演劇批評誌『紙背』再始動に寄せて

『紙背』を再始動します。
誌名の「紙背」は文庫に対応する英単語paperbackを漢字に変換したもの。戯曲とその上演に対する劇評を合わせて掲載する『紙背』は文庫サイズの演劇批評誌です。
2017年からの1年で四号まで刊行し、その後は休刊状態にあったのですが、この度、再始動することになりました。『紙背』は以下のような特徴を持つ演劇批評誌です。

戯曲と劇評をセットで掲載
戯曲も劇評も慣れていない人にはなかなか読まれづらい書き物なのですが、文庫本に解説が収録されているように、戯曲と劇評がセットで掲載されていることで、どちらも多少なりとも取っ付きやすいものになるのではないかと思い、このような構成になっています。

一本の戯曲に二本の劇評
劇評は作品の「面白さ」を引き出すものですが、その面白さ、面白がり方は一つではないはずです。『紙背』では一本の戯曲につき、それぞれ二本ずつの劇評を掲載しています。それらはときに批判的なものになることもあるかもしれません。しかし、そうしてさまざまな思考を刺激することもまた、作品を上演/観劇することの意味ではないでしょうか。

一冊に三本の戯曲
再始動した『紙背』では、各号で三人ずつ、それぞれに違ったタイプの劇作家を取り上げていく予定です。チケット代がそれなりにする演劇というジャンルでは、新たな作り手に出会うハードルもなかなか高くなりがちです。好きな作家、気になる作家の戯曲が収録されているからと手に取った『紙背』が、新たな作家との出会いの場となることを願っています。

若手・中堅中心の多様な執筆陣
『紙背』に掲載される戯曲と劇評は、若手から中堅と呼ばれる書き手によるものが中心となる予定です。戯曲も劇評もなかなか掲載できる媒体がない状況を踏まえ、若手から中堅に言葉を発する場を開くことを目指します。
また、現在の日本の劇評の多くは、すでに一定以上の評価を得た作家や、娯楽性の高い作品についてのものがほとんどですが、私としては、若手の実践や実験的・先鋭的な取り組みにこそ言葉が必要であり、そこから生まれてくる「豊かさ」があるとも思っています。若い書き手による戯曲や劇評は、ますますその速度を増す社会の変化が最も顕著に表れる場でもあるでしょう。劇評の執筆はジャンル外の書き手の方にも積極的にお願いし、さまざまな視点から思考を刺激する誌面を目指します。

 

さて、ここからは『紙背』の活動を応援してくださる方へのお願いです。
『紙背』は今後、半年に一度の刊行を予定しています(おおよそ文学フリマ東京の開催に合わせた刊行になります)。継続的な刊行のためにも、興味関心を持っていただける方は是非とも早めにご購入いただけるとありがたいです。

というのも、一定の部数が売れれば赤字にはならないように予算を組んでいるとはいえ、刊行のために必要な資金は編集部メンバーが立て替えているため、早くに資金回収をすることができればそれだけメンバーの金銭的負担が減り、活動の持続可能性が確保しやすくなるからです。
また、『紙背』既刊はいつでも入手できるようかなり多めに刷ったのですが(現在も観劇三昧などで入手可能です)、今回は次号刊行までの売り切りを目指して部数を設定しています。気づいたときには完売ということもあり得ると思いますので、その意味でもご購入はお早めに。

 

現在、送料無料で一般発売に先がけて11月上旬にお届けする先行予約を受付中。ラインナップもこちらからご覧いただけます。申し込み締め切りは10月29日(日)です。

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一般発売は11月11日(土)開催の文学フリマ東京から。ブースは【し−64】です。
先行予約終了後も予約は随時受付けますが、11月12日(月)以降の発送となります。
11月12日(月)以降は順次、いくつかの書店や関連する劇団の公演会場などでの販売を予定しています。

『紙背』2023年11月号のラインナップについてはまた改めて。
再始動した演劇批評誌『紙背』をどうぞよろしくお願いします。

演劇批評誌『紙背』編集長 山﨑健太

今ここの未来(範宙遊泳『その夜と友達』評/演劇批評誌『紙背』三号掲載)

演劇作品は上演されているまさにその瞬間以外には存在しない。だがその上演の時間には異なる複数の時間がより合わさっている。戯曲の執筆、上演に向けた稽古、他の回の公演、いつか行なわれるかもしれない再演、あるいは他の演出家の手による上演。過去の積み重ねの上に現在の上演がある、というだけではない。私たち観客からすれば、前もって書かれた、つまり過去からの言葉である戯曲は、劇作家からすれば、やがて発せられるべき未来の言葉であり、それらは舞台上の俳優によって現在のものとなる。過去が、未来が、現在と出会う。
田町とアンちゃんは二〇三二年の現在=未来から観客のいる二〇一七年という過去=現在へと語りかける。それはかつて彼らが夜とともに過ごした時間でもある。演劇の上演はそれ自体がタイムマシーンのようで、過去からの/未来
への言葉が「今ここ」に届くのだから、その逆、未来からの/過去への言葉が「今ここ」に届くことがあってもいい、のかもしれない。

未来や過去からの言葉が「今ここ」に届くというのは一体どういうことなのだろうか。

田町はその鈍感さゆえに友人の夜がゲイであり自分に思いを寄せていることに気づかず、結果として夜を深く傷つけてしまう。15 年後の田町は夜が起こした事件を知ったことでかつて過ごした日々を思い出し、夜と再び会おうとする。奇跡的に再会した二人は美しい夜を過ごす。
私たち観客は隣人のゲイ(をはじめとするマイノリティ?)を傷つけないために配慮しなければならない。あるいは、過ちを正すのに遅すぎることはない。

