旅行記のような劇評を目指して

誰のために劇評を書くのか。
私は観客のために書きたい。
 

せっかく劇場に足を運んだのに作品を楽しめなかった、ということは、残念ながらよくあることだろう。

何がいけないのだろうか。
そもそも見る価値のない作品だったのか。
そうかもしれない。
だが、そうじゃないかもしれない。

作品がつまらなかったとして、その「つまらなさ」は、自分の期待していたものと実際の舞台とのギャップから生まれてはいないだろうか。
あるいは、自分がその作品の面白さを見落としてしまっている可能性はないだろうか。
だとしたら、これほど「面白くない」こともないではないか。

もちろん、作品は観客に開かれていて、それぞれが思い思いに作品に臨めばいいのだけれど、ちょっと見方を変えるだけで作品が楽しめるのならば、それはきっとその方がいい。

現在、日本の演劇、あるいは舞台芸術は、とんでもない広がりを持っている。中には、初めて見ると面喰らってしまうようなものだってある。そういうものを楽しむためには、それなりの心構えが必要なのだ。
 
だから私は、旅行記のような劇評を書きたい。
まだ見ぬ土地、つまりは劇団や作品へのしるべとなるような劇評を。
訪れたことのある場所、すでに観た作品の新たな一面を示すことのできる劇評を。
新たな土地へと観客を誘い、その土地ならではの魅力をともに発見するような劇評を。
「風光明媚な」なんて言葉で括ることでその魅力を殺してしまうのではなく、具体的な手触りを書き連ね、その場所を生き生きと描写するような劇評を。

そしてもちろん、旅行記はそれ自体、読みものとして面白くなくてはならない。
完結した読みものとして面白い劇評を。
 
劇評に書かれているのは、しかし、常に過去の風景である。
あなたが劇場に足を運んだときには、その風景はもうそこにはないかもしれない。
だがその変化もまた、旅の愉しみをなすものではないだろうか。
ガイドブックに載っている名所を確認して回ることが旅なのではない。
優れた旅行記は「歩き方」を、つまり、旅の楽しみ方を教えてくれるものだ。
旅の目的を限定するガイドブックではなく、旅の悦びを教えてくれる旅行記としての劇評を目指して。

見るためのレッスンとして書く。
見るためのレッスンとして読む。
見るためのレッスンとして、見る。
 
それは自分の「歩き方」を見つけるための試みでもある。
だから、寄り道をし、迷い、時には立ち止まろう。
発見はきっと、どこにでもある。