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ルビンの壺、あるいは演劇

この文章は村川拓也の3つの演劇作品『ツァイトゲーバー』『言葉』『羅生門』について書かれた2つの文章「「として見る」こと」(http://yamakenta.hatenablog.com/entry/2013/01/29/180333)「フレームを揺らす」(http://www.wonderlands.jp/archives/23943/)を補足し、つなげる役割を果たすものである。同時にそれは、やがて書かれる予定の村川拓也論への覚書でもある。村川は今年、既に明らかになっているだけでさらに『瓦礫』(7/6-7@元・立誠小学校)、10/8-9『エヴェレットラインズ』(あるいは『赤紙』? 10/8-9@アトリエ劇研)という2本の新作を予定している。これらの作品は先行する村川作品に対してどのような位置付けを持つことになるのだろうか。この文章はまだ見ぬ作品を「見る」ための1つのフレームともなるだろう。
 
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村川拓也の演劇作品はルビンの壺に似ている。ルビンの壺とは図地反転図形の1つで、壺にも向き合う2人の人物の顔にも見えるというあの図形に与えられた名称である。
 
村川拓也の演劇作品、『ツァイトゲーバー』『言葉』『羅生門』ではそれぞれ「介護」「被災地での体験」「羅生門」というモチーフが扱われている。ところが、これらの作品が前景化するのはそれらのモチーフというよりはむしろ作品を成立させる演劇という仕組みそのものなのである。もちろん、それらのモチーフが蔑ろに扱われているというわけではない。図地反転図形が成立するためには図と地が拮抗していなければならない。図と地が拮抗してはじめて反転が起き得るからだ。村川の演劇作品についても同じことが言える。それはたしかに特定のモチーフ(「介護」「被災地での体験」「羅生門」)を扱った作品であり、そこでは演劇によって特定のモチーフが立ち上げられている。にも関わらず、観客はいつしか演劇の仕組みそのものを観ていることに気づくことになるのだ。図と地は反転し、特定のモチーフによって演劇の仕組みが立ち上がってくる。
 
さて、では演劇の仕組みとは何か。実は、ここで言う演劇の仕組みそれ自体もまたルビンの壺なのである。役者をその役の人物そのものとして見るように、「実際にそこで起きていることを別のものとして見る」という認識の仕方こそが演劇を成り立たせていることは間違いない。つまり、演劇で提示されるヒト・モノ・コトは本来、多くの場合においては多義的な存在であるはずなのだ。村川は図と地の反転によってその多義性を曝け出す。
 
村川の演劇作品が「ドキュメンタリー的」であるとすれば、それは題材の選択によるのではない。村川作品のドキュメンタリー性は、演劇という場所で生じる現象そのものに焦点をあてている点にある。演劇において知覚の操作、つまりは何を図として見るのかという選択が無意識に行なわれているという事実に焦点をあて、そのような機構それ自体を浮かび上がらせること。村川の演劇作品はその意味においてドキュメンタリー演劇というより、むしろ演劇のドキュメンタリーなのである。