contact Gonzo『xapaxnannan:私たちの未来のスポーツ』

contact Gonzoの新作は京都サンガF.C.の本拠地でもある西京極スタジアムで「上演」された。2万人収容の巨大スタジアムで「上演」された作品のタイトルは『xapaxnannan(ザパックスナンナン):私たちの未来のスポーツ』(以下『xapax』)。ゴンゾのメンバー+αの計11名が造形作家・曽田朋子によって作られたザパックスと呼ばれるオブジェを奪い合う、ラグビーにも似たオリジナルの「スポーツ」(以下ザパックスナンナン)に興じる。競技はサッカーのフィールドをいっぱいに使って行なわれ、観客はその長辺に面する観客席からそれを眺める。観客とサッカーフィールドとの間にはインストゥルメンタルバンド・にせんねんもんだいがフィールドの側を向いてバンドセットを構えている。

開場するとフィールドにはすでにザパックスを頭に被ったプレイヤーが1人うろうろしている。スピーカーからは「そこには芋虫がいました」「マキちゃんはそのとき夕飯のことを考えていました」というような内容(正確ではない)の女性の言葉がぽつりぽつりと聞こえてくる。やがて時間になると残りのプレイヤーたちが姿を現わし、フィールドに散らばると思い思いにウォーミングアップをはじめる。遅れてにせんねんもんだいが登場し演奏をはじめると競技開始。

ザパックスを被ったプレイヤーがセンターマークに立ち、他のプレイヤーたちがセンターサークル上に並び中心のプレイヤーを見る形でそれを取り囲む。やがて1人のプレイヤーがその場で180度反転すると、中心のプレイヤーに後ろ歩きで近づいていく。ギリギリまで近づいたところでザパックスを奪い取るとプレイ開始となる。ザパックスを奪ったプレイヤーはその場でジャンプしてから走りはじめ、他のプレイヤーも全員が一度ジャンプしてからザパックスを持つプレイヤーを追いはじめる。ザパックスを持つ一人を残りのプレイヤーが追いかけ回す、というのがザパックスナンナンの基本ルールのようである。

ようである、と書いたのは、ザパックスナンナンのルールの詳細は最初から最後まで観客には伏せられているからである。ザパックスを追いかけ回すという全体の枠組みは競技がはじまってすぐにわかるものの、その他にも細かなルールが設定されているらしきことは競技を見ていれば明らかであり、しかしその詳細はプレイヤーの動きを注視し、そこから読み取るしかない。 

枠組みとしては明らかにある種のスポーツ(サッカーやラグビー)を模しているため、開演するとすぐに、観客は目の前で展開されるものをスポーツとして見ようとしはじめる。だが、そこで行なわれているのは観客にとって未知の「スポーツ」である。この未知と既知のバランス、未知のものであるにも関わらず、まずはそれをスポーツとして見ることができるということはこの作品の重要なポイントだろう。観客がそれをある種のスポーツとして見ようとするということは、何らかの基準(ルール、目的)に照らしてプレイの「成否」や「巧拙」を見ようとするということである。ザパックスナンナンではザパックスの奪い合いがその基準となるだろう。ところが、ザパックスナンナンをスポーツとして見ようとする観客のモードは、いくつかの理由で大なり小なり揺さぶりをかけられることになる。

ザパックスナンナンをスポーツとして見ることにいささかのためらいを覚えざるを得ない一つの理由は、メインの枠組みとなっているであろうザパックスの奪い合いが、一方でどこにも着地しない=最終的な目的を設定されていないように見えるからである。ザパックスを持つプレイヤーは他のプレイヤーから逃げるものの、目指すべきゴールが設定されているわけではなく、ひたすらに逃げ続けるだけである。その意味では鬼ごっこなどの遊戯に似ているようにも思えるが、そのプレイヤーが倒されたとして、次にザパックスを持つことになるのは任意の別のプレイヤーであり、1回のプレイと次のプレイとの間に連続性があるようには見えない。ザパックスナンナンは鬼が次々とバトンタッチされていく鬼ごっこ的な枠組みからもズラされている。

さらに、プレイヤーたちの動きが「ザパックスを奪い合う」という枠組みからしばしば逸脱するように見えることも、「ザパックスナンナンはスポーツである」という認識に揺さぶりをかける。およそあらゆるスポーツにおいて「ルール」は競技全体を「合理的」なものにするために存在している。一見したところ競技の進行を阻害するように思えるルール(たとえばサッカーにおけるオフサイド)さえ、全体として見ればゲームバランスを整える機能を持っていると言えるだろう。ところが、ザパックスナンナンのプレイヤーはあまりに頻繁に、プレイの進行とは関係のない行動を取っているように見える。このことが、「未知のスポーツ」に対峙する観客の注意をプレイのみならずルールそのものへも向けることになる。もちろん、ザパックスナンナンが観客にとって未知の「スポーツ」である以上、それを見る観客の意識は多少なりともルールへと向けられるだろう。だが、プレイヤーの不合理な動きによって、「未知のルール」が存在していることがあからさまに示されることで、観客はより一層、それがどのようなルールなのかを考えながらプレイを見るように誘われるのである。 