もちろんどちらも「正しい」。この作品からそのようなメッセージを受け取り、幾分かでもゲイ(や他のマイノリティ)に対する姿勢が変わるのであればそれもおそらくいいことだろう。
だがこのとき、この作品の複雑さ(繊細さと言ってもよい)はどのような意味を持つだろうか。
この作品が残酷なまでに誠実なのは、田町があの決定的な夜を経てなお鈍感であり続けるところだ。鈍感と言ってしまっては田町が可哀想だろうか。悪いやつではない。誠実でさえある。だが田町は二〇三二年の現在においても、夜が鍋を背負っていたことを単なる笑い話として済ませてしまう。「こうなれば良かった」という想像の中でさえ「お前がそのデモの列に突っ込んだ車の犯人だって言うのかと思ったわ」と言ってしまう。再会した夜に「もう付き合うか?
俺ら」と言ってしまう。
田町が鍋を背負っていたのは、おそらく田町に自分の存在を認識してほしかったからだ。だからこそ初めて田町と話した夜は田町のことを「俺は知ってたよ」と言い「やっと存在できたわ」と言う。二〇三二年の田町は「確かにこう
言ってた やっと 存在 できたわ って」と言うにも関わらず、その意味するところに気づく様子はない。夜が田町を町田と呼び間違えるのだってわざとかもしれない。認識することと正しく認識することは違う。
時間を行き来するこの作品にはときに空想の時間が紛れ込む。夜がゲイであることを告白した夜。田町はあの夜のカミングアウトが和やかに済めばよかったのにと想像する。その夜を境に田町と夜とが決裂してしまったことを考えれば、あのとき「こうなれば良かった」と想像すること自体はあり得ることだ。
だが、その想像の中で田町は「お前がそのデモの列に突っ込んだ車の犯人だって言うのかと思ったわ」と言ってしまう。「そのデモ」が「同性婚を認めろっていうやつ」だったことを考えれば、田町の発言は冗談だとしても無神経だ。夜が実際にその言葉に傷ついたかどうかは問題ではない。というか、田町の想像上の場面なのだから夜がその言葉に傷つくことはもちろんない。だが、夜が傷つくことはないという想定、夜を犯人扱いすることを「こうなれば良かった」と言ってしまえること自体が田町の鈍感さを証立ててしまっている。
「もう付き合うか? 俺ら」という冗談が無神経であることは言うまでもない。夜が「付き合おうぜ」と答えたら、田町はどうするつもりだったのだろうか。十五年後の夜が田町に抱く感情を推し量る術はないが、「それはないわー」という夜の答えの前に置かれた「間」は言葉にできない感情を伝える。夜が「ないわー」と答えるしかないような冗談を投げかけるのは田町の甘えだ。

あなたは男性に「彼女いないの?」と聞いたことはないだろうか。女性に「彼氏いないの?」と聞いたことは?

大学 3 年生の頃だろうか。中学からの友人と飲んでいて、何かのはずみに「選挙行った?」という話になった。「俺行ってない」というヤツに「行けよ」と突っ込んだ私は「俺選挙権ないもん」という返しに一瞬言葉を失った。友人が在日朝鮮人だということは知っていたのだが(知っているつもりだったのだが)、そのことを意識することはほとんどなかった。分け隔てなく付き合うことは相手を傷つけないことを意味しない。あのあと私はどうしただろうか。「ごめん」と謝りはしたと思うのだが。
あるいは、中高の六年間を男子校で過ごした私は、ある時期まで男性と女性の違いについて極めて鈍感であった自覚がある。間違いなく、私は無知で無神経だった。今も幾分かはそうだろう。

さて、これは田町へ、あなたへ、過去の/現在の私へと向けられた糾弾なのだろうか。このような形で誰かを傷つけることはないに越したことはない、とは思っているのだから、そのつもりが全くないと言えば嘘だろう。だが、過去
は取り返しがつかない。気づいたときに改めればいいし、私にはそうすることしかできない。
「今ここ」には常に現在進行形の鈍感さがあって、過去の鈍感さを悔いても未来の鈍感さを完全に消し去ることはできない。だから、田町が未来から観客に語りかけるのは、観客の未来の「罪」を肩代わりするためではない。そんなことは不可能なのだから。
最後の場面、田町と夜は再会できたのだろうか。その場にいるはずのないアンも登場してしまうのだから、田町と夜だって同じ場所にはいないのかもしれない。机の上の空き缶や鍋を夜は残像だと言う。では夜は?
美しいのはきっと、そこに、今ここに、過去も未来もあるからだ。そしてそれはおそらく、なんというか、引き受けるにはおそろしくタフなことだ。可能性を閉ざすことはできない。二〇三二年と地続きの二〇一七年。未来の他人事
ではなくその「今ここ」を生きられるか。

現代日本演劇のSF的諸相 第23回 お布団 フィクションの倫理(初出:SFマガジン2017年2月号)

