SPAC『ハムレット』

登場人物を削り(ギルデンスターンもローゼンクランツも墓堀も登場しない)110分とコンパクトな宮城聰演出『ハムレット』。

韻を踏んだ、というかほぼダジャレのように連なる台詞でテンポよく進む喜劇調の前半は、それなりに楽しく見つつもあまり乗れず、しかしいつしかシリアスに転調しガートルードとの対話のあたりからはグッと引き込まれ……というような感想はこの作品のラストを見た瞬間にぶっ飛ぶことになる。

ラストで登場するフォーティンブラスは今作ではなんとマッカーサーに擬えられている。台詞は英語で発せられ、バックにはジャズが鳴り響く。フォーティンブラスの姿は見えないが、床に伸びるパイプを加え帽子を被った人物の影が、彼がマッカーサーであることを何よりも雄弁に語っている。「当然国民大多数の意もそれに従うわけです」。ホレーシオの最後の台詞の後には大量のチョコレートが舞台に降り注ぐ……。

ラストに至るまでに伏線があるわけでもなく、唐突な幕切れはあまりに不可解で(いや、もちろんそういう「読み」だというのは即座に了解できるのだけど)、正直に言って、作品全体のバランスを大きく損ねる余計な演出だと思った。

だが、釈然としないまま帰りのバスで考えたのは、バランスが悪くて何が問題なのか、ということだ。ここで言うバランスの悪さというのはラストとそこに至るまでの作品の結びつきのことを指すのだが、バランスが悪いと言っても全く意味が分からないということではなくて(敵国からやってくるフォーティンブラスをマッカーサーに擬えるのはアイディアとしてはむしろわかりやすい)、ようするに伏線がなく唐突に感じられたのが自分は「気に食わなかった」のである。しかし作品全体としての結びつきの緊密さは果たして必要なものか?

むしろ、幕切れがあまりに唐突だったがゆえに、作品を観終わった直後から自分の中では作品の振り返りと検討が開始されることになったのではないか?あのラストに結びつくような演出はなかったか。『ハムレット』のどの要素が第二次世界大戦直後の日本の状況と結びつき、それを重ねてみせることはどのような意味を持つのか。

ラストと他の部分との結びつきが緊密であったなら、このような検討は行なわれなかったのではないか。と書いてはみたものの、おそらくそれはそれで自分なりの検討はしたことだろう。だが明確に異なるだろうと思われるのは、その場合、提示された解釈の妥当性に対する検討が主になっただろうということだ。

つまり言いたいのは、ラストの唐突さが自分を『ハムレット』という作品の可能性の検討へと向かわせているのであって(フォーティンブラス=マッカーサーという「読み」を『ハムレット』という作品全体へと敷衍しようとすると、当然のことながら全てのピースがピタリと嵌まるわけではなく、だからこそ思考は広がっていく)、だとすれば、バランスが悪いことは必ずしも悪いことではないのではないか?

しかしフォーティンブラスがマッカーサーであるとは一体全体どういう意味を持つのか?宮城は当日パンフレットに次のように書いている。

この演出は、どうしてハムレットやその国民が、新しい統治者として、みずから進んで、敵国の若き王を迎えるのか?という疑問について考えているうちに生まれました。

 ちょうど七十年前の、第二次世界大戦直後の日本人を描いたジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)』が日本で出版されたとき、この「抱きしめて(embrace)」という語の用い方が絶妙であると賞賛されたものですが、ダワーはもしかしたら『ハムレット』を踏まえてこのタイトルをつけたのかもしれない、というところからの連想です。(『ハムレット』のエンディングでは、突然にこの国を統治することになった敵国の青年フォーティンブラスが、ちょうど敗戦直後の日本人と逆の立場で、"with sorrow I embrace my future"(悲しみに沈みながらも幸運を抱きしめる)と語ります。)

 「本当の父」などいない、と知ってしまった日本人は、あのときどうしたか? ひとまず、本当の父の代理を引き受けてくれる相手をみつけたかったのではないか?

 七十年前中学生だった僕自身の父親や伯父さんのあのころに思いを巡らしながら、そんなことを考えています。

 宮城演出の『ハムレット』には父王ハムレットは姿を見せない。父王の台詞はハムレットを演じる武石守正が口にし、父王はただ床に伸びる影として現われるのみだ。ラストに至る伏線がない、と書いたが、唯一、この影だけはラストとのつながりを担保している。父親は常に影としてのみある。自ら抱く父親の影に突き動かされるハムレットは装うまでもなくすでにして狂気であり、その狂気が敵国の若き王に自らの国を譲り渡す事態を招く。父の亡霊に取り憑かれた狂気。それは第二次世界大戦直後というよりもむしろ今の日本の姿ではないか……?

死を前にハムレットとレアティーズ、ハムレットとフォーティンブラスは互いに許し合う。だがその後に降り注ぐチョコレートはあまりに感じが悪くはないだろうか。"Give me chocolate!"の言葉を待たずして暴力的に降り注ぐチョコレート。現代の争いはチョコレートは与えても許しを与えようとはしない。