プレイヤーの動きから筆者が読み取ることのできたルールは以下の通りである。

基本ルール

・ザパックスを持つプレイヤーは他の全てのプレイヤーから追われる。

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたら1プレイが終了する。

・1プレイが終了した時点で全てのプレイヤーはその場所に留まり、ザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点の方向を向く。次のプレイはザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点からはじまる。プレイ再開は以下の手順で行なわれる。

・倒れたプレイヤーはその場で仰向けに寝、ザパックスを顔面に被せられ、別の一人のプレイヤーが上に乗った状態で声を発する(この声はスピーカーを通して増幅される)。声を発している間、上に乗るプレイヤーは黒い布を上に掲げることでそれを他のプレイヤーへと知らせる。他のプレイヤーたちは合図が出ている間、声を発しているプレイヤーから後ろ歩きで遠ざかる。声は複数回に分けて発してもよい(?)。

・声出しが終わったら任意の1人のプレイヤーが後ろ歩きでザパックスへ近づき、ザパックスを持ったらその場でジャンプをしてプレイは再開となる。他のプレイヤーも同じくジャンプをしてからプレイを再開する。

・ザパックスがいずれのプレイヤーにも触れていない状態に置かれた場合、最初にザパックスに触れたプレイヤーがザパックスを持つプレイヤーとなる。

 

ザパックスを持つプレイヤーに関する追加ルール

・プレイヤーはザパックスを腕・頭・脚・顔の任意の箇所に付けることができる。

・プレイヤーがザパックスを腕(あるいは頭?)に付けている場合、通常のルールに乗っ取ってプレイは行なわれる。

・プレイヤーがザパックスを脚に付けた場合、ザパックスを付けたプレイヤーは他の一人のプレイヤーを指定する。ザパックスを付けたプレイヤーは指定したプレイヤーを抜き去ることを目指してプレイする。このとき、他のプレイヤーはその場に留まらなければならない。ザパックスを付けたプレイヤーが相手のプレイヤーを抜き去ると通常のプレイが再開される。

・プレイヤーがザパックスを顔に付けた場合、他のすべてのプレイヤーはフィールドに横たわり、ゴロゴロと転がりながらザパックスを付けたプレイヤーから遠ざかる。ザパックスを付けたプレイヤーは任意のプレイヤーに近づき、その顔にザパックスを被せ、そのプレイは終了となる。プレイの再開は通常の手順に乗っ取って行なわれる。このとき、ザパックスを被せられたプレイヤーを倒れたプレイヤーと見なす。

・ザパックスを持ったプレイヤーがうずくまった場合、他の全てのプレイヤーはザパックスに向かって横一列に並び「壁」を作る(この後どうするんだったかどうしても思い出せず……)

 

ザパックスを持たないプレイヤーに関する追加ルール

・任意の(特定の?)プレイヤーが「腕回し」「前転」「ジャンプ」を行なった場合、ザパックスを持つプレイヤー以外の全てのプレイヤーはそれを真似る。動作を最初に行なうプレイヤーは同時に「はっ」と声を発する。

・ザパックスを持たないプレイヤーはその場でしゃがみこむことでプレイから離脱することができる。プレイから離脱したプレイヤーは他のプレイヤーからの接触があるまでその場から動くことはできない。

 

何らかのルールが存在しているようだが不明なもの

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたとき、他の全てのプレイヤーがそのうえにうつ伏せに覆い被さり山を作ることがある

このように列挙してみれば明らかなように、上で「追加ルール」としたもののほとんどは、「基本ルール」によって設定された「ザパックスの奪い合い」という枠組みと衝突するものである。「ザパックスを持つプレイヤー」の基本的な役割は他のプレイヤーから逃げることだが、ザパックスを付ける箇所によってその役割はほとんど逆転し、自らザパックスを他のプレイヤーに渡すことさえある。「ザパックスを持たないプレイヤー」に課せられた基本の役割はザパックスを持つプレイヤーを追うことだが、「追加ルール」で定められた各プレイヤーが任意で行なうことのできる行為はどれも、「ザパックスを持つプレイヤーを追う」という基本の役割を自ら疎外するものとしかなり得ない。そして、重要なことは、にも関わらず、各プレイヤーはこれらの行為を積極的に取り入れながらプレイに興じるのである。

