ロロ『いつだって窓際であたしたち』

戯曲と演出と俳優の能力が重なり合えば、観客の想像力を喚起して、意識の流れを誘導し、その場にいなくなった人間についての物語も、あるいは前後の時間や、舞台の外側の空間についても、容易に観客に想像させることができるのだ。すなわち、ある限られた空間、ある限られた時間を描くだけで、世界全体をうつし出すことができるのだ(平田オリザ『演劇入門』)

『いつだって窓際であたしたち』は「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」を舞台にした連作群像劇、「いつ高」シリーズの第一作として上演された。「いつ高」シリーズは全作品が全国高等学校演劇コンクールのフォーマットに則って作られるのだという。それはたとえば舞台美術の仕込みを一〇分以内、作品の上演を六〇分以内に行なう、などの具体的な制約に基づいて作品が作られているということなのだが、同時に、このシリーズはもう一つ別のフォーマットにも則っているように思われる。平田オリザの「現代口語演劇」がそれだ。

「いつ高」シリーズが「現代口語演劇」だというのは、一つにはもちろん技巧上・作劇上の特徴、つまり同時多発会話を含むナチュラリズムに基づいた演技や「現実」に限りなく近い(ように思われる)舞台設定、上演時間と劇中の持続時間の一致(上演時間一時間の作品であれば劇中でも一時間が流れる)などが「現代口語演劇」のそれと一致しているからだ。これまでのロロ/三浦直之の作品がリアリズムとはかけ離れた、想像力の風呂敷をこれでもかと広げるような作風だったことからも、「いつ高」シリーズにおける変化は際立って見える。このような変化は「高校を舞台とした連作群像劇」というフォーマットに要請されたものであるようにも見えるが、重要なのは形式よりむしろ、「現代口語演劇」に内在する世界への姿勢だったのではないだろうか。

「現代口語演劇」の作品は閉じた世界=完結した作品としてではなく開かれた世界の断片として存在する。劇中で描かれる「今ここ」、舞台上の「今ここ」はある時間的・空間的広がりの中にあり、観客は劇場という「今ここ」でその一部を目撃するのだ。一作ごとに主人公が代わる連作群像劇という形式は、まさに一作一作を開かれた世界の断片として存在させることになる。そして「高校の教室」という「今ここ」もまた、開かれた世界の中にある。

高校生になると行動範囲も広がり、たとえばバイトをしている奴もいる。意志さえあれば学校以外の世界と接する機会はそこここに用意されているだろう。しかしその自由度は大学生と比べれば限られたものでしかない。多くの高校生の生活は学校を中心に回っていて、その意味で高校生にとって学校や教室は「世界」そのものであり得る。高校生は教室という「世界」に生きながら、窓から吹き込む風に世界の広がりを予感している。

『いつだって窓際であたしたち』はある教室の昼休みという限定された時空間を描きながら、様々な形でそれ以外の時空間への広がりを見せる。LINE、噂話、写真、地球儀、YouTubeGoogleストリートビューなどなど。机に置かれるミニチュアの校庭やiPhoneといったガジェットは、切り取られた小さな「世界」が大きな世界とつながっていることを、教室、学校、あるいは劇場という小さな「世界」が大きな世界へと開かれていることを示す。イヤフォンから漏れる音楽や漂うシューマイの匂いは、思いがけず自分の知らない「世界」に届いている。

高校生観劇無料、戯曲無料公開、高校生以下の上演・二次創作料無料、部員数に合わせた二次創作歓迎という「いつ高」シリーズの試み自体、世界へと開かれた窓としてあるだろう。それは高校生にとっての窓であると同時に、ロロ/三浦自身にとっての窓でもある。ロロ/三浦以外の手による上演・二次創作が世界を広げていく。

ところで、リアリズムに基づいて書かれているように見える「いつ高」シリーズの台本冒頭には、「ファンタジーでなければならない」というト書が共通して置かれている。あるいは、メインビジュアル・上演台本挿絵を担当する漫画家・西村ツチカの絵について三浦は、「知っているのにみたことのない世界がたくさん描かれていて、それってつまり青春みたいだなとおもいます」と言う。「今ここ」にそうではない時空間を、目の前にいる人にまた別の人を見ることのできる演劇はいつでもファンタジーで青春なのだ。だから、窓は常に開かれている。