 お布団は二〇一一年に得地弘基を中心に結成されたユニット。第一回公演では得地の書き下ろし戯曲を上演したが、第二回公演以降は古典戯曲を題材とし、得地が改作した戯曲を上演してきている。得地が問うのはフィクションの倫理だ。あるいはフィクションの呪い。得地にとって作品を上演することはフィクションの登場人物たちにかけられた呪いをどうにかするための試みの失敗の連続としてある。得地はそのために彼らを殺し続ける。
 第四回公演として二〇一四年に上演された『悪い森』はシェイクスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』を原作とする。マクベスは自らが王になるという魔女の予言を受け、仕える王を殺してしまう。「女の股から生まれたものはマクベスを殺せない」「バーナムの森が動いてこない限り、マクベスは無敵。森が動くとき、マクベスは死ぬ」という予言に自信を得るマクベスだったが、森をカモフラージュとして近づいてきたイングランド軍と、帝王切開で生まれたマクダフによって追い詰められ、敗死する——というのが原作のあらすじだ。しかし『悪い森』のマクベスは予言を恐れるあまり、バーナムの森を切り倒してしまう。森がなくなったことでイングランド軍が攻めてくることはなくなったが、同時にマクベスが死ぬこともなくなった。死ぬことができない体になってしまったのだ。王の座から転落したマクベスは永遠にこの世をさまよう。先立ったマクベス夫人と地獄で再会することも決して叶わない。
 原作以上に悲劇的な結末は、マクベスが自身の運命、あるいは魔女の予言に逆らうことによって引き起こされている。運命に逆らうことは許されないのか。しかしそれはマクベス自らが掴み取った運命ではなく、魔女の予言という形で与えられたものだ。さらに言えば、マクベスの運命は魔女の予言以前にシェイクスピアの言葉によって規定されている。マクベスは『マクベス』という戯曲の一登場人物に過ぎず、当然、その物語から逸脱することはできない。原作以上の悲劇は、物語というまさに絶対的な運命に登場人物が逆らおうとすることで引き起こされたものだ。
ハムレット』を原作とした『幽霊と王国』(二〇一五)では事態はさらに深刻だ。「世界の関節は外れてしまった」というあの有名な台詞に導かれるように、『幽霊と王国』は少しずつ『ハムレット』の物語から逸脱していく。やがて恋人オフィーリアではなく母ガートルードが川で溺れると、ハムレットは引きこもって姿を見せなくなってしまう。登場人物たちは物語のほつれから姿を消すかのようにいなくなっていき、オフィーリアだけが残される。「0.消失点」と題された最後の節には「そして、王国は消失した」という一行だけがある。物語は、一つの関節が外れただけで瓦解してしまうのだ。
 お布団/得地が古典戯曲を扱う意味はここにある。何千回何万回と繰り返される物語という名の牢獄。得地は登場人物をそこから解き放つために物語を改変する。得地による改作は、物語への抵抗なのだ。しかしもちろん、抵抗は予め失敗を運命づけられている。得地による改作もまた、新たな物語の創出に他ならないからだ。登場人物たちは上演の度に新たな物語を生き、そして死に続ける。まるでゾンビのように。
 不死の存在や転生は第一回公演である『超家族』(二〇一一)から繰り返し登場するモチーフだ。地方の旧家・桜内家の親戚一同が会し、しきたりに従い、天狗に呪われた一族の血塗られた歴史=物語を上演する。『超家族』は得地のオリジナル作品だが、この時点ですでに物語への抵抗は一つの主題としてはっきりと提示されている。全ての歴史がリセットされ、天狗の呪いからの解放と世界の再生が示唆される結末は救いであると同時に新たな牢獄の誕生でもある。桜内家の歴史が儀式として繰り返し上演されてきたのと同じように、『超家族』という作品もまた(少なくとも公演回数である五回は)繰り返し上演されることになるからだ。
 登場人物にかけられた天狗の呪いを解こうとする得地の身ぶりは実のところマッチポンプに過ぎない。解かれる呪いは得地自身によって用意されたものであり、繰り返し呪われる彼らの運命=物語自体、得地が創り出さなければそもそも存在しないものだった。救うために呪うこと。ここには一つの欺瞞がある。この欺瞞に気づいていたからこそ、得地は古典戯曲の改作に手を出したのではないだろうか。少なくともその呪いは、得地自身が用意したものではないからだ。改作もまた新たな牢獄を創り出すことに変わりはないが、得地はそのことの責任を真摯に引き受けようとしているように見える。
アンティゴネアノニマス-サブスタンス/浄化する帝国』(二〇一六)はギリシャ悲劇『アンティゴネ』をドイツの劇作家ブレヒトが改作したものに基づく作品だ。テーバイの王クレオンは戦場から逃亡した裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じ、ポリュネイケスの妹であるアンティゴネはその命令に背き兄を埋葬しようとする。得地が改作の対象としたのは、ブレヒトによる改作のうち「序景」と題された本編に入る以前の部分だ。「序景」に登場するのは一組の姉妹とナチス親衛隊員。冒頭の「ベルリン、一九四五年四月」というト書きからも明らかなように、この「序景」にはテーバイを舞台としたギリシャ悲劇『アンティゴネ』を現代の観客へと接続する機能が担わされていた。はるか歴史のあちら側の出来事をこちら側へと引き寄せて考えること。だがそんなことは果たして可能なのだろうか? あるいは、そのような態度は果たして誠実なものだろうか? 無関係と切り捨てるよりかは幾分かはマシかもしれない。しかしいくら引き寄せてみたところで、それがフィクションであることに変わりはない。フィクションの世界は絶対に「こちら側」ではない。だから、得地は回路を逆転させる。
 そこではやはりテーバイがアルゴスと戦っている。しかし舞台はテーバイでもベルリンでもなく、アルゴスだ。時は三〇一六年。テーバイで起き、ベルリンで起きたかもしれない出来事が、アルゴスでも起きていると仮定すること。過去に起き、今また起きたことが未来にも起きうると仮定すること。タイトルに冠された「アノニマス」の意味はここにある。私たちの知らない、名もなき誰かのうえにも悲劇は起こる。彼ら彼女らのいる「あちら側」への想像力。必要なのはそれだ。
 物語はごく短い。姉妹が家にいると外から喚き声が聞こえてくる。様子を見に行こうとするとアルゴスの兵士が現れ、そして問う。「お前たちは誰だ?」姉妹は答えられず立ち尽くす。あるいはそこに、テーバイの兵士が現れるかもしれない。彼はアルゴスの兵士を撃ち殺す。いや、テーバイの兵士は現れず、アルゴスの兵士は姉妹を撃ち殺す。一九四五年のベルリン、紀元前のギリシャ、三〇一六年のアルゴス。シチュエーションを少しずつ違え、繰り返される地獄。しかしこれらが上演されているのは、もちろん二〇一六年の東京でしかない。だから、上演される全ては「あちら側」の話だ。
 繰り返し殺される女はやがてこれがフィクションに過ぎないことを暴露しはじめる。

助けてと、言っても助けてくれないことは分かっていました。姉妹であるわたしたちは存在していません。現実に兵士に殺されようとしている「わたし」としては。存在していないので、助けて! とこうやって叫ぶこともできるし、存在していないので、あなたたちは助けないことができます。むろん存在していたとしても、あなたたちは助けないことができます。ですが、存在していないのはどういうことなのでしょうか。助けを呼んでいるわたしは誰なのでしょうか?

ここで「あなたたち」と名指されるのはもちろん観客だ。観客はフィクションの登場人物たちを見殺しにし続ける。彼らは何度でも生き返り、そしてまた死んでいくだろう。
『浄化する帝国』の世界では死体が兵器として「再利用」される。君臨する帝王はだから、得地自身の似姿でもあるだろう。自身を「冠を授けられた者。呪いを担わせられた者。玉座に座らせられた者。秩序の修復を任せられた者。民の地獄を背負う者」と呼ぶ帝王は、自らに流れる「穢れた血」を「清潔で神聖な白亜」の血と入れ替え、死ねない体になってしまう。救いをもたらさんとする者は自らも呪いを受け入れなければならない。おそらくはそれが彼なりの誠実さなのだ。
 お布団/得地は繰り返しフィクションの倫理を問うて来た。フィクションの登場人物を救おうとしながら、自分に彼らを生かす/殺す権利はあるのかと問い続ける。答えは見つからない。だが得地はそれでも「あちら側」へと手を伸ばさずにはいられない。なぜなら、「あちら側」に広がっているのはフィクションの世界だけではないからだ。それは決して届かない他者への働きかけだ。
『浄化する帝国』もまた試みとしては失敗に終わり、「呪い」が世界を覆い尽くしてしまった。だが幸いなことに、『浄化する帝国』には続きが用意されている。続編にしてお布団の新作『アンティゴネアノニマスフェノメノン/善き人の戦争』は二〇一七年一月二五日(水)から一月二九日(日)まで、シアターバビロンの流れのほとりにてで上演される。「戦争」が「帝国」にもたらす結末を見届けたい。
 さらに、三月には新宿眼科画廊でプラトン『クリトン』などを原作とした『対話篇(仮)』の上演も予定されている。こちらは青年団リンク・キュイを主宰し、第1回・第3回せんだい短編戯曲賞で大賞を受賞した劇作家・綾門優季が戯曲を書き下ろすのだという。死刑執行を待つソクラテスと彼を助け出そうとするクリトンとの正義をめぐる問答は、フィクションの倫理を問い続ける得地にどのような解を与えるのだろうか。

