あごうさとし『純粋言語を巡る物語−バベルの塔Ⅰ−』

役者不在の演劇(=観客が動かされることによって生起する演劇?)だったという前回公演『−複製技術時代の演劇−パサージュⅢ』が好評だったので今回の公演を予約。今回はまた新たなシリーズの第一弾ではあるものの、前回までの実践を踏まえた試みであると思われる。その試みとは「観客を動かすこと」であり、アフタートークでのあごうの発言によれば、今回は一歩進んで「観客に言葉を発させること」を目指したという。

観客は受付を済ませるとロッカーに入っている腕章とマニュアルを取り出し、代わりに荷物を預けるよう指示される。マニュアルには「本日の作業内容」が記されている。

・準備運動

・レクチャー

クレドの唱和

・作業開始

 1.ヘッドフォンをかぶる

 2.O氏の様子を伺う

 3.O氏に何か聞かれたら、なにか答える

 4.もしマイクを持って話せと言われたら勇気を持って話す

O氏は「人工生命学者」であり、当日パンフレットには、

劇場に建てられる塔はO氏の研究塔であり、人生の象徴でもあります。O氏は年老いた老女です。彼女にはもう先はありません。ただ彼女はもう一度人生をやり直したいと強く願っています。

とある。森下スタジオで行なわれた東京公演では、記者会見場を模した説明スペースが用意されており、小保方さんをあからさまに想起させる(というかほぼそのままの)設定がまずは気になるところだが、ひとまず作品の概要を確認していこう。

腕章の番号と対応する形で割り振られたヘッドフォン(上から吊り下げられている)から聞こえてくるのは、O氏に何らかの形で関わった人々によって語られる、O氏の物語のいくつかの断片である。聞こえてくる物語にはいくつかのバリエーションがあるとのことだが、自分のヘッドフォンに聞こえてきたのは次のようなものだ。曰く、小学生のときに蒟蒻の絵を描いた。奥手だった。バレンタインにチョコを用意したが、相手が甘いものが嫌いだと困ると思って梅干しを添えた。蒟蒻をヒントに人工生命の研究が進んだetc…。物語を聞いている観客の周囲を太田宏演じるO氏が徘徊する。全員が物語を聞き終えると、「5番のあなた、その後わたしはどうなったの?」などとO氏が問いかけ、それに観客が何らかの答を返すというやりとりが数度行なわれる。その後、何人かの観客が同じ質問に対する答えを、今度は場内中央に降りてきたマイクに対して発するように求められ、その答えは録音されアーカイブされる。やがてO氏は「そうね、そうだったわね、思い出したわ」と言って作品は終わっていく(最後ちょっと違うかも)。

正直言って、いくつかの試みの全てが中途半端に思えた。

まず第一に俳優の扱いについて。今回の作品には俳優は登場するものの、一度は俳優不在の作品を経ている以上、俳優というものがなぜそこに必要なのかという問いは十分に検討されてしかるべきである。にも関わらず、今回の作品は俳優不在でも成り立つ作品=俳優の存在の必然性の見えない作品であるように思われた。たとえば、ヘッドフォンの1つには失敗した人工生命のように見える手の一部が付着しており、その真下には同じように足があった。この仕掛けは不在の人物を想起させるに足るものだったのではないか。あるいは、そもそも「噂話」というフォーマット自体が不在の人物をめぐる形で生成されるものであり、そうである以上、O氏本人を登場させる必要はなかったのではないか。

第二に、主題であるはずの「純粋言語」について。さまざまな場所での公演を通じて観客の発する言葉をアーカイブすることで、標準語とはまた違う、あらゆる言葉から等距離にある「純粋言語」を構築することを目指す、という主旨のことがアフタートークでは話されていたが、作品内にそのコンセプトが観客にそれとわかる形で反映されているようには思えなかった。O氏の発話が標準語と関西弁を行き来していたとのことだったが、そもそも関西弁話者ではない自分からすると、関西のイントネーションが何箇所かで入っているのが聞こえた時点で、全体が関西弁で発話されているのだと思っていた(どこからどこまでが関西弁であるのか/ないのかの判別ができない)し、そもそもO氏の発話モードの揺れがわかったから何だという話しである。アーカイブされた観客の言葉が次回以降の公演で使われていくということなので、公演が進めばまた別の印象が生じてくるのかもしれないが、物語的な主題との乖離が甚だしく、物語ではなく言葉そのものへの注意が喚起される作品にはなっていないように感じた。

そして第三に小保方さんというトピックの選択について。アフタートークで「そもそもなぜ小保方さんなのか、小保方さんの話を下敷きにするにしてもこんなにも直接的な形で扱う必要はなかったのではないか」という質問をした。それに対する答は、「観客に言葉を発させるということが目的だったので、多くの観客に訴えかける(身近な?表現は違うかもしれないけど、多くの観客が理解でき、何かを言うことができるという意味の内容)物語がいいと思った。京都公演の直前に小保方さんの事件が起きたので、ドラマトゥルクと話してこのトピックでいくことにした。京都公演では記者会見場もなかったので、ここまで小保方さんには寄っていなかった」というものだった。この答から判断するかぎりにおいて、この作品の主題として小保方さんを取り上げる必然性はかぎりなく低かったと言わざるを得ないだろう。当日パンフレットには次のような言葉もある。

O氏に別の人生の可能性があったのか。 (中略)最後にO氏は、作業員に問いかけます。そこで語られる作業員の幽かな言葉がO氏の別の物語を紡ぎます。O氏の別の可能性をあたえる作業員はあるいは悪魔メフィストなのかもしれません。

ここで言う「別の人生の可能性」と、週刊誌・ワイドショー的な無責任な噂との間に、果たしていかほどの違いがあるだろうか。ワイドショー的な物語からO氏の物語を救い出すことこそがあごうのねらいだったかもしれない。だが、今回の作品の構造では「別の人生の可能性」と「噂」との差別化を図ることはできないだろう(実際、自分が参加した回では痴情のもつれから殺人事件が発生していた……)。そもそも、「物語の断片」(あるいは声)を「アーカイブ」するという構造そのものがワイドショー的なものとあまりに相性がいいことはインターネットの状況を考えればあまりに明らかだろう。今回の作品のモチーフとして小保方さんは最も選んではならないものだったのではないだろうか。

全然誉めてないけど、演劇に原理的な面からアプローチする作家は貴重なので、次回公演を楽しみに待ちます。今回のを見る限り原理的な部分については詰めが甘いというか十分に考えきれていないように思うので、個人的には一度物語を捨てて(置いといて)原理的な面からのアプローチを突き詰めた作品が見たい。あとできれば今後も関東圏での公演がありますように。