革命と日常(映画美学校アクターズ・コース初等科第2期修了公演『革命日記』レビュー)

そもそも革命という言葉が意味するのは既存の価値観や体制の転覆であり、だらだらと続く日常が途切れるその瞬間にのみ立ち現れるものとして革命はある。ゆえに革命を志す者もまた、革命が達成されるその瞬間までは日常の中に生き続けるしかない。革命への意志は男女問題や親子関係、近所付き合いという名の「日常」によって常に脅かされているのだ。実際、『革命日記』という作品の 90分間はほとんどそれだけで成り立っていると言ってよい。

空港襲撃作戦の決行を目前に控え、組織のメンバーはアジトである増田夫妻の家で作戦の最終確認を行なっていた。しかし来るはずのメンバーは来ず、逆に予期しない来客の対応に追われることになり話し合いは進まない。話が進展/停滞しそうになる度にインターホンの音が中断/展開をもたらすという筋の運びはほとんどスラップスティックの様相を呈しているとさえ言えるだろう。たった90分の間に招かれざる客が6回も訪れ、そこに組織のメンバーの出入りも加わるのだから慌ただしいことこのうえない。

インターホンの音は革命への意志を挫こうとするかのように繰り返される。当然ながら話し合いは遅々として進まず、革命は近づかない。日常は生き延びる。日常に亀裂を入れるはずの革命、そこに至るための運動が日常の介入によって中断を余儀なくされるという逆転。その逆転はたしかに逆転でありながらしかし限りなくリアルなものとして、言い換えるならばまるで我がことのように私には感じられた。

衆院選後という時期的な問題もあったのだと思う。社会的な問題に対する関心は、ときに(あるいはしばしば)個人の生活の中に埋もれてしまう。革命家たちの熱意と、そこに闖入する日常との温度差。温度差は滑稽さを生み、革命家たちに道化を演じさせる。私はそれを笑いながら、しかしそこにそこはかとない哀しみを感じてもいた。人は日常と決別することはできないのだ。

「一般人」として配置された登場人物の多くが大なり小なり社会問題に対する関心を持っていることは革命家たちを相対化する役割を果たす。町内会の副会長が革命家たちにNPOについて説明する場面のおかしみは、しかしどこかで革命家たち自身のおかしみと通じているのだ。副会長をこっそりと笑う革命家たちはそのことに気づいていない。気づいていないことがおかしくも哀しい。真剣さと裏腹の滑稽さ。

そう、真剣なことはおかしい。その滑稽さを引き受けることができないとき、理想と現実との間で軋みが生まれる。その意味でも、革命家たちと彼らを演じる俳優たちは重なるのだろう。さて、私は自らの滑稽さを引き受けることが出来ているだろうか。

【この文章は映画美学校アクターズ・コース初等科第2期修了公演『革命日記』の企画の一部として執筆したものです。映画美学校アクターズ・コースブログhttp://eigabigakkou-shuryo.hatenadiary.jp/より再掲しました。また、批評同人誌ペネトラvol.2には『革命日記』クロスレビューとしてこの文章を含めて6本の劇評が掲載されています。】