柴崎友香『春の庭』論(ペネトラ5、2014年11月)

世界は無数の時間の織りなす綾としてあり、柴崎友香の小説はその様を精緻に描き出す。わたしの、あなたの、モノの、現在の、過去の、未来の、そしてフィクションの時間。無数の時間はもつれ、より添い、重なり合い、あるいは一瞬の交錯を経て離れていく。そうして世界は広がっている。

柴崎はときにラジカルな手法で世界の綾を紡いできた。『ビリジアン』では日常の風景の中にアメリカの映画スターやアーティストが何食わぬ顔で登場し主人公と会話を交わす。『ドリーマーズ』はタイトルの示す通り夢にまつわる連作短編集だが、読者は現実に夢が陥入してきたかのような感覚を得ることになるだろう。夢やフィクションもまた現実の一部として世界という謎を構成している。

第一五一回芥川賞を受賞した『春の庭』もこのような系譜に連なる作品である。とは言え、『春の庭』には一見したところ『ビリジアン』や『ドリマーズ』に見られたラジカルさはない。だがむしろ、そうであるがゆえにより一層、『春の庭』では小説の原理に関わる試みが際立っていると言えるだろう。その一つはもちろん、終盤に突如として登場する「わたし」の存在である。本稿では『春の庭』で描かれる時間のあり方や人称の使用に注目して作品を分析し、最終的にこの「わたし」の正体を明らかにすることを目指したい。

 

時間の多層性

太郎はある日、同じアパートの二階に住む女がベランダから身を乗り出し、同じブロックに立つ水色の家を覗き込んでいるのを目撃する。後に知り合った彼女、西が語ることには、その水色の家は彼女の持つ写真集「春の庭」が撮影された場所であり、彼女はその家の中をどうしても見たいのだという。『春の庭』で描かれるのは、太郎と西がその家に住む森尾一家と知り合い、ついには西の念願だった水色の家のバスルームを実際に見るまでの出来事とその後の顛末である、とひとまずはまとめることができるだろう。

この小説の中心に「春の庭」という写真集が置かれていることは象徴的である。写真は時間や距離によって隔てられた二点をつないでしまうメディアだからだ。しかも、「春の庭」を撮影したのはCMディレクターである牛島タローと、小劇団の女優である馬村かいこという、言うなればフィクションの世界の住人なのである。太郎は、テレビの中の人や場所を自らとは関係のないものだと思っていたと言う。

もし自分が子供の頃に、近所でテレビの中の人が役柄とは違う格好で歩いているところに遭遇したら、よろこぶというより混乱したのではないかと思った。(…)太郎は大阪で育ったが、テレビドラマの中のことは、どこか遠くの場所にあって、自分が生きている場所とは関係ないのだと思っていた。背景の住宅街も、工場に囲まれた埋め立て地にある自分の街とは全然似ていなかったし、話す言葉も違っていた。だから、安心して見られたし笑うこともできた。もし、自分の街の中にその世界があったら。どっちがほんとうなのかわからなくなって、部屋から出られなくなったのではと思う。この街で育つ子供たちは、その二つの世界をどのように区別しているのだろう。(二四−二五)

 だが小説のラストで太郎は(そして読者も)ついに非現実的な世界に迷い込むことになる。森尾一家が引っ越し、空き家となった水色の家に太郎は一人忍び込む。二階の一室で眠りに落ちた太郎が翌朝目覚めると階下から聞こえてくるのは「庭から女性の遺体が発見されました」という言葉だ。劇的な出来事はほとんど何も起こらず、淡々と進んできたこの小説の最後に用意されたあまりにも衝撃的な展開はしかし、すぐさまそれがサスペンスドラマか何かの撮影だったという形でオチをつけられる。だが、太郎はテレビに出ている女優と一瞬ではあるがコミュニケーションを交わす。太郎は水色の家で、自分とは無関係だと思っていたテレビの世界と束の間の接点を持つのである。「春の庭」とそこに映された水色の家は過去と現在を、テレビの中のフィクションと現実とをつなぐ場としてある。

