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三野新インタビュー(2012)

舞台 F/T

ヒッピー部は「写真家・三野新を中心に、写真と身体行為の関係性を探求するカンパニー」(ヒッピー部公式サイトより)である。F/T公募プログラム参加作品である『あたまのうしろ』もまた、写真を撮るという行為自体を題材とした上演となるようだ。F/T公式サイトの『あたまのうしろ』紹介ページにはこうある。「写真やその撮影自体をパフォーマティブなものとして捉える彼らが、本作で着目するのは、撮影者を動かす「予感」。目に見えない予感に呼応して時空間を切り取ることの意味とは?」

今回ヒッピー部を取り上げたのは、今作における彼らの取り組みが、「見えるものと見えないもの」という私のブログキャンプテーマと深く関連するように感じたからだ。彼らにとっての「見えないもの」とは何なのか。彼らはいかに「見えないもの」を舞台上に出現させるのか。三野新へのインタビューを通してヒッピー部の取り組みに迫る。

写真と演劇?

―― ヒッピー部は「写真と身体行為の関係性を追求するカンパニー」ということですが、三野さん自身の興味としてはやはり写真の方が先にあったんですか?

三野 そうですね、実は演劇には全然興味なかったんです(笑)。

―― え、でも早稲田の演劇映像コース出身ですよね?

三野 上京してきたのは、映画監督になりたくて。でも映画の勉強は自分でもするから、それなら全然興味ない演劇の方を大学では勉強しようと思って、2年生でコースが分かれるときに演劇を選びました。それが演劇との最初の出会いですね。

―― じゃあ演劇コースに進む前は演劇は見たこともなかった?

三野 なかったですね。最初に見たのがチェルフィッチュの『フリータイム』。こんなのやってるんだって思いました。それで、戯曲をちゃんと大学で読むようになったときにベケットを読んで、これは面白いと思ったんです。読み物としてまず面白いし、演劇、映画、テレビと戦略的にメディアを選んでる。それに感動して。僕にとっての演劇はベケットですね。そこから色々勉強しましたけど(笑)。ただ、自分が演劇の制作をするわけはないと思ってました。作る方はずっと映画。映画美学校のドキュメンタリー初等科にダブルスクールで通ってて、ドキュメンタリー映画監督になりたかったんです。でも、どうも映画の感じが無理になって。ちょっとうまく言えないんですけど。ちょうどそのときにスチル写真をやる人が足りなかった。僕もカメラ買ったばかりだったんでやることになったんですね。そのとき写真を撮って人に見せることを初めてしたんです。それが写真を撮り始めたきっかけですね。

―― その後、大学時代の制作は写真が中心になっていったと聞いていますが、そこに演劇がつながってきたのはなぜですか?

三野 大学3年生のときに初めて「1_WALL」展ってコンペで入選して、そこからの1年間くらいは色々アイディアも出て、評価もしていただいた時期だったんです。でも急に全然ダメだってなった瞬間があって。やってることが全部一緒なんじゃないかとか。これだと勝てないと思ったんですね。早稲田は写真の授業が充実してるんです。竹内万里子さんとか鷹野隆大さんとか鈴木理策さんとか。それで中平卓馬さんの写真論を読むようになった。中平さんって写真どうでもいいみたいなところがあるんですね。作家がいて写真があるか、写真があって作家がいるかって話なんですけど。写真家って「作家がいるから写真がある」人だと思うんですよ。そのとき自分はこのまま写真を撮ってても作家にはなれないと思った。それが一番大きい。写真家ってパフォーマンスの側面がすごく強いんです。そのことを考えたときに、写真を撮りにいくまでの過程って捨象されてるから、そこをなんとか見せたいと思ったのがきっかけですね。

―― 写真からパフォーマンスへ移行して、今はパフォーマンスとして作品を創作されているわけですが、逆の方向、つまり、パフォーマンスから何かを取り入れた写真みたいなものは創作しているんですか?

三野 もちろんそれはしたいんですけど…模索中です。去年、「play」というシリーズで写真集を企画して。それはパフォーマンスをゼロから始めて1になるまでの写真集なんです。それをコンペに出したときに審査員の方に「そもそもパフォーマンスを写真にすることにどんな意味があるの?」って根源的なことを訊かれて答えられなかった。写真と演劇の間にある何かをまだ全然言葉にできてないんです。

仏像拝観=演劇

―― 写真をめぐる試行の中でパフォーマンスに向かっていった三野さんにとって、演劇とは何ですか?

三野 悪魔のしるしの危口統之さんがツイッターで、演劇は仏像拝観みたいだ、と仰ってて、それは本当にそうだな、って思い当たったんです。

―― !?

