地点『光のない。』(2012)

「わたし(たち)」「あなた(たち)」が執拗に反復される地点『光のない。』のオープニングはエルフリーデ・イェリネクの『光のない。』というテクストへの優れた導入となっていた。閉ざされた防火シャッターの前にせり出した舞台。「わたし」と言いながら私たちを指差す彼女。「あなたたち」と言いながら手を挙げる彼。本来、指差しは「わたし」以外のものを、挙手は自らを示すための身ぶりである。チグハグに組み合わせられた言葉と動作は、「わたし(たち)」と「あなた(たち)」の境界を、主体の在り処を曖昧にしていく。

ABふたりの(テクストに基づけば2台のバイオリンの)対話として構成されている『光のない。』において、しかし言葉の主体は明らかに一貫していない。それは死者の/原発の/大地の/海の、そして他の様々なものや人の言葉の混淆物としてある。そもそもバイオリンの演奏は通常、楽譜として示された音楽を奏でるものであり、バイオリンが発する音=言葉はその外部から来るものだ。ドイツ語でバイオリン(Geige)と掛け言葉になっているガイガーカウンターも、テクストの言葉を声として発する役者も、自らの外部にあるものを音に変換する点で相似形をなしている。外部からもたらされる音というモチーフは演出の面でも一貫している。例えば合唱隊。彼らの姿は舞台上にはほとんど見えない(足だけが見えている)。姿の見えない彼らから発せられる音は、肉体なき声として空間を満たす。役者たちはその声を拾い、私たちに届けているようでもある。あるいは、舞台の後半で役者たちが鈴を鳴らすシーン。役者の腕には何か装置のようなもの取り付けられ、そこに流れる電気的な信号が彼らの腕を動かし、手に持つ鈴を鳴らす(ように見える)。役者は声を持たぬ者(死者/電気/自然etc.)の代弁者であり、彼方からの声の依り代として舞台に立つ。

ゆえに舞台は境界の揺らぐ場所としてある。「わたし」と「あなた」の関係が揺らいだとき、防火シャッターが開き、向こう側の世界が姿を見せる。「あなた」と「こなた」を、「彼岸」と「此岸」を隔てる扉が開いてしまう。扉の先には静謐かつ荘厳な空間が広がっていた。細長い四角錐の先端を切り取ったものを横倒しにしたような空間。舞台奥やや上方に消失点が設けられ、そこから放射状に床や壁が広がっている。舞台奥の四角形は白く、床・壁・天井は黒い。急な傾斜の床面の最下段、客席に近い位置にはいくつもの脚。それらは客席から見えない位置に、頭を斜面の下に向けて寝そべった合唱団の脚なのだが、脚だけが並ぶ様に死を想起せずにはいられない。舞台手前が死者の並ぶ浜辺ならば、客席は死者の眠る海だろうか。そういえば、ウエットスーツを着た役者の1人は客席から登場していた。舞台上の役者は死者の声を語る者であると同時に、死者に語る者でもある。

境界の揺らぎは言葉の意味をも失効させていく。言葉はものごとを「分かつ」ものであり、それが不可能になったとき、声は単なる音に近づいていくのだ。世界の始まりは「光あれ」という言葉とともにあったという。「光のない」世界では言葉もまたその意味を失ってしまう。ラップにも似た奇妙な節回しや一定の音程で発せられる役者たちの言葉は、意味を越えたところで観客に働きかける。それは音、つまり物理的な振動として観客の身体を揺さぶるのだ。開かれた扉は「ことばの彼方」を開く。言葉の意味ではなく響きが、舞台から指す光が、役者の身ぶりが観客に働きかける。

しかし開いた扉は再び閉ざされる。舞台に圧倒された観客は防火シャッターのこちら側にポツンと取り残される。「判決がほしい。あなたたちの判決がほしい!」という最後の言葉。言葉にすることができないと思われる現実を前に、白黒をつけることの困難な現実を前に、私たちはなお、ものごとを分かち、「判決」をくださねばならない。現実を生きる私たちは、言葉とともに生きねばならない。そんなことが可能なのだろうか。向こう側の光景を突きつけられた私たちは、防火シャッターの前に立ち尽くし、言葉を失くすしかないのではないか。

カーテンコールを終え、帰り支度を始める客席に「わたしたち、待ってほしい」と声が響く。ひとりの役者が登場し、再び言葉を紡ぎ始める。その語り口は先ほどまでの、ともすれば非人間的な口調と比べると、心なしか人間味が増しているようにも思われる。突然、腕がビクンと持ち上がり鈴の音が響く。腕には電気を流す装置が付けられたままだが、その先はどこにもつながっていない。ならばその音は外部からもたらされたものではなく、彼の内部からの衝動によるものだろう。言葉を失ってしまったならば、自らの内に眠る声に耳を澄ませるしかない。溢れる言説の奔流に流されるのではなく、自分自身と真摯に向き合うこと。対話はそこから生まれる。言葉は分かつものであると同時につなぐものでもあるのだ。「帰宅しようではないか」という最後の言葉は観客をもと居た場所へと優しく連れ戻す。私たちは自らのいる場所で、自らの内からの言葉を発することしかできない。そのことをそっと肯定してくれるかのようなこの言葉に、少しだけ救われた気がした。