『福島を上演する』を観る(ペネトラQ、2016年11月)

マレビトの会『福島を上演する』はフェスティバル/トーキョー16でプログラムの1つとして2016年11月17日から20日まで、にしすがも創造舎で上演された。最初の3日間は5本、最終日は6本で計21本の戯曲を1度ずつ上演するという作品だ。松田正隆を含めた5名の作家が戯曲を執筆し、一部重複するがそれとは別の5名が演出を担当した。客席こそ設営されているものの、元体育館の会場をほとんどそのまま使い、舞台、というか演技空間に置かれているのは4脚のパイプ椅子のみ。床にはバスケットボールやらバレーボールやらのコートを示すラインも見える。俳優たちの演技もまた、この空間に対応するようにシンプルだ。抑揚を抑えた、ときにほとんど棒読みとも思える発話と大雑把な動作。舞台美術どころか小道具も一切使われていないため、動作の多くは無対象、つまり、何もない空間に対して(そこに何かがあるかのように)行なわれる。奇妙なのは、そこではいわゆる「リアリティ」が追求されているようには見えない点だ。細部が省略された動作は記号的でさえある。マレビトの会では「〈仕草を疎かにする〉こと」=「パントマイム的に厳密な対象を作り過ぎないこと」が重要視されてきたという(当日パンフレット記載の森麻奈美「稽古場より:〈ゆるさ〉と〈強度〉のあいだで」より)。そこでは「現実」の近似値は目指されていない。登場人物とそれを演じる俳優の年齢・性別が必ずしも一致していない、それどころかときにテレビやペッパーといった無生物を俳優が演じる点からもそれは明らかだろう。舞台上での出来事はいくら「現実」に寄せようとしても「現実」にはならない一方、どうしようもなくただただ現実でもある。『福島を上演する』は「現実ではないこと」と「現実でしかないこと」との間に生じる力をまざまざと示した。

1日目

4本目に上演された松田正隆「見知らぬ人」は『福島を上演する』の奇妙な面白さ(それは私にとってはほとんど快楽でさえある)を端的に示す作品だ。演技空間に3人の人間が立っている。1人は女性で台所で洗い物をしているように見える。少し離れた場所で地べたに座る1人の女性が本のページを繰り、1人の男がすぐ近くに何をするでもなく正座している。しばしの沈黙ののち本を繰る女が言う。「お母さん、なんか知らない人がいるんだけど」。多くの観客の笑いを誘ったこの台詞がおかしいのは、もちろんそのありえないシチュエーションととぼけた感じによるところも大きいのだが、観客の予期が裏切られるからだろう。ほとんどの観客は当初の沈黙の時間、3人を家族だと思って見ていたはずだ。そんな説明は一切ないにもかかわらず。『福島を上演する』が曝け出すのは、舞台上に実際にあるものと、観客がそれをどのようなものとして見るかは決して一致しないという事実、そこに生じる絶対的なズレなのだ。

1本目に上演された「福島市役所」ではそこにある現実と演劇的な虚構の空間とが、さらには複数の虚構がせめぎ合い、たえず流動するモザイク状の空間(認識)として舞台を覆い、ほとんどスペクタクルの様相を呈していた。

『福島を上演する』では演じられる虚構と現実との、あるいは虚構の中でのある場面と次の場面との境目ははっきりとは示されない。連続で上演される戯曲の間に明確な境目が示されることもない。俳優たちは出番になると舞台左右と舞台手前左右の4つの口からスタスタと現われ、出番が終わると同じくスタスタとその場を立ち去るか、あるいはしばしその場に留まってから去っていく。どの瞬間からが演技なのかは判然としないことが多く、去っていくタイミングもバラバラで、明らかに次の場面がはじまっているにもかかわらずその場に留まり続け、場面の途中でおもむろに去っていくことさえある。

舞台美術などが何もない空間では、俳優たちが自らの「役」という虚構をキープすることによってその周囲の空間にも虚構が仮構される。通常、同じ場面に登場する俳優間ではその虚構が共有されることによって全体として演劇的な空間が立ち上がるのだが、『福島を上演する』では虚構をキープする時間や度合いが俳優によってズラされており、そのことによって同一平面状にモザイクのように「虚構」と現実(=俳優自身やにしすがも創造舎という場所)の濃淡、あるいは異なる場面が重なり合うかのような複数の「虚構」の並存する空間が生まれる。客席上段から俯瞰気味に見るそれは維新派的なスペクタクルのように見えたが、最下段で俳優と同じ目線に立って見ると、ある奥行きの中に配置された複数の虚構の間で次々と焦点がスライドしていくような(しかもときに複数の箇所に同時に焦点が合ったりもする)印象を受けた。

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続きを書いたら改めて公開しようと思いつつ現在に至る……。