『福島を上演する』を観る(ペネトラQ、2016年11月)

マレビトの会『福島を上演する』はフェスティバル/トーキョー16でプログラムの1つとして2016年11月17日から20日まで、にしすがも創造舎で上演された。最初の3日間は5本、最終日は6本で計21本の戯曲を1度ずつ上演するという作品だ。松田正隆を含めた5名の作家が戯曲を執筆し、一部重複するがそれとは別の5名が演出を担当した。客席こそ設営されているものの、元体育館の会場をほとんどそのまま使い、舞台、というか演技空間に置かれているのは4脚のパイプ椅子のみ。床にはバスケットボールやらバレーボールやらのコートを示すラインも見える。俳優たちの演技もまた、この空間に対応するようにシンプルだ。抑揚を抑えた、ときにほとんど棒読みとも思える発話と大雑把な動作。舞台美術どころか小道具も一切使われていないため、動作の多くは無対象、つまり、何もない空間に対して(そこに何かがあるかのように)行なわれる。奇妙なのは、そこではいわゆる「リアリティ」が追求されているようには見えない点だ。細部が省略された動作は記号的でさえある。マレビトの会では「〈仕草を疎かにする〉こと」=「パントマイム的に厳密な対象を作り過ぎないこと」が重要視されてきたという(当日パンフレット記載の森麻奈美「稽古場より:〈ゆるさ〉と〈強度〉のあいだで」より)。そこでは「現実」の近似値は目指されていない。登場人物とそれを演じる俳優の年齢・性別が必ずしも一致していない、それどころかときにテレビやペッパーといった無生物を俳優が演じる点からもそれは明らかだろう。舞台上での出来事はいくら「現実」に寄せようとしても「現実」にはならない一方、どうしようもなくただただ現実でもある。『福島を上演する』は「現実ではないこと」と「現実でしかないこと」との間に生じる力をまざまざと示した。

1日目

4本目に上演された松田正隆「見知らぬ人」は『福島を上演する』の奇妙な面白さ(それは私にとってはほとんど快楽でさえある)を端的に示す作品だ。演技空間に3人の人間が立っている。1人は女性で台所で洗い物をしているように見える。少し離れた場所で地べたに座る1人の女性が本のページを繰り、1人の男がすぐ近くに何をするでもなく正座している。しばしの沈黙ののち本を繰る女が言う。「お母さん、なんか知らない人がいるんだけど」。多くの観客の笑いを誘ったこの台詞がおかしいのは、もちろんそのありえないシチュエーションととぼけた感じによるところも大きいのだが、観客の予期が裏切られるからだろう。ほとんどの観客は当初の沈黙の時間、3人を家族だと思って見ていたはずだ。そんな説明は一切ないにもかかわらず。『福島を上演する』が曝け出すのは、舞台上に実際にあるものと、観客がそれをどのようなものとして見るかは決して一致しないという事実、そこに生じる絶対的なズレなのだ。

1本目に上演された「福島市役所」ではそこにある現実と演劇的な虚構の空間とが、さらには複数の虚構がせめぎ合い、たえず流動するモザイク状の空間(認識)として舞台を覆い、ほとんどスペクタクルの様相を呈していた。

『福島を上演する』では演じられる虚構と現実との、あるいは虚構の中でのある場面と次の場面との境目ははっきりとは示されない。連続で上演される戯曲の間に明確な境目が示されることもない。俳優たちは出番になると舞台左右と舞台手前左右の4つの口からスタスタと現われ、出番が終わると同じくスタスタとその場を立ち去るか、あるいはしばしその場に留まってから去っていく。どの瞬間からが演技なのかは判然としないことが多く、去っていくタイミングもバラバラで、明らかに次の場面がはじまっているにもかかわらずその場に留まり続け、場面の途中でおもむろに去っていくことさえある。

舞台美術などが何もない空間では、俳優たちが自らの「役」という虚構をキープすることによってその周囲の空間にも虚構が仮構される。通常、同じ場面に登場する俳優間ではその虚構が共有されることによって全体として演劇的な空間が立ち上がるのだが、『福島を上演する』では虚構をキープする時間や度合いが俳優によってズラされており、そのことによって同一平面状にモザイクのように「虚構」と現実(=俳優自身やにしすがも創造舎という場所)の濃淡、あるいは異なる場面が重なり合うかのような複数の「虚構」の並存する空間が生まれる。客席上段から俯瞰気味に見るそれは維新派的なスペクタクルのように見えたが、最下段で俳優と同じ目線に立って見ると、ある奥行きの中に配置された複数の虚構の間で次々と焦点がスライドしていくような(しかもときに複数の箇所に同時に焦点が合ったりもする)印象を受けた。

* * *

続きを書いたら改めて公開しようと思いつつ現在に至る……。

ロロ『いつだって窓際であたしたち』

戯曲と演出と俳優の能力が重なり合えば、観客の想像力を喚起して、意識の流れを誘導し、その場にいなくなった人間についての物語も、あるいは前後の時間や、舞台の外側の空間についても、容易に観客に想像させることができるのだ。すなわち、ある限られた空間、ある限られた時間を描くだけで、世界全体をうつし出すことができるのだ(平田オリザ『演劇入門』)

『いつだって窓際であたしたち』は「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」を舞台にした連作群像劇、「いつ高」シリーズの第一作として上演された。「いつ高」シリーズは全作品が全国高等学校演劇コンクールのフォーマットに則って作られるのだという。それはたとえば舞台美術の仕込みを一〇分以内、作品の上演を六〇分以内に行なう、などの具体的な制約に基づいて作品が作られているということなのだが、同時に、このシリーズはもう一つ別のフォーマットにも則っているように思われる。平田オリザの「現代口語演劇」がそれだ。