三野 大学院に入ってから古美術研究会に入って、京都で1週間仏を見まくったんです。あくまで仏を見るんで、美術史的なものとか形式とかを括弧に入れて、仏から出てくる淡い光とか、そういう本質を見る。当時の人が仏を見ていた状況とかを考えます。それで演劇を見たときに、いきなり人が出てきて話し始めるって状況への違和感を括弧に閉じないと演劇に同期できないと思って。仏を感じるのと同じように、そこでたとえば物語が始まっていることを自分の中で了解しなきゃいけない、それが演劇なんだなと。最初に見た演劇がチェルフィッチュだったのも大きいと思うんですけど、そういうモードを作るのがていねいに行なわれてるんですよね。

―― 演劇の仏像拝観的側面は写真とどのように関わりますか?

三野 僕にとっては写真がやっぱり根源的に大事で。生死をかけるくらい。だから僕の中では宗教ですね。毎日写真に祈ってるんですよ。メタファーとしてですけど。それで、祈りとか教典を読むとかそういう行為、生活が大事になってくる。宗教としての写真と、生活としての演劇。修道院にいるようなもんです、僕(笑)。写真という神様のために祈り、書き、読む生活。その神様が僕の場合はたまたま写真なだけです。みんなその神様の部分だけが大事だと思いがちだけど、やっぱり生活も大事なんですよ。もともと芸術と宗教はむすびつきやすいから、他の言い方も考えなきゃいけないとは思うんですけど、今はこの喩えがわかりやすいんで。

―― 言うなれば写真に「入信」したのはなんでですか?

三野 それは全然わからない……誤解を恐れずに言うなら、僕には写真の才能があったと思うんです。何も知らないうちに、劇的な出会いもなく写真を手にしたから。劇的な出会いがない状態でのめり込めた。演劇については自分が何もしなければのめり込まなかったと思う。もちろん、なぜ写真なのか、なぜ自分なのかを考え出すと長くなっちゃうんだけど……。

『あたまのうしろ』

三野 今回、僕が原案、小説とか覚書みたいなものを出すところから始まって。第2稿では会話の形になったり、ト書きとか覚書を入れ込みながらワークショップを進めていくんです。僕、まとめる作業がすごい苦手なんですよ。人を構造的に配置したりとか。今回はワークショップで共有したことを齋藤俊太さんに一から脚本にまとめていただいて。そこからさらに僕が人を動かしていく中で脚本を変えたり壊したりの作業をしていく。だからいきなり脚本があるんじゃなくて、やりながら脚本が出来上がっていく。

―― 原案として書かれたノートに含まれていたものを人やモノを使ってどのようにリアライズするかを探るプロセスとしての稽古、ということですね。

三野 ただ最初から意識しているのが、「写真の言語」ってものがきっとあるんだろうなって。ピナ・バウシュの言う「身体言語」、つまり言葉では伝えられないけど身体で通じてしまうもの、そういうものが写真にもあるという確信。それを使って伝えられるのはきっとすごく豊かなものだと思う。それでまず写真を言葉の言語に変換する作業を見せる。もちろんそれはフィクションなんだけど。今回、写真家が登場するんです。写真を撮り、見る、それをもとに考え、また撮る……。そんなふうに、写真をめぐって一連の行為が循環していくような作品にしたいと思ってます。

―― 今回、F/Tの公式サイトに掲載されている創作ノートは「あたまのうしろは、恐ろしい何かに満ちている。子どもの頃、風呂場で髪を洗う途中、後ろを見るのが怖かった」と始まります。これを読むと今回の作品にはオカルト的な要素があるのかな、と感じるのですが。

三野 そのあたりは大学で卒論を見ていただいた岡室美奈子先生の影響が大きいです。ベケットもオカルト的なものと関係が深いので。ヒッピー部vol.2の『Vision<A>』では心霊写真にフォーカスしてやりました。今回の「あたまのうしろ」という言葉が示しているのは写真を撮るときの直観的なもの。それが何なのか、個人的なものとして済ませていいものなのかどうなのかを考えたいと思って作ってます。写真を撮るとき、自分のきっかけでは撮れない。たとえば撮る準備が整った段階で一度シャッターを放す。周りの風景を見てみたり、その場に立ってみる。周囲の空間との関係で写真を撮るんです。葉っぱが落ちてきたら撮るとか、鳥が飛び込んできた瞬間にカシャっと押しちゃうとか。西部劇の決闘みたいに、カラカラカラって何かが転がってきたらバンッて撃つ(笑)。あれに近いかもしれないですね。周囲から見てるだけの人にはわからないけど、相手と自分の中でだけ通じ合うものがある。自分で撮るんじゃなくて外にあるものに撮らされてる、そういう目に見えないものがある。そのメタファーとして「あたまのうしろ」が出てきたんです。「あたまのうしろ」の系譜みたいなのもあって。F/Tブックスの選書リストにも挙げさせていただいた、いがらしみきおの『アイ』も「あたまのうしろ」つながりです。あと楳図かずおとか。マンガばっかり読んでるみたいですけど(笑)。

―― チラシやサイトのヴィジュアルにはステレオ写真が使われていましたがあれも今回のモチーフでしょうか?