ルールの細部はザパックスナンナンが明確なゴール=目的を持たぬ「競技」であることを明らかにし、それはスポーツというよりは遊戯や祭事、儀礼のように見えてくる。「競技」がチーム対抗の形ではなく、ザパックスを持つ人間だけが特別である1対多数の形をとっていることもこのような見え方に影響しているだろう。

音楽の存在はまた異なる方向から認識の枠組みに揺さぶりをかける。にせんねんもんだいの演奏をバックに、特定のルールに基づいた動きを見せるプレイヤーたちの姿は、音楽や振付に従って動くダンサーを思わせる。さらに、開場時から行なわれ、プレイ開始後も続く女性のアナウンス=ナレーションは、にせんねんもんだいの演奏と合わさることで、ある種のボーカルのように響く。プレイがはじまってすぐに明らかになることは、このナレーターもまた、ザパックスナンナンのプレイヤーの一人であるということである。プレイする彼女の息は上がり、淡々と発せられていた言葉は徐々に吐息まじりとなる。ときには他のプレイヤーの声や接触音、ぶつかったときの呻き声なども聞こえてくる。ここで観客の視覚と聴覚とが接続される。複数のルールに基づいて展開されるプレイヤーたちの動きは、視覚情報としてだけでなく聴覚情報としても観客にフィードバックされるのである。彼女の存在は複数の「プレイ」の境界を溶かしていく。

にせんねんもんだいが演奏を終え、退場していった後もプレイは続く。やがてスピーカーからはエンジンのアイドリング音らしきものが聞こえてくる。時を同じくしてザパックスを持った一人のプレイヤーが倒される。ゲームの間、途切れることなく続いていたナレーションが最後に告げるのは「このときマサくんの額には傷口が開き、ザクロのような真っ赤な粒々が覗いていました」「やがてこのスタジアムにはヘリコプターが到着することになります」「マサくんはヘリの中で緊急手術を受け、脳内に電子チップを埋め込まれてサイボーグとなりました」「マサくんはその後、伝説のザパックスプレイヤーとして百年間活躍し続けることになります」云々といった荒唐無稽な内容であり、観客はここで突如としてあからさまなフィクションの中に放り込まれるのである。そして作品はそのまま終わっていく。

ナレーションの内容はそもそものはじめからプレイの解説でなかった。彼女はプレイをしている人物のその日の行動やその瞬間の気持ちを述べ三人称で述べ、しかも真偽の判定の難しい、というよりはほとんど思いつきで言葉を発しているのではないかとさえ思わせる内容も多い。かなりの数の観客はゲームとは直接関係ないものとしてアナウンスを聞き流すようになっていただろう。ところが、最後の最後でアナウンスとフィールド上の出来事が(荒唐無稽とは言え)一致してしまう。この、あまりに荒唐無稽な、あからさまにフィクションでしかあり得ないナレーションが観客に引き起こすのは、それまでの即興的に見えていたプレイの全てが(あるいはいくらかの部分が)、台本通りのプレイ、つまりは演劇だったのではないかという疑惑だろう。ザパックスナンナンはそのラストでもう一つの「プレイ」、演劇的な様相を(あるいはその可能性を)曝け出す。

特定のルールの下で身体を動かすという意味において、今作はトヨタコレオグラフィーアワードで上演された「訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作」(以下「001」)の発展形と見ることもできるだろう。「001」もまた評価するには「『新しい振付の定義』を問い直す必要がある」*1作品と評されたが、『xapax』は複数のルールの(無)関係性が観客の認識の枠組みに揺さぶりをかけ、ジャンルそのものを問い直すという点において、名実ともに「001」をスケールアップした作品としてある。

「私たちの未来のスポーツ」という今作の副題とは裏腹に、展開されたザパックスナンナンはその起源、原初の形態である祭礼へと還ったかのような様相を呈していた。「上演」に寄り添うナレーションもまた、それが昔の出来事(=神話?)であるかのように語るのであった(「ハーフタイム」にはそれまでのプレイをプレイヤーたち自身が振り返るツアーが行なわれていた)。「未来のスポーツ」の可能性は進化の過程で切り捨てられた過去にあるということだろうか。あるいは、xapaxがモンゴル語で「観る」を意味する言葉であるというcontact Gonzoの発言を勘案するならば、「未来のスポーツ」はそれを観る観客にこそ関わるもの、上演と観客の間にこそ生じるものなのかもしれない。contact Gonzoは観客にもルールと戯れ、それを踏み越えることを求めている。

*1:ダンスを作るプラットフォームBONUSにおける愛知県芸術劇場シニアプロデューサー唐津絵理へのインタビューより