「いつ高」シリーズが「現代口語演劇」だというのは、一つにはもちろん技巧上・作劇上の特徴、つまり同時多発会話を含むナチュラリズムに基づいた演技や「現実」に限りなく近い(ように思われる)舞台設定、上演時間と劇中の持続時間の一致(上演時間一時間の作品であれば劇中でも一時間が流れる)などが「現代口語演劇」のそれと一致しているからだ。これまでのロロ/三浦直之の作品がリアリズムとはかけ離れた、想像力の風呂敷をこれでもかと広げるような作風だったことからも、「いつ高」シリーズにおける変化は際立って見える。このような変化は「高校を舞台とした連作群像劇」というフォーマットに要請されたものであるようにも見えるが、重要なのは形式よりむしろ、「現代口語演劇」に内在する世界への姿勢だったのではないだろうか。

「現代口語演劇」の作品は閉じた世界=完結した作品としてではなく開かれた世界の断片として存在する。劇中で描かれる「今ここ」、舞台上の「今ここ」はある時間的・空間的広がりの中にあり、観客は劇場という「今ここ」でその一部を目撃するのだ。一作ごとに主人公が代わる連作群像劇という形式は、まさに一作一作を開かれた世界の断片として存在させることになる。そして「高校の教室」という「今ここ」もまた、開かれた世界の中にある。

高校生になると行動範囲も広がり、たとえばバイトをしている奴もいる。意志さえあれば学校以外の世界と接する機会はそこここに用意されているだろう。しかしその自由度は大学生と比べれば限られたものでしかない。多くの高校生の生活は学校を中心に回っていて、その意味で高校生にとって学校や教室は「世界」そのものであり得る。高校生は教室という「世界」に生きながら、窓から吹き込む風に世界の広がりを予感している。

『いつだって窓際であたしたち』はある教室の昼休みという限定された時空間を描きながら、様々な形でそれ以外の時空間への広がりを見せる。LINE、噂話、写真、地球儀、YouTubeGoogleストリートビューなどなど。机に置かれるミニチュアの校庭やiPhoneといったガジェットは、切り取られた小さな「世界」が大きな世界とつながっていることを、教室、学校、あるいは劇場という小さな「世界」が大きな世界へと開かれていることを示す。イヤフォンから漏れる音楽や漂うシューマイの匂いは、思いがけず自分の知らない「世界」に届いている。

高校生観劇無料、戯曲無料公開、高校生以下の上演・二次創作料無料、部員数に合わせた二次創作歓迎という「いつ高」シリーズの試み自体、世界へと開かれた窓としてあるだろう。それは高校生にとっての窓であると同時に、ロロ/三浦自身にとっての窓でもある。ロロ/三浦以外の手による上演・二次創作が世界を広げていく。

ところで、リアリズムに基づいて書かれているように見える「いつ高」シリーズの台本冒頭には、「ファンタジーでなければならない」というト書が共通して置かれている。あるいは、メインビジュアル・上演台本挿絵を担当する漫画家・西村ツチカの絵について三浦は、「知っているのにみたことのない世界がたくさん描かれていて、それってつまり青春みたいだなとおもいます」と言う。「今ここ」にそうではない時空間を、目の前にいる人にまた別の人を見ることのできる演劇はいつでもファンタジーで青春なのだ。だから、窓は常に開かれている。    

柴崎友香『春の庭』論(ペネトラ5、2014年11月)

世界は無数の時間の織りなす綾としてあり、柴崎友香の小説はその様を精緻に描き出す。わたしの、あなたの、モノの、現在の、過去の、未来の、そしてフィクションの時間。無数の時間はもつれ、より添い、重なり合い、あるいは一瞬の交錯を経て離れていく。そうして世界は広がっている。

柴崎はときにラジカルな手法で世界の綾を紡いできた。『ビリジアン』では日常の風景の中にアメリカの映画スターやアーティストが何食わぬ顔で登場し主人公と会話を交わす。『ドリーマーズ』はタイトルの示す通り夢にまつわる連作短編集だが、読者は現実に夢が陥入してきたかのような感覚を得ることになるだろう。夢やフィクションもまた現実の一部として世界という謎を構成している。

第一五一回芥川賞を受賞した『春の庭』もこのような系譜に連なる作品である。とは言え、『春の庭』には一見したところ『ビリジアン』や『ドリマーズ』に見られたラジカルさはない。だがむしろ、そうであるがゆえにより一層、『春の庭』では小説の原理に関わる試みが際立っていると言えるだろう。その一つはもちろん、終盤に突如として登場する「わたし」の存在である。本稿では『春の庭』で描かれる時間のあり方や人称の使用に注目して作品を分析し、最終的にこの「わたし」の正体を明らかにすることを目指したい。

 

時間の多層性

太郎はある日、同じアパートの二階に住む女がベランダから身を乗り出し、同じブロックに立つ水色の家を覗き込んでいるのを目撃する。後に知り合った彼女、西が語ることには、その水色の家は彼女の持つ写真集「春の庭」が撮影された場所であり、彼女はその家の中をどうしても見たいのだという。『春の庭』で描かれるのは、太郎と西がその家に住む森尾一家と知り合い、ついには西の念願だった水色の家のバスルームを実際に見るまでの出来事とその後の顛末である、とひとまずはまとめることができるだろう。

この小説の中心に「春の庭」という写真集が置かれていることは象徴的である。写真は時間や距離によって隔てられた二点をつないでしまうメディアだからだ。しかも、「春の庭」を撮影したのはCMディレクターである牛島タローと、小劇団の女優である馬村かいこという、言うなればフィクションの世界の住人なのである。太郎は、テレビの中の人や場所を自らとは関係のないものだと思っていたと言う。

もし自分が子供の頃に、近所でテレビの中の人が役柄とは違う格好で歩いているところに遭遇したら、よろこぶというより混乱したのではないかと思った。(…)太郎は大阪で育ったが、テレビドラマの中のことは、どこか遠くの場所にあって、自分が生きている場所とは関係ないのだと思っていた。背景の住宅街も、工場に囲まれた埋め立て地にある自分の街とは全然似ていなかったし、話す言葉も違っていた。だから、安心して見られたし笑うこともできた。もし、自分の街の中にその世界があったら。どっちがほんとうなのかわからなくなって、部屋から出られなくなったのではと思う。この街で育つ子供たちは、その二つの世界をどのように区別しているのだろう。(二四−二五)

 だが小説のラストで太郎は(そして読者も)ついに非現実的な世界に迷い込むことになる。森尾一家が引っ越し、空き家となった水色の家に太郎は一人忍び込む。二階の一室で眠りに落ちた太郎が翌朝目覚めると階下から聞こえてくるのは「庭から女性の遺体が発見されました」という言葉だ。劇的な出来事はほとんど何も起こらず、淡々と進んできたこの小説の最後に用意されたあまりにも衝撃的な展開はしかし、すぐさまそれがサスペンスドラマか何かの撮影だったという形でオチをつけられる。だが、太郎はテレビに出ている女優と一瞬ではあるがコミュニケーションを交わす。太郎は水色の家で、自分とは無関係だと思っていたテレビの世界と束の間の接点を持つのである。「春の庭」とそこに映された水色の家は過去と現在を、テレビの中のフィクションと現実とをつなぐ場としてある。

