わかりあえなさについて/『風立ちぬ』レビュー

『風立ちぬ』で際立って印象に残っている二つの場面がある。一つは幼少の二郎が河原でイジメを止めようとする場面。もう一つは飛行機の設計に携わるようになった二郎が会議で軍の担当者らしき面々と同席する場面である。どちらも物語全体の流れからすれば特に重要な場面というわけではないのだが、共通してユニークな表現が用いられている。二つの場面ではそれぞれ三人ずつのイジメっ子と軍人が二郎に対し何事かを喚き立てているのだが、重なり合う彼らの言葉は「バルバルバル」とでもいうような不可思議な音で表現されている。彼らが日本語で何事かをしゃべっているのは明らかであるにも関わらず、その言葉は意味をなさない言葉として表現されていたのである。

この「意味不明の言葉」は二郎とイジメっ子あるいは軍人との間に立ちはだかる「わかりあえなさ」を端的に表現していたと言えるだろう。「美しい飛行機を作りたい」という二郎の欲求と、「飛行機を使って他国を制圧したい」という軍の野望は常にすれ違い続けるよう宿命づけられている。二郎に監督である宮崎駿の姿を重ねて見る向きがあることからも明らかなように、この映画は芸術と現実との間で生じる葛藤を描いた一面を持っているのである。

翻って考えてみるならば、二郎の理解者たちは常に言葉の通じる者としてあった。そもそも少年二郎は夢の中でイタリア人であるカプローニと平気で会話を交わしていたではないか。もちろんそれは夢の話ではあるのだが、ヒロインたる菜穂子との出会いを決定的なものにしたのもまた「言葉が通じること」であった。そこではタイトルにもあるポール・ヴァレリーの詩の一節がフランス語で発せられる。
 
“Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳されるその詩を二人がともに「フランス語で」了解すること、つまりは言葉を共有することが、二人が同じ世界を生きる人間であることを示している。二郎が最新鋭の飛行機の研究のためにドイツに留学する場面でも、日本人とドイツ人との間に若干の対立こそ生じるものの基本的には言葉が通じてしまうのは、そこに飛行機という共通言語があるからだろう。

だからこそ、同じ日本人であるにも関わらず言葉の通じない者の存在は痛烈である。そこでは理解し合うことの可能性があらかじめ奪われている。野蛮人を意味するbarbarianという単語の語源はギリシャ語で「意味のわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイにあるという。二郎にとってイジメっ子や軍人は言葉の通じぬ野蛮人に過ぎない。

ところで、ときに二郎が成長しないことが批判されるこの作品だが、イジメっ子の場面と軍人の場面を比較するとそこには明確な違いがある。前者で二郎はイジメを止めに入るのに対し、後者の場面で二郎はただただ無関心を示すのみなのである。言葉が通じぬ者への無関心がどのような結果を招いたかは映画の結末からも明らかだろう。

私たちは言葉の通じぬ者たちに働きかけ続ける忍耐を持っているだろうか。



*このレビューは11/4の文学フリマで発売予定の批評同人誌ペネトラに掲載されるクロスレビューの1本です。