三野 僕の中でステレオ写真は全く動かない写真と映像とのあわいに生まれた文化。写真と人の身体を扱うときにそこにはギャップがある。写真から映像に移行するときにそうだったように、写真から人の身体への移行にもきっかけが必要だと思うんです。ステレオ写真をフライヤーとして出したのは、今から人の身体を使って写真のことを扱います、写真が動き出しますってことを提示してる。写真と身体をつなぐものですね。だから身体が実際そこにある作品自体の中ではたぶんステレオ写真は使いません。

―― 『Vision<A>』に顕著ですが、ヒッピー部はパフォーマンスの中にテクノロジーを積極的に取り入れている印象を受けます。

三野 プログラムとか脚本とかをやってくれてる齋藤俊太さんが視覚光学の研究をしてて。科学的な観点からのアイディアをくれたりするんですよ。齋藤さんの存在は大きいです。演劇って場所とか人とか、環境によって変わっていくんですよね。写真だと被写体によって変わる。僕の場合、変わり過ぎちゃうので変わるなとも言われるんですけど、僕は変わってくのが楽しいんです。一緒にやってる人は大変かもしれないですけど。

―― 「あたまのうしろ」という言葉が表すものとも通じる感覚ですね。アフォーダンス的なものによって突き動かされていく創作。

三野 ほんとにそうだと思います。テクノロジーも作品の形を規定していくもの、変えていくものとして取り入れてます。たとえば映し出される写真自体はすごく具体的な事実じゃないですか。で、その上にフィクションを、今回だったら「母」ってテーマがあるんですけど、それをフィクションとして事実の上に乗せる。まず具体的な事実から始めることで、演劇を見るときの姿勢、見るための観客の側のモードを作れるんじゃないかっていう、構造的なところを考えてます。今回、テクノロジーとしては「アクシデンタル・ピンホールカメラ」というのを使ってて。ピンホールカメラって頭の後ろから来る像を見るものですよね。そういうところともつながってます。

―― 「母」というテーマも「あたまのうしろ」とつながりが……?

三野 もちろんあります。「あたまのうしろ」だけだと漠然としてたのが、「母」という具体的なモチーフを導入することでフィクションがうまく回り出した感じがしてますね。ただ、今の段階だと盛り込み過ぎて情報過多になってるのでここからはどうやって切り詰めていくかになるんですけど。

―― ヒッピー部のサイトにある『あたまのうしろ』の説明には「ルール 撮る対象は人であること」など、いくつかのルールが付されています。これもやはり具体的なところから構築していくという方向性につながってくるのでしょうか?

三野 そうですね。でもあのルールは使われない可能性もあります。あれを書いた時点では物語は全然書いてなかったんで。ただ、ああいうルール的なものも外部から自分に働きかけてくるものという意味では風景とかテクノロジーとつながってるんですよ。でも、稽古をしてるうちにそういうルールは言わなくてもいいものになっていく。

―― 今回の音楽を担当する空間現代とのコラボレーションどのような経緯で?

三野 佐々木敦さんつながりです。学部のときにゴダールの特集上映のトークで佐々木さんのお話を聞いて、それが面白かったんで教育学部で佐々木さんがちょうど担当されてた音楽論の授業にもぐったんです。それで飲み会とかも行ってるうちに親しくさせていただいて。そのつながりで紹介していただきました。空間現代の野口順哉さんとは今回、稽古場にでもアイディアを話し合ったりしてるんですよ。すごく刺激を受けています。

―― 音楽も現場でやりとりしながら作る形で稽古を進めてるんですか?

三野 最初に僕がこの音楽を使いたいんですけど、とか、ここで使うといいと思うんですけどって提案して、それに沿う形で実際やってもらいます。そうすると、空間現代ってズレとかハズシとか余白がテーマにあるので、ここはズラした方がいいんじゃない?みたいな案が出るんですね。それを受けて、じゃあ2人の役者が出るタイミングを少しズラしてみようとか変えていくわけです。

―― 音楽そのものに関するアイディアを話し合うだけではなくて、作品全体に音楽的なものがフィードバックされるわけですね。

三野 そうです。人とかモノを扱う手つき的な部分ですね。方法論的な部分で刺激を受けてます。公演の初日に新譜が出るんですよ。劇場でも販売します。超名盤なんで是非!

―― 空間現代のセカンドアルバムも手に入るヒッピー部の公演は11/14(水)から11/18(日)まで、池袋シアターグリーンBASE THEATERにて。11/15(木)19:30の回は佐々木敦さんの、11/16(金)19:30の回は、九龍ジョー(ライター/編集者)さんのトーク付きということで。

三野 ご来場お待ちしています。

(2012年11月3日、高田馬場、もぐら食堂にて)

インタビューを終えて

今回のインタビューを通じて、三野が追っている「見えないもの」がわかった気がした。それはきっと、自分ひとりでは成立しない、世界そのもの、その仕組みだ。「あたまのうしろ」に触れることで、新しい世界がカチリと開く。ヒッピー部の創作プロセスは、世界を開いていく過程としてある。開かれたその先にどのような世界が待っているのか、公演初日を楽しみに待ちたいと思う。