フランケンシュタインの視線——鳥公園『緑子の部屋』解説(冒頭部/全文はペネトラ7掲載)

 この文章は鳥公園『緑子の部屋』の解説として書かれている。ここで言う『緑子の部屋』は二〇一四年三月に鳥公園#9としてまずは大阪で、次いで東京で上演された、西尾佳織の作・演出による演劇作品である。二〇一五年十一月に書かれているこの文章は、筆者が二〇一四年三月に東京の3331 Arts Chiyodaで『緑子の部屋』の上演を見た際の記憶と、その上演のもととなった西尾による戯曲をもとに書かれている。このような説明をわざわざしているのは、『緑子の部屋』には複数のバージョンが存在しているからだ。西尾は二〇一五年四月から五月にかけて、小説版『緑子の部屋』をウェブマガジン「アパートメント」に掲載し、現在、それを冊子としてまとめたものが公演会場の物販で販売されている。一方、演劇版は同年八月に京都で鳥公園#11として再演され、十一月末から十二月にかけては東京でも上演される予定となっている。筆者は冊子となった小説版『緑子の部屋』に解説を寄せており、さらにこの後、再演版『緑子の部屋』東京公演では、十一月二八日(土)十九時からの回の公演後に批評家・佐々木敦とともに作品についてのアフタートークを行なうことになっている。つまり、この文章は文庫本などに付されているそれのように、(多くは)作品を鑑賞した後に読むためのテクストであると同時に、小説版『緑子の部屋』の解説と対をなすものとして書かれたテクストでもあり、さらには再演へ向けての(そしてそこで行なわれるアフタートークへ向けての)プレテクストでもあるということになる。

 一つの作品に複数のバージョンが存在し、それぞれに対して解説が書かれること、殊に演劇版については、対象となる作品が(上演としては)目の前に存在しない状態でその作品についての言葉が発せられることは、『緑子の部屋』の主題と直結している。『緑子の部屋』は、緑子という名の死んでしまった=不在の女の周囲にいた三人の人物、元恋人の大熊、元同級生の井尾、緑子の兄・佐竹、が緑子のことを語る形で展開していくからだ。『緑子の部屋』という作品は、不在の対象についての複数の証言によって構成されている。

 演劇版(以下、「演劇版」は東京初演版を指す)の冒頭には大熊による「大学の授業の発表みたいな感じ」の、ある絵についての説明の場面が置かれている。二人の女が描かれた絵がプロジェクターで壁面に映し出される。一方の女はその場から立ち去ろうとしていて、もう一方の女はそれを見ている。立ち去ろうとしている女は見られていることに気付いてもいないようで、大熊は「見られてる側が見てる側に気付いてないってことはよくある。と思う」が、絵をよく見てみると、見ている側の女は立ち去る女の方を見ているわけではなく、画面のこちら側、つまりは鑑賞者の方をジッと見ていたことに気付く。ここではひとまず、視線という主題が冒頭からはっきりと提示されているということを指摘しておこう。

 作品のラストにはまた別の絵画作品についての、今度は井尾によるレクチャーが置かれている。街を描いたこちらの絵にはどうやらコラージュの手法が取り入れられていて、「チョコレートの包み紙」や「どっか外国のメトロかトラムの乗車券」などなど、「全然街と関係ないものの上に描かれてい」る。絵の中央にはやはり女がいて、その女は「色んな雑誌のモデルたちの顔を切り刻んではまたくっつけて、一人の顔にコラージュして」「色んなパーツの寄せ集めで出来」た「フランケンシュタインみたい」だと井尾は言う(もちろんここで言うフランケンシュタインは博士ではなく怪物の方を指す)。こちらはよりあからさまに『緑子の部屋』という作品の「不在の対象を複数の証言で浮かび上がらせる」という構造を示していると言えるだろう(「フランケンシュタイン」という言葉は同時に、事故でバラバラになってしまった何人かの身体をつなぎ合わせることで生き返ったという緑子の兄のエピソードを思い出させもする)。