太郎たちが住む「ビューパレス サエキⅢ」というアパートもまた、複数の時間の交わりを象徴的に表わしている。アパートの部屋番号には干支が割り振られているのだが、それは「辰」からはじまっており、「子」から「卯」の四部屋がない。疑問を感じた西は「ビューパレス サエキⅠ」や「Ⅱ」があるのではないかと探すが見つからず、そもそも「Ⅰ」「Ⅱ」があったところで、それらがそれぞれ二室ずつしかないというのもおかしな話である。疑問は解けず、「ビューパレス サエキⅢ」はそのようなものとして、ローマ数字と干支という二つの異なる数え方の(しかもそれらは途中なのだ)交わる場所に立っている。太郎たちが知ることができるのは、「ビューパレス サエキⅢ」だけであり、「辰」から「亥」までの八つの部屋だけなのである。

「わたし」のいない(いなかった/いないであろう)時間や場所にも時間は流れている。それはまるで暗渠のように目の前にふいに現われ、そしてまた消えてゆくものとしてあるだろう。

 毎日歩く地面の下は、暗渠の川が流れている。水道やガスの管がある。不発弾があるかもしれない。ここはどうだかわからないが、もう少し新宿に寄ったあたりでは空襲の被害があったと、それは美容師をしていたときに年配の客から聞いた。不発弾があるなら、そのときに燃えた家や家財道具のかけらも埋まっている。もっと昔はこのあたりは雑木林や畑だったらしいから、毎年の落ち葉や木の実やそこにいた小動物なんかも、時間とともに重なって、地表から少しずつ深いところへ沈んでいった。

 その上を、太郎は歩いていた。(九四)

柴崎が描くのは、しかしこのような時間の多層性だけではない。『春の庭』においてはしばしば文章それ自体が、いわばパフォーマティヴに時間の多層性を生み出し暴き出すものとして機能している。

その機能はたとえば、「缶ビールは冷えすぎていた。」(一三)のような何気ない記述に仕組まれている。「冷えすぎていた。」という記述が時間の経過を感じさせるというだけではない。実のところ、「缶ビールは冷えすぎていた。」という記述は多くの読者には唐突に思われるであろう形で登場する。「缶ビールは冷えすぎていた。」の直前まで、読者は太郎の同僚で結婚する沼津が婿入りするため相手の墓に入らなければならないという話と、太郎自身の亡くなった父親の骨などにまつわるエピソードが入り交じった太郎の回想らしきものを四頁にわたって読んでいる。その回想らしきものが「太郎は、小学生のときに鉄棒に額をぶつけて切ったことがあるが、そのとき同級生たちが骨が見えると次々にのぞきに来たのに、自分だけが結局見られなかったことが今でも心残りだった。」(一二−一三)と締められたあと、段落が変わると突如として「缶ビールは冷えすぎていた。」という文章が現われるのである。しかも、直後に「リサイクル店で買った冷蔵庫は最近、おかしな音がする。」という一文が置かれると、一行の空白を挟んで「金曜の朝」と別の日の話がはじまってしまうのである。空白の直前の段落はほとんど不要なもののようにも思える。だが、この段落が置かれていることで、読者は太郎の回想から太郎の部屋へと引き戻されることになるだろう。太郎の回想らしき描写がはじまるのは、仕事を終えた太郎が帰宅した部屋で缶ビールを開けた直後であった。その缶ビールが太郎の回想を経て四頁の後に読者の前に戻ってくることで、読者は太郎の部屋という「現在」の中に「過去」の時間が入り込んでいたことに改めて気づかされるのである。

 

視点の移行

同様の企みは西が太郎に水色の家を覗き込んでいた理由を説明する居酒屋の場面にも見られる。この小説は三人称で書かれているが、基本的にその視点が太郎に置かれていることは、太郎の内面描写だけが地の文に登場することからも明らかである。ところが、いくつか例外となっている箇所もある。そのうちの一つがこの居酒屋の場面だ。この場面ははじめのうちこそそれまでと同じ、太郎視点の三人称で書かれているが、西が自身の過去を語りはじめると太郎は姿を消し、西の内面描写を含む三人称に、つまりは西視点の三人称へと変化する。

このような視点人物の変更は巧妙に行なわれているため、ともすれば見落としてしまいかねないものである。それが太郎の視点であれ西の視点であれ、文章が三人称で書かれていることには変わりはないし、ここまでに発せられる西の言葉もまた、太郎のそれと同じようにしばしば地の文に組み込まれる形で書かれているため、視点人物が太郎から西へと変化したところで、全体の印象はさほど変わらないのだ。視点が完全に西へと移行する前、二人の会話はたとえば次のように書かれている。

 そんなに住みたい家なら内見だけでも行ってみればよかったのではないか、たとえば数人でシェアできる可能性もあったのではないか、と太郎が尋ねると、西は、自分は同じ空間に動くものがあると落ち着かないから他人とは暮らせないし、妙に律儀なところがあって住むつもりもない部屋を見に行って不動産屋の人を煩わせてはいけないと思った、と言った。(三八)

この部分だけを取り出すと内面描写がないため、視点人物を持たない(「神の視点」による)三人称描写として読むこともできるが、これ以降、太郎は姿を消し、いつしか西の内面もが三人称の下に語られていくことになる(よく読めばそれ以前から西の内面は地の文に混入してきてはいるのだが)。もちろん、この場面が西から太郎への事情説明の場としてあったことを考えれば、西を視点人物とした三人称による描写は、二人の会話の場面から太郎の反応と「と言った」という表現を省略したもの、西の語りの内容のみを三人称の下に抽出したものとして読むことができるだろう。実際、太郎が再び視点人物に戻ってくるのは次のような文章においてなのだ。

 それだけ話すあいだに、西は生ビール中ジョッキを七杯のみ、トイレに二度行った。太郎は、最初の一杯はビールで、そのあとはウーロン茶にしていた。(五一)

西視点の三人称描写が延々と続いた後にこの文が置かれていることから、三人称描写が西自身による語りと同等のものとして位置付けられていることがはっきりとわかる。だが問題は、視点人物のスライドの意味ではなく、その引き起こす効果である。

