今ここの未来(範宙遊泳『その夜と友達』評/演劇批評誌『紙背』三号掲載)

演劇作品は上演されているまさにその瞬間以外には存在しない。だがその上演の時間には異なる複数の時間がより合わさっている。戯曲の執筆、上演に向けた稽古、他の回の公演、いつか行なわれるかもしれない再演、あるいは他の演出家の手による上演。過去の積み重ねの上に現在の上演がある、というだけではない。私たち観客からすれば、前もって書かれた、つまり過去からの言葉である戯曲は、劇作家からすれば、やがて発せられるべき未来の言葉であり、それらは舞台上の俳優によって現在のものとなる。過去が、未来が、現在と出会う。
田町とアンちゃんは二〇三二年の現在=未来から観客のいる二〇一七年という過去=現在へと語りかける。それはかつて彼らが夜とともに過ごした時間でもある。演劇の上演はそれ自体がタイムマシーンのようで、過去からの/未来
への言葉が「今ここ」に届くのだから、その逆、未来からの/過去への言葉が「今ここ」に届くことがあってもいい、のかもしれない。

未来や過去からの言葉が「今ここ」に届くというのは一体どういうことなのだろうか。

田町はその鈍感さゆえに友人の夜がゲイであり自分に思いを寄せていることに気づかず、結果として夜を深く傷つけてしまう。15 年後の田町は夜が起こした事件を知ったことでかつて過ごした日々を思い出し、夜と再び会おうとする。奇跡的に再会した二人は美しい夜を過ごす。
私たち観客は隣人のゲイ(をはじめとするマイノリティ?)を傷つけないために配慮しなければならない。あるいは、過ちを正すのに遅すぎることはない。

もちろんどちらも「正しい」。この作品からそのようなメッセージを受け取り、幾分かでもゲイ(や他のマイノリティ)に対する姿勢が変わるのであればそれもおそらくいいことだろう。
だがこのとき、この作品の複雑さ(繊細さと言ってもよい)はどのような意味を持つだろうか。
この作品が残酷なまでに誠実なのは、田町があの決定的な夜を経てなお鈍感であり続けるところだ。鈍感と言ってしまっては田町が可哀想だろうか。悪いやつではない。誠実でさえある。だが田町は二〇三二年の現在においても、夜が鍋を背負っていたことを単なる笑い話として済ませてしまう。「こうなれば良かった」という想像の中でさえ「お前がそのデモの列に突っ込んだ車の犯人だって言うのかと思ったわ」と言ってしまう。再会した夜に「もう付き合うか?
俺ら」と言ってしまう。
田町が鍋を背負っていたのは、おそらく田町に自分の存在を認識してほしかったからだ。だからこそ初めて田町と話した夜は田町のことを「俺は知ってたよ」と言い「やっと存在できたわ」と言う。二〇三二年の田町は「確かにこう
言ってた やっと 存在 できたわ って」と言うにも関わらず、その意味するところに気づく様子はない。夜が田町を町田と呼び間違えるのだってわざとかもしれない。認識することと正しく認識することは違う。
時間を行き来するこの作品にはときに空想の時間が紛れ込む。夜がゲイであることを告白した夜。田町はあの夜のカミングアウトが和やかに済めばよかったのにと想像する。その夜を境に田町と夜とが決裂してしまったことを考えれば、あのとき「こうなれば良かった」と想像すること自体はあり得ることだ。
だが、その想像の中で田町は「お前がそのデモの列に突っ込んだ車の犯人だって言うのかと思ったわ」と言ってしまう。「そのデモ」が「同性婚を認めろっていうやつ」だったことを考えれば、田町の発言は冗談だとしても無神経だ。夜が実際にその言葉に傷ついたかどうかは問題ではない。というか、田町の想像上の場面なのだから夜がその言葉に傷つくことはもちろんない。だが、夜が傷つくことはないという想定、夜を犯人扱いすることを「こうなれば良かった」と言ってしまえること自体が田町の鈍感さを証立ててしまっている。
「もう付き合うか? 俺ら」という冗談が無神経であることは言うまでもない。夜が「付き合おうぜ」と答えたら、田町はどうするつもりだったのだろうか。十五年後の夜が田町に抱く感情を推し量る術はないが、「それはないわー」という夜の答えの前に置かれた「間」は言葉にできない感情を伝える。夜が「ないわー」と答えるしかないような冗談を投げかけるのは田町の甘えだ。

あなたは男性に「彼女いないの?」と聞いたことはないだろうか。女性に「彼氏いないの?」と聞いたことは?

大学 3 年生の頃だろうか。中学からの友人と飲んでいて、何かのはずみに「選挙行った?」という話になった。「俺行ってない」というヤツに「行けよ」と突っ込んだ私は「俺選挙権ないもん」という返しに一瞬言葉を失った。友人が在日朝鮮人だということは知っていたのだが(知っているつもりだったのだが)、そのことを意識することはほとんどなかった。分け隔てなく付き合うことは相手を傷つけないことを意味しない。あのあと私はどうしただろうか。「ごめん」と謝りはしたと思うのだが。
あるいは、中高の六年間を男子校で過ごした私は、ある時期まで男性と女性の違いについて極めて鈍感であった自覚がある。間違いなく、私は無知で無神経だった。今も幾分かはそうだろう。

さて、これは田町へ、あなたへ、過去の/現在の私へと向けられた糾弾なのだろうか。このような形で誰かを傷つけることはないに越したことはない、とは思っているのだから、そのつもりが全くないと言えば嘘だろう。だが、過去
は取り返しがつかない。気づいたときに改めればいいし、私にはそうすることしかできない。
「今ここ」には常に現在進行形の鈍感さがあって、過去の鈍感さを悔いても未来の鈍感さを完全に消し去ることはできない。だから、田町が未来から観客に語りかけるのは、観客の未来の「罪」を肩代わりするためではない。そんなことは不可能なのだから。
最後の場面、田町と夜は再会できたのだろうか。その場にいるはずのないアンも登場してしまうのだから、田町と夜だって同じ場所にはいないのかもしれない。机の上の空き缶や鍋を夜は残像だと言う。では夜は?
美しいのはきっと、そこに、今ここに、過去も未来もあるからだ。そしてそれはおそらく、なんというか、引き受けるにはおそろしくタフなことだ。可能性を閉ざすことはできない。二〇三二年と地続きの二〇一七年。未来の他人事
ではなくその「今ここ」を生きられるか。