太郎たちが住む「ビューパレス サエキⅢ」というアパートもまた、複数の時間の交わりを象徴的に表わしている。アパートの部屋番号には干支が割り振られているのだが、それは「辰」からはじまっており、「子」から「卯」の四部屋がない。疑問を感じた西は「ビューパレス サエキⅠ」や「Ⅱ」があるのではないかと探すが見つからず、そもそも「Ⅰ」「Ⅱ」があったところで、それらがそれぞれ二室ずつしかないというのもおかしな話である。疑問は解けず、「ビューパレス サエキⅢ」はそのようなものとして、ローマ数字と干支という二つの異なる数え方の(しかもそれらは途中なのだ)交わる場所に立っている。太郎たちが知ることができるのは、「ビューパレス サエキⅢ」だけであり、「辰」から「亥」までの八つの部屋だけなのである。

「わたし」のいない(いなかった/いないであろう)時間や場所にも時間は流れている。それはまるで暗渠のように目の前にふいに現われ、そしてまた消えてゆくものとしてあるだろう。

 毎日歩く地面の下は、暗渠の川が流れている。水道やガスの管がある。不発弾があるかもしれない。ここはどうだかわからないが、もう少し新宿に寄ったあたりでは空襲の被害があったと、それは美容師をしていたときに年配の客から聞いた。不発弾があるなら、そのときに燃えた家や家財道具のかけらも埋まっている。もっと昔はこのあたりは雑木林や畑だったらしいから、毎年の落ち葉や木の実やそこにいた小動物なんかも、時間とともに重なって、地表から少しずつ深いところへ沈んでいった。

 その上を、太郎は歩いていた。(九四)

柴崎が描くのは、しかしこのような時間の多層性だけではない。『春の庭』においてはしばしば文章それ自体が、いわばパフォーマティヴに時間の多層性を生み出し暴き出すものとして機能している。

その機能はたとえば、「缶ビールは冷えすぎていた。」(一三)のような何気ない記述に仕組まれている。「冷えすぎていた。」という記述が時間の経過を感じさせるというだけではない。実のところ、「缶ビールは冷えすぎていた。」という記述は多くの読者には唐突に思われるであろう形で登場する。「缶ビールは冷えすぎていた。」の直前まで、読者は太郎の同僚で結婚する沼津が婿入りするため相手の墓に入らなければならないという話と、太郎自身の亡くなった父親の骨などにまつわるエピソードが入り交じった太郎の回想らしきものを四頁にわたって読んでいる。その回想らしきものが「太郎は、小学生のときに鉄棒に額をぶつけて切ったことがあるが、そのとき同級生たちが骨が見えると次々にのぞきに来たのに、自分だけが結局見られなかったことが今でも心残りだった。」(一二−一三)と締められたあと、段落が変わると突如として「缶ビールは冷えすぎていた。」という文章が現われるのである。しかも、直後に「リサイクル店で買った冷蔵庫は最近、おかしな音がする。」という一文が置かれると、一行の空白を挟んで「金曜の朝」と別の日の話がはじまってしまうのである。空白の直前の段落はほとんど不要なもののようにも思える。だが、この段落が置かれていることで、読者は太郎の回想から太郎の部屋へと引き戻されることになるだろう。太郎の回想らしき描写がはじまるのは、仕事を終えた太郎が帰宅した部屋で缶ビールを開けた直後であった。その缶ビールが太郎の回想を経て四頁の後に読者の前に戻ってくることで、読者は太郎の部屋という「現在」の中に「過去」の時間が入り込んでいたことに改めて気づかされるのである。

 

視点の移行

同様の企みは西が太郎に水色の家を覗き込んでいた理由を説明する居酒屋の場面にも見られる。この小説は三人称で書かれているが、基本的にその視点が太郎に置かれていることは、太郎の内面描写だけが地の文に登場することからも明らかである。ところが、いくつか例外となっている箇所もある。そのうちの一つがこの居酒屋の場面だ。この場面ははじめのうちこそそれまでと同じ、太郎視点の三人称で書かれているが、西が自身の過去を語りはじめると太郎は姿を消し、西の内面描写を含む三人称に、つまりは西視点の三人称へと変化する。

このような視点人物の変更は巧妙に行なわれているため、ともすれば見落としてしまいかねないものである。それが太郎の視点であれ西の視点であれ、文章が三人称で書かれていることには変わりはないし、ここまでに発せられる西の言葉もまた、太郎のそれと同じようにしばしば地の文に組み込まれる形で書かれているため、視点人物が太郎から西へと変化したところで、全体の印象はさほど変わらないのだ。視点が完全に西へと移行する前、二人の会話はたとえば次のように書かれている。