さらなる検討に入る前に、佐々木敦による人称と視点人物に関する整理を参照しておこう。佐々木は「一人称」と「三人称」の区別が必ずしも明解なものではなく、「それは言わば入れ子状になっている」と言う。

「視点人物」という便利な言い方がある。文字通り物語内にあって語り=読みの視点となる人物のことである。「視点人物」は複数であってもよいし、また「視点人物」が必ずしも「話者=語り手」である必要はない。それは語り手がいないように見える「三人称小説」で、ごく普通に行なわれていることである。だからむしろ「視点人物」と登場人物の一員でもある「語り手」が一致している「一人称」は、この意味での「三人称」の変形であると考えることが出来るのではないか。これをそのまま逆転させれば、「視点」を固定された「三人称」は「一人称」の変形であるとも言えるのだ。入れ子というのは、このような意味である。(『あなたは今、この文章を読んでいる。』八三−八四)

 『春の庭』はまさに、基本的に太郎に「『視点』を固定された『三人称』」による小説であり、その意味で変形「一人称」小説である。ところが、自らについての西の語りが地の文として書かれることで、太郎の視点と西の視点が、言わば重なりあった状態で存在してしまうことになる。自らについて語る西の視点が西自身に置かれているのは当然だが、そこには居酒屋で西と同席して話を聞いている太郎の視点も潜在しているからである。

鍵括弧や「と言った」のような表現は、いわばマーカーとして機能し、それによって括られた部分を文章の他の部分から区別する。『春の庭』に即して言えば、基本的に太郎視点の三人称で書かれているこの作品において、地の文で書かれ得るのは原則として太郎の見聞きした内容や考えたことのみであり、他人の発言は鍵括弧で括って示され、あるいはそれを地の文に組み込むときは、たとえば「西は〜と言った」という形でそれを明示する、というのが原則的な書き方となる。もちろん、これはあくまで原則であり、このような規則に則らない「ルースな」三人称小説はいくらでもある。だが、『春の庭』はここまで、基本的にこの原則を忠実に守る形で書かれており、だからこそ、西の視点へのスライドが奇妙な効果を発揮する。マーカーの使用という原則をピンポイントで破ることで、太郎の視点にその外部、この場合は西の視点が流入してくるのである。西の話を聞いている太郎の視点は、ここでは西の視点とぴったりと重なりあっている。読者は「太郎は、最初の一杯はビールで、そのあとはウーロン茶にしていた。」という一文を目にして、そのことに改めて気づかされることになる。西の語りの間(そこには幼少時から今まで、つまりは水色の家に興味を持つまでのエピソードが含まれている)、居酒屋の様子は描写されないが、ほとんどの読者はそのことを意識しないだろう。だがその間にも太郎と西は居酒屋で八杯のビールと何杯かのウーロン茶を飲んでいる。西から太郎への再びの視点の転換が、今度はあからさまな形で行なわれることで、そこに複数の時間があったことが暴かれるのである。

さらに言えば、その効果は『春の庭』を読んでいる読者自身にさえも波及し得るだろう。読者はこの二文を読んだ瞬間、太郎がかなり長いあいだ登場していなかったこと、あるいは、読み進めるうちに自分が居酒屋にいる太郎の存在を忘れていたことを改めて意識させられることになる。実際のところ、太郎が姿を消してからここまでに一三頁もの「時間」が経過している。ここには小説内世界という枠組みを越え、本を読むという行為の時間性をも意識させる契機が潜在しているのである。

 

三人称的一人称

居酒屋の場面において、人称は様々な意味での「小説の時間」を、その多層性を浮かび上がらせる契機として存在していた。このような視点から考えることで、この小説における唯一の不可解な点、小説の後半に突如として登場する「わたし」という一人称についてもいくらかの説明が可能となるだろう。

すでに述べたように、『春の庭』は基本的に太郎視点の三人称で書かれた小説である。ところが、小説の終盤、全一四〇頁のこの作品の一一八頁に至って突如として次のような記述が現われる。

 わたしが太郎の部屋を訪れたのは、二月に入ってからだった。

さらに読み進めるとわかることだが、この「わたし」は太郎の姉である。太郎に姉がいることはここまでにも書かれてはいるのだが、一体全体、なぜこの段階でその姉が「わたし」という一人称をともなって登場してくるのか。さらに、「わたしが帰った次の日、太郎は、賃貸情報サイトで部屋を検索してみた。」(一二九)という記述が、この「わたし」という存在への違和感をより一層増すことになる。この記述を契機として、小説の記述は太郎視点の三人称へと戻るのだが(「太郎は、部屋を探すのはもっと後でいいと思った」一二九)、またすぐに「ひと月後、わたしは名古屋にいて」と姉の一人称視点へと引き戻されてしまう。一三二頁の「わたしが歯を埋める場所を探しに外へ出た六時間後、太郎は、ベランダの柵を乗り越えて立ち入り禁止の中庭に降りた。」で記述はようやく太郎視点の三人称へと戻り、以降姉の一人称が再び登場することはない。

この「わたし」が不可解にも思われるのは、その登場があまりに突然であることもその理由の一つではあるが、「わたしが帰った次の日」や「わたしが歯を埋める場所を探しに出た六時間後」など、「わたし」=姉がいないはずの時空間の出来事を一人称視点の下に記述しているように感じられるからである。なるほど、「わたし」が一人称視点の指標なのであれば、そこで「わたし」の知らないことが語られることは不可解である。であるならば解決策は一つしかない。つまり、少なくとも引用した二箇所での「わたし」は視点人物ではないのだ。

引用した二箇所は「わたし」の視点からの描写ではなく、単なる事実の記述としてある。いや、これは改めて指摘するまでもなく、実のところ該当箇所を読んだ時点で明らかなことなのである。にも関わらず、読むものの多くが大なり小なり違和感を感じるのはなぜか。それは、この「わたし」という一人称があまりに三人称的だからである。

佐々木が指摘したように、視点の固定された三人称は一人称の変形とみなすことができる。たとえばこの小説で「太郎」を「おれ」と置き換えることは十分に可能であり、そのことによる不都合はほとんどないはずである。だからこそ、太郎以外の人物に、太郎には与えられていない一人称が与えられていることは混乱を生じさせることになる。一方、視点人物の固定されていない(あるいは設定されていない)三人称で、登場人物の一人を「わたし」に置き換えた場合はどうだろうか。こちらはほとんどの場合、何かしらの不都合が生じるように思われる。『春の庭』の「わたし」の違和感も同じようにして生じていることは、「わたし」を「姉」に置き換えてみれば明らかだろう。「わたし」の存在によって生じていた違和感は見事に消え去るはずだ。前後に空白が置かれている分、前述の居酒屋における西の視点よりもむしろ不自然さは少ないとさえ言えるだろう。

