光が壁にも女を映し出す。ところが、それを見た観客は奇妙な感覚に襲われる。紗幕に映る女と壁に映る女が互い違いの方向を向いているからだ。これは特別な仕掛けによるものではなく、映像が紗幕の裏から投射されていることによって生じる現象である。映画館を思い浮かべてほしい。映画館では観客の後方からスクリーンに向けて映画が投射されている。『あたまのうしろ』で紗幕に映し出される映像は、映画のスクリーンを裏から見ているのと同じ状態にあるのだ。対して壁に映る映像は壁の手前から投射されているため、通常の映画と同じように映し出される。互い違いの方向を向いた女の顔を見た観客は、それまで見ていた紗幕の映像が、左右反転した像だったことに気づくことになる。観客が見ていた風景は、裏側から見た風景だったのだ。

紗幕の前に立っていた女優は、いつしか幕の向こう側にいる。観客は写真を撮る男とともに、こちら側に取り残される。女はもう1人の男にビデオカメラで撮影され、そのうなじを私たちに見せる。テープレコーダーに語りかける女。機械を通した歪んだ声がそう思わせるのだろうか、現在進行形で撮影されているはずの女の映像を見ているうちに、観客は、女が既にそこにはいないのではないかという疑念に襲われる。しかし、そうではない。消えてしまったのは私たちのほうだ。仕切りの向こうでビデオカメラを構える男に話しかける女。先ほどまで写真を撮っていた男の呼びかけには答えない。幕の向こう側こそが世界であり、こちらは裏側なのだ。男と、そして男と同じ側に立つ観客は、彼女の世界の外側にいる。気付けば、私たち観客は幽霊のような存在としてそこにいる。

そもそも「写真を撮る」という行為は、目の前の風景を捉えようとする行為であると同時に、撮影者が自らをその風景から切り離す行為でもある。ファインダーを覗く自分が写真に映ることはない。あちら側とこちら側は決定的に隔てられる。この断絶の感覚は、母というモチーフとも呼応しあう。写真を撮る男は(あるいは女も?)舞台上で母の面影を探しているようだった。母という存在もまた、誕生のその瞬間に私とは決定的に隔てられてしまうものだ。引き裂かれた自らの分身としての母。写真を撮ることで自分を世界から切り離す行為は誕生の瞬間に、そして写真を見ることで引き起こされる感情は母への思いにどこか似ている。

では写真を撮られる側、被写体は世界とどのような関係を結ぶのだろうか。写真にはたしかにいつかの自分や、いつかの風景が写っている。だが、そこには「あたまのうしろ」が欠けている。つまり被写体の背後にあったはずの風景は遮られ、なかったことになる。舞台上で撮られる写真もそれは同じだ。女とヒマワリを写した写真。女の背後のヒマワリは写らない。ところが、投射された写真の女はゆっくりと薄れていく。同時に周りの色合いが変化し、女の形にヒマワリが浮かび上がる。それは欠けていたはずのあたまのうしろの風景だ。女は消え、切り取られた風景だけが残る。ヒマワリの庭は母の記憶に続いていると、女は言う。かつて彼女がいた庭。今は彼女はそこにはいない。欠落が記憶を呼び覚ます。男が庭に母の面影を見るとき、彼の目は風景を見てはいない。地としての風景から母という欠けた図が浮かび上がる。見えるものと見えないものが反転する瞬間だ。

『あたまのうしろ』はピンホールカメラに似ている。ピンホールカメラの仕組みはこうだ。箱の一面にごく小さな穴を開けると、そこから入った光が穴の対面に像を結び、外の風景の倒立像を映し出す。大きな暗い部屋に立っているのを想像してみてほしい。目の前の壁には部屋の外の風景がひっくり返って映し出されている。私のあたまのうしろに広がっているはずの風景を眺める私。逆さまの世界。私の前とうしろが、上と下が、部屋の内と外が裏返る。私たちの眼も、ピンホールカメラとほぼ同じ機構を備えている。レンズの役割を持つ水晶体を通過した光が網膜で像を結ぶ。その像は倒立像だ。私たちに見えている世界は、いつも逆さまの世界なのだ。だとすると、ピンホールカメラによって映し出される倒立像は、世界の本来の姿なのだろうか。

胎児は母の腹の中、逆さに眠っているという。彼が目覚めるとき、世界の内と外は反転する。広大な外の世界へと、たった独りで彼は投げ出されるのだ。暗く温かな、懐かしいあの穴蔵へと戻ることは許されない。『あたまのうしろ』は誕生の反復として、あるいは、逆さまの世界を再びあるべき姿へ戻そうとする試みとしてあったのかもしれない。劇場の内と外が裏返り、世界が舞台の上に孕まれる瞬間がたしかにそこにあった