『ゼロ・グラビティ』

映画『ゼロ・グラビティ』にはスクリーン、あるいはカメラの存在を強く意識させる瞬間が二度ある。一度目はストーン博士が国際宇宙ステーションの通信設備にたどり着くあたり、二度目は彼女が大地を踏みしめるラストシーンだ。国際宇宙ステーションでは空中を漂う水滴の一つが、ようやくたどり着いた地球では彼女が足を踏み出した拍子に跳ねた泥が画面に付着する。これは一体どういうことなのだろうか。

たった二度しかない、しかも映画のストーリーとは一切関わりのない些末な瞬間になぜ拘泥するかと言えば、それが『ゼロ・グラビティ』という映画の存在そのものを裏切る瞬間であるように思われるからだ。『ゼロ・グラビティ』は観客に強い没入を促す映画であり、映画を構成する全ての要素がそのために奉仕している。3Dであることを最大限活かした運動描写と緻密な音響デザイン、そして計算し尽くされたプロットの緩急が宇宙空間での生き残りを賭けた旅へと観客を連れ出す。『ゼロ・グラビティ』がときにアトラクション映画と呼ばれるのはこのためだ。観客はジェットコースターに乗るように、自らの身体的な体験として『ゼロ・グラビティ』を観る。諸々の仕掛けによる強い没入感がポイントとなるこの映画において、水滴や泥が画面に付着する瞬間が不要なものであるように思われる。スクリーンあるいはカメラの存在を意識させるそれは、没入の対極にある瞬間だからだ。

ところで、『ゼロ・グラビティ』は別の側面から見れば人間の誕生を描いた映画でもある。映画には生命の誕生や進化の暗喩が巧妙に、と言うよりむしろあからさまな形で織り込まれている。たとえばストーン博士が国際宇宙ステーションにたどり着いた直後のシーン。宇宙服を脱ぎ捨てた状態で膝を抱え丸くなる彼女の姿は胎児のようである(ご丁寧にヘソの緒らしきものまで用意されている)。あるいは、中国の宇宙ステーション天宮の無数の破片は卵子に殺到する精子のように地球へと突入していく。そして地球へと帰還したストーン博士は水中を経て大地に立つことで人間の誕生の瞬間(=羊水から外界へ)を体現して見せる。同時に、水の中から現れ、腹這いから四つん這いへ、そして二足歩行へと移行していくストーン博士の姿は人間に至るまでの生命の進化をなぞるようでもある。この場面で彼女は二重の意味で人間の誕生を演じているのだ。

劇中で繰り返される切断と結合のモチーフも人間の誕生と関わるものであることは言うまでもない。誕生とは端的に言って母体からの切断であり、だからこそストーン博士は地球に帰還するまでにさまざまなものを切り離さなければならなかったのだ。

ここまで来れば、なぜ『ゼロ・グラビティ』に没入を疎外する瞬間が(しかも一つはラストシーンに)用意されなければならなかったのかは明らかだろう。観客もまた切り離されなければならなかったのである。観客は映画が終われば暗い通路を通り抜け、明るい外の世界へと戻っていかなければならない。映画館という子宮との切断。それは同時に現実世界への帰還=誕生を意味する。映画館で『ゼロ・グラビティ』を観ることは誕生を疑似的に体験することなのだ。ストーン博士は無事地球へと帰還したが、観客が帰るべき場所はスクリーン上にはない。観客によるストーン博士の旅の追体験は映画館を後にすることでようやく完成するのであった。