 そんなに住みたい家なら内見だけでも行ってみればよかったのではないか、たとえば数人でシェアできる可能性もあったのではないか、と太郎が尋ねると、西は、自分は同じ空間に動くものがあると落ち着かないから他人とは暮らせないし、妙に律儀なところがあって住むつもりもない部屋を見に行って不動産屋の人を煩わせてはいけないと思った、と言った。(三八)

この部分だけを取り出すと内面描写がないため、視点人物を持たない(「神の視点」による)三人称描写として読むこともできるが、これ以降、太郎は姿を消し、いつしか西の内面もが三人称の下に語られていくことになる(よく読めばそれ以前から西の内面は地の文に混入してきてはいるのだが)。もちろん、この場面が西から太郎への事情説明の場としてあったことを考えれば、西を視点人物とした三人称による描写は、二人の会話の場面から太郎の反応と「と言った」という表現を省略したもの、西の語りの内容のみを三人称の下に抽出したものとして読むことができるだろう。実際、太郎が再び視点人物に戻ってくるのは次のような文章においてなのだ。

 それだけ話すあいだに、西は生ビール中ジョッキを七杯のみ、トイレに二度行った。太郎は、最初の一杯はビールで、そのあとはウーロン茶にしていた。(五一)

西視点の三人称描写が延々と続いた後にこの文が置かれていることから、三人称描写が西自身による語りと同等のものとして位置付けられていることがはっきりとわかる。だが問題は、視点人物のスライドの意味ではなく、その引き起こす効果である。

さらなる検討に入る前に、佐々木敦による人称と視点人物に関する整理を参照しておこう。佐々木は「一人称」と「三人称」の区別が必ずしも明解なものではなく、「それは言わば入れ子状になっている」と言う。

「視点人物」という便利な言い方がある。文字通り物語内にあって語り=読みの視点となる人物のことである。「視点人物」は複数であってもよいし、また「視点人物」が必ずしも「話者=語り手」である必要はない。それは語り手がいないように見える「三人称小説」で、ごく普通に行なわれていることである。だからむしろ「視点人物」と登場人物の一員でもある「語り手」が一致している「一人称」は、この意味での「三人称」の変形であると考えることが出来るのではないか。これをそのまま逆転させれば、「視点」を固定された「三人称」は「一人称」の変形であるとも言えるのだ。入れ子というのは、このような意味である。(『あなたは今、この文章を読んでいる。』八三−八四)

 『春の庭』はまさに、基本的に太郎に「『視点』を固定された『三人称』」による小説であり、その意味で変形「一人称」小説である。ところが、自らについての西の語りが地の文として書かれることで、太郎の視点と西の視点が、言わば重なりあった状態で存在してしまうことになる。自らについて語る西の視点が西自身に置かれているのは当然だが、そこには居酒屋で西と同席して話を聞いている太郎の視点も潜在しているからである。

鍵括弧や「と言った」のような表現は、いわばマーカーとして機能し、それによって括られた部分を文章の他の部分から区別する。『春の庭』に即して言えば、基本的に太郎視点の三人称で書かれているこの作品において、地の文で書かれ得るのは原則として太郎の見聞きした内容や考えたことのみであり、他人の発言は鍵括弧で括って示され、あるいはそれを地の文に組み込むときは、たとえば「西は〜と言った」という形でそれを明示する、というのが原則的な書き方となる。もちろん、これはあくまで原則であり、このような規則に則らない「ルースな」三人称小説はいくらでもある。だが、『春の庭』はここまで、基本的にこの原則を忠実に守る形で書かれており、だからこそ、西の視点へのスライドが奇妙な効果を発揮する。マーカーの使用という原則をピンポイントで破ることで、太郎の視点にその外部、この場合は西の視点が流入してくるのである。西の話を聞いている太郎の視点は、ここでは西の視点とぴったりと重なりあっている。読者は「太郎は、最初の一杯はビールで、そのあとはウーロン茶にしていた。」という一文を目にして、そのことに改めて気づかされることになる。西の語りの間(そこには幼少時から今まで、つまりは水色の家に興味を持つまでのエピソードが含まれている)、居酒屋の様子は描写されないが、ほとんどの読者はそのことを意識しないだろう。だがその間にも太郎と西は居酒屋で八杯のビールと何杯かのウーロン茶を飲んでいる。西から太郎への再びの視点の転換が、今度はあからさまな形で行なわれることで、そこに複数の時間があったことが暴かれるのである。

