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鈴木光『Mr.S & ドラえもん』

ドラえもんはいない。
ドラえもんはいなかった。
ドラえもんはいないだろう。

日常の風景や人物を捉えた、無数の映像のモンタージュ。それぞれのカットはごく短く、私たち観客がそこに映し出されているものの全体を把握するかしないかのうちに次のカットに移ってしまう。機械的に、淡々と移っていく映像。見ているうちにそれらが逆再生されたものであることに気付く。人々はギクシャクと後ろ向きに歩き、水は噴水へと吸い込まれていく。

やがて映像の中に瓦礫。次から次へと映し出される、破壊された日常。

映像が震災を報じるニュースを映し出すモニターを捉えたところで逆再生は終わる。被害を伝えるアナウンサーの言葉、声。

アナウンサーの声を背景に、映像はドラえもんのシーンの断片へと変わる。しかし、そこ、野比家には誰もいない。ときたま鳥やネズミ、バタンと閉まるドアなどが映し出されるものの、人物が映し出されることはない。

映像は「何だこれは」という声とともに唐突に終わる。

2011年3月11日は金曜日だった。その日、ドラえもんは放送されなかった。ドラえもんはいなかった。毎週繰り返されてきた日常=現在の喪失。あるいは習慣=過去との断絶。そして同時に、未来の消滅。たくさんの命が、あったはずの未来が失われた。もう未来は来ない。だから、ドラえもんも、もういない。

だが、では前半の映像は何だったのだろうか。なぜこのような手法が取られなければならなかったのだろうか。つまり、なぜ現実の世界を撮影した映像の断片を逆再生し、登場人物のいないアニメの断片を並べる必要があったのか。

この作品は私たちに不安を与える。もちろん、震災に関連する映像や音声が登場するのだからそれも当然なのだが、しかし、その不安はおそらく作品が始まった直後、震災のイメージが登場するはるか以前から始まっている。そこに映し出されるのが日常の風景や人物であることを考えると、その不安は映像の形式から生じていることになる。

なぜ私たちは不安を感じるのか。それはおそらく、映像が伝えるはずの「かつてそこにあった」過去が揺らいでいるからだ。断片化されただけならばそこに何らかの過去を見ることも出来ただろう。逆再生だけでも同様だ。ある程度の長さがあれば、そこに意味を見出すことは難しくない。しかし両者が組み合わさったとき、それは私たちにとって不気味なものへと姿を変える。映像は奇妙な動きと不可解な音を残して私たちの手からスルリと逃れていってしまう。私たちは過去を掴み損ねる。

登場人物のいないドラえもんの断片もまた、私たち観客に不安を与える。もちろん、背景で流れる震災を報じるアナウンサーの声も、人がいないカットの連鎖も、私たちに不安を感じさせるには十分だろう。だがそれだけだろうか。ドラえもんの(存在しないドラえもんの)映像は、実写とはまた別の不気味さを孕んではいないだろうか。

それは存在しない不在の存在の不気味さだ。アニメは存在しないものを存在させる。透明なセルロイドに描かれた静止画の連続が世界を作り出す。ではそこから登場人物が消えてしまったら?そこに残るのは当然、登場人物のいない風景である。元々存在しなかった登場人物の不在だけが存在するという逆説めいた状況。おそらくそこに、私たちは無意識のうちに不安を感じるのだ。

実写は写したはずの過去を伝えず、アニメは空虚な不在を映す。そこでは映像表現の存在の本質そのものが揺らいでいる。

あの日、全てを押し流す津波の圧倒的な映像が画面には映し出されていた。その後も、被災地の状況を伝える映像は信じがたい現実を繰り返し伝えた。私たちの存在は、根底から揺らぐことになった。

それらの映像はMr.S=鈴木光の(そして他の多くの映像作家の)映像作家としてのアイデンティティを揺るがすには十分過ぎた。あの映像を見てしまった私たちに何が出来るのか。もちろんそこに答えはない。

それでも、その答えの出ない問いに真摯に向き合ったとき、かろうじて生み出されたのがこの作品ではなかったか。そこでは自らの存在の根幹への不安が剥き出しにされる。映像は過去を伝えることは出来ないのではないか。そこで作り出されるものは空っぽなのではないか。映像表現と私たち自身。双方の存在論的不安が響き合うとき、画面は不穏に満たされる。作品を唐突に断ち切る「何だこれは」という声はあの津波の映像を見てしまった私たちの声であり、映像の内部から漏れ出た声でもあったのだ。

ドラえもんのいない世界に生きる私たちは自分たちの持てる力で(それは鈴木光にとっては映像表現だった)存在の不安と向き合わなくてはならない。問い続けなくてはならない。

私たちに何が出来るのか。
私たちに何が出来たのか。
私たちに何が出来るだろうか。