さらに言えば、その効果は『春の庭』を読んでいる読者自身にさえも波及し得るだろう。読者はこの二文を読んだ瞬間、太郎がかなり長いあいだ登場していなかったこと、あるいは、読み進めるうちに自分が居酒屋にいる太郎の存在を忘れていたことを改めて意識させられることになる。実際のところ、太郎が姿を消してからここまでに一三頁もの「時間」が経過している。ここには小説内世界という枠組みを越え、本を読むという行為の時間性をも意識させる契機が潜在しているのである。

 

三人称的一人称

居酒屋の場面において、人称は様々な意味での「小説の時間」を、その多層性を浮かび上がらせる契機として存在していた。このような視点から考えることで、この小説における唯一の不可解な点、小説の後半に突如として登場する「わたし」という一人称についてもいくらかの説明が可能となるだろう。

すでに述べたように、『春の庭』は基本的に太郎視点の三人称で書かれた小説である。ところが、小説の終盤、全一四〇頁のこの作品の一一八頁に至って突如として次のような記述が現われる。

 わたしが太郎の部屋を訪れたのは、二月に入ってからだった。

さらに読み進めるとわかることだが、この「わたし」は太郎の姉である。太郎に姉がいることはここまでにも書かれてはいるのだが、一体全体、なぜこの段階でその姉が「わたし」という一人称をともなって登場してくるのか。さらに、「わたしが帰った次の日、太郎は、賃貸情報サイトで部屋を検索してみた。」(一二九)という記述が、この「わたし」という存在への違和感をより一層増すことになる。この記述を契機として、小説の記述は太郎視点の三人称へと戻るのだが(「太郎は、部屋を探すのはもっと後でいいと思った」一二九)、またすぐに「ひと月後、わたしは名古屋にいて」と姉の一人称視点へと引き戻されてしまう。一三二頁の「わたしが歯を埋める場所を探しに外へ出た六時間後、太郎は、ベランダの柵を乗り越えて立ち入り禁止の中庭に降りた。」で記述はようやく太郎視点の三人称へと戻り、以降姉の一人称が再び登場することはない。

この「わたし」が不可解にも思われるのは、その登場があまりに突然であることもその理由の一つではあるが、「わたしが帰った次の日」や「わたしが歯を埋める場所を探しに出た六時間後」など、「わたし」=姉がいないはずの時空間の出来事を一人称視点の下に記述しているように感じられるからである。なるほど、「わたし」が一人称視点の指標なのであれば、そこで「わたし」の知らないことが語られることは不可解である。であるならば解決策は一つしかない。つまり、少なくとも引用した二箇所での「わたし」は視点人物ではないのだ。

引用した二箇所は「わたし」の視点からの描写ではなく、単なる事実の記述としてある。いや、これは改めて指摘するまでもなく、実のところ該当箇所を読んだ時点で明らかなことなのである。にも関わらず、読むものの多くが大なり小なり違和感を感じるのはなぜか。それは、この「わたし」という一人称があまりに三人称的だからである。

佐々木が指摘したように、視点の固定された三人称は一人称の変形とみなすことができる。たとえばこの小説で「太郎」を「おれ」と置き換えることは十分に可能であり、そのことによる不都合はほとんどないはずである。だからこそ、太郎以外の人物に、太郎には与えられていない一人称が与えられていることは混乱を生じさせることになる。一方、視点人物の固定されていない(あるいは設定されていない)三人称で、登場人物の一人を「わたし」に置き換えた場合はどうだろうか。こちらはほとんどの場合、何かしらの不都合が生じるように思われる。『春の庭』の「わたし」の違和感も同じようにして生じていることは、「わたし」を「姉」に置き換えてみれば明らかだろう。「わたし」の存在によって生じていた違和感は見事に消え去るはずだ。前後に空白が置かれている分、前述の居酒屋における西の視点よりもむしろ不自然さは少ないとさえ言えるだろう。

一人称から三人称への変換よりも三人称から一人称への変換の方が難しく感じられるのは、一人称が特権的なものであると慣習的に看做されているからである。一人称が視点人物の指標であるというのはその意味だ。だが、その特権は果たしてそれほど自明かつ確固としたものなのだろうか。視点人物ではない一人称というものが考えづらいのは(少なくとも慣習的には存在していないのは)なぜだろうか。答は明らかである。現実の「わたし」がそのようなものとしてあるからだ。

現実の世界において、人はそれぞれ自らの=「わたし」の視点を通してしか世界を見ることはできない。ゆえに、現実の似姿として小説が書かれるとき、その中に書き込まれる「わたし」もまた世界を見るための視点となる。だが一方で、「わたし」もまた作者によって書かれることで存在しているという点においては、他の登場人物たち、三人称の登場人物たちと同じなのである。一人称によって与えられる特権はまやかしに過ぎず、それはむしろ、登場人物を視点人物という立ち場に縛りつける、いわば呪いのようなものでさえあったのだ。

柴崎はこの呪いを解いてみせた。一人称と世界を見る視点とを切り離すことで、「わたし」をより自由な小説空間へと解き放ったのである。現実の「わたし」は世界を見る視点から離れることはできない。だが小説ではそれが可能だ。

三人称の視点人物としての太郎を中心に世界を描きながら、作品の終盤で太郎とは別の「わたし」が登場することで、両者はともに相対化されることになる。一人称的三人称と三人称的一人称。太郎がいなくても世界は回っているし、「わたし」がいなくても世界は回っている。人はそれぞれ自らの人生の主人公ではあるかもしれないが、世界の主人公ではない。世界は「わたし」からは自由なのだ。

このように考えたとき、ほとんど無意味に思えるほどに『春の庭』に氾濫する名前の一致、あるいは類似とでも言うべき事態もまた、作者の企みのうちにあることは明らかだろう。太郎の同僚の沼津は沼津ではないが静岡の出身であり、彼が飼っていた犬は「目頭に黒い模様があってチーターみたい」(一〇)だからチーターという名前だった(そう言えば山下澄人『ルンタ』にはクマという名前の犬が登場する)。沼津と沼津は関係ないが、チーターはチーターに似ているからチーターだ。「わたしは一階の部屋がよかったかもですね。わたし、西っていうんですけど、一階に『酉』があるでしょう。漢字が似てるから覚えやすいじゃないですか」(三二)という西が住んでいるのは「辰」の部屋で、大家の長男は寅彦という名前だが、そのことは「ビューパレス サエキⅢ」の部屋番号にはどうやら関係ない。「牛」島と「馬」村とアパートとの関係もわからなければ、牛島タローが太郎と同じ名を持つことにも意味はない。意味はないが、同じ名前を持つということはそれだけで一つの関係のないもの同士をつなげてしまう。名前の向こうには「わたし」とは別の世界が広がっている。

 

おわりに

小説は、というより文章は、一つの箇所に二つ以上の時間を記述することができない。読書という行為もまた常に直線的なものとしてしかあり得ないという意味において、文字の読み書きは一つの直線的な時間に縛りつけられていると言えるだろう。人生も同じだ。「わたし」は常に一人でしかなく、時間は直線的に進み続ける。だがそこにはたしかに無数の時間が息づいているはずなのである。柴崎の小説は、いつもその無数の時間の豊かさを捉えるために書かれ/読まれると言っても過言ではない。

柴崎のアプローチは極めて原理的だ。書く/読むことによって構築される時間が直線的であることから逃れられないのであれば、どのようにしてその中に無数の、多層的な時間を注ぎ込むことができるのか。柴崎は人称や鍵括弧といったマーカーの持つ機能を失効させ、あるいは変質させてみせる。引き起こされるのは小説空間の平面化とでも言うべき事態である。これは多層的な時間を描くというねらいとは真逆の結果であるかのように思われるがそうではない。人が時間を(世界を)直線的・単線的にしか捉えられないとすれば、それは「わたし」に囚われているからである。小説空間の平面化は、世界を「わたし」から解き放つものとしてある。

一見したところ何も起きない『春の庭』には無数の時間がひしめきあっている。西の言葉を借りれば、庭は「自分の意志とは関係なく生きているものが存在する」場所なのである。庭とはつまり世界だ。そこには文字通り「わたし」の知らない世界が広がっているだろう。柴崎友香の小説はその手触りを鮮やかに描き出す。世界はそこにたしかにある。