一人称から三人称への変換よりも三人称から一人称への変換の方が難しく感じられるのは、一人称が特権的なものであると慣習的に看做されているからである。一人称が視点人物の指標であるというのはその意味だ。だが、その特権は果たしてそれほど自明かつ確固としたものなのだろうか。視点人物ではない一人称というものが考えづらいのは(少なくとも慣習的には存在していないのは)なぜだろうか。答は明らかである。現実の「わたし」がそのようなものとしてあるからだ。

現実の世界において、人はそれぞれ自らの=「わたし」の視点を通してしか世界を見ることはできない。ゆえに、現実の似姿として小説が書かれるとき、その中に書き込まれる「わたし」もまた世界を見るための視点となる。だが一方で、「わたし」もまた作者によって書かれることで存在しているという点においては、他の登場人物たち、三人称の登場人物たちと同じなのである。一人称によって与えられる特権はまやかしに過ぎず、それはむしろ、登場人物を視点人物という立ち場に縛りつける、いわば呪いのようなものでさえあったのだ。

柴崎はこの呪いを解いてみせた。一人称と世界を見る視点とを切り離すことで、「わたし」をより自由な小説空間へと解き放ったのである。現実の「わたし」は世界を見る視点から離れることはできない。だが小説ではそれが可能だ。

三人称の視点人物としての太郎を中心に世界を描きながら、作品の終盤で太郎とは別の「わたし」が登場することで、両者はともに相対化されることになる。一人称的三人称と三人称的一人称。太郎がいなくても世界は回っているし、「わたし」がいなくても世界は回っている。人はそれぞれ自らの人生の主人公ではあるかもしれないが、世界の主人公ではない。世界は「わたし」からは自由なのだ。

このように考えたとき、ほとんど無意味に思えるほどに『春の庭』に氾濫する名前の一致、あるいは類似とでも言うべき事態もまた、作者の企みのうちにあることは明らかだろう。太郎の同僚の沼津は沼津ではないが静岡の出身であり、彼が飼っていた犬は「目頭に黒い模様があってチーターみたい」(一〇)だからチーターという名前だった(そう言えば山下澄人『ルンタ』にはクマという名前の犬が登場する)。沼津と沼津は関係ないが、チーターはチーターに似ているからチーターだ。「わたしは一階の部屋がよかったかもですね。わたし、西っていうんですけど、一階に『酉』があるでしょう。漢字が似てるから覚えやすいじゃないですか」(三二)という西が住んでいるのは「辰」の部屋で、大家の長男は寅彦という名前だが、そのことは「ビューパレス サエキⅢ」の部屋番号にはどうやら関係ない。「牛」島と「馬」村とアパートとの関係もわからなければ、牛島タローが太郎と同じ名を持つことにも意味はない。意味はないが、同じ名前を持つということはそれだけで一つの関係のないもの同士をつなげてしまう。名前の向こうには「わたし」とは別の世界が広がっている。

 

おわりに

小説は、というより文章は、一つの箇所に二つ以上の時間を記述することができない。読書という行為もまた常に直線的なものとしてしかあり得ないという意味において、文字の読み書きは一つの直線的な時間に縛りつけられていると言えるだろう。人生も同じだ。「わたし」は常に一人でしかなく、時間は直線的に進み続ける。だがそこにはたしかに無数の時間が息づいているはずなのである。柴崎の小説は、いつもその無数の時間の豊かさを捉えるために書かれ/読まれると言っても過言ではない。

柴崎のアプローチは極めて原理的だ。書く/読むことによって構築される時間が直線的であることから逃れられないのであれば、どのようにしてその中に無数の、多層的な時間を注ぎ込むことができるのか。柴崎は人称や鍵括弧といったマーカーの持つ機能を失効させ、あるいは変質させてみせる。引き起こされるのは小説空間の平面化とでも言うべき事態である。これは多層的な時間を描くというねらいとは真逆の結果であるかのように思われるがそうではない。人が時間を(世界を)直線的・単線的にしか捉えられないとすれば、それは「わたし」に囚われているからである。小説空間の平面化は、世界を「わたし」から解き放つものとしてある。

一見したところ何も起きない『春の庭』には無数の時間がひしめきあっている。西の言葉を借りれば、庭は「自分の意志とは関係なく生きているものが存在する」場所なのである。庭とはつまり世界だ。そこには文字通り「わたし」の知らない世界が広がっているだろう。柴崎友香の小説はその手触りを鮮やかに描き出す。世界はそこにたしかにある。

移人称/演劇/鳥公園(In-vention第3号、2015年2月)

文芸評論家・渡部直己は「今日の「純粋小説」——『日本小説技術史』補遺」(新潮2014年10月号)を「移人称小説の群れ」と題した節からはじめている。渡部は小野正嗣『森のはずれで』(〇六年)、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(〇七年)、奥泉光『神器』(〇九年)、青木淳悟『このあいだ東京でね』(〇九年)、磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』(一一年)、柴崎友香『わたしがいなかった街で』(一二年)、松田青子『スタッキング可能』(一三年)、藤野可織『爪と目』(一三年)、保坂和志『未明の闘争』(一三年)と作品を挙げながら、「三人称多元小説における通常の焦点(≒視点)移動が、作中で三人称を与えられた複数の人物間に講じられるのにたいし、上記諸作にあっては、語りの焦点が、一人称と三人称とのあいだを移動し往復する点」にその特異性があると指摘する。渡部はさらに、「いわゆる『枠』小説や『考証体』小説における報告者(一人称)と当事者(三人称)の関係」や「『内的独白』にみる(同一人物に与えられた三人称から一人称への)転称性など」、「もとより、ひとつの作品のなかに、二種類の人称性が併存する事例は、昔もいまも少なからず存在する」としながらも、「上記諸作にあって、一人称と三人称は、同一次元の作中人物としてかかわりあい、あるいは、同じ話者の資格で、語りを引き継ぎ譲り渡すといった関係におかれる」と言い、その点で「併存型との区別」がなされる小説を特に移人称小説と呼ぶ。

日本の現代小説において明らかに一つの潮流をなす「移人称」は演劇と浅からぬ関係を持っている。岡田利規はもちろんチェルフィッチュとしての活動で国内外から高い評価を受けているし、松田青子はかつてヨーロッパ企画という劇団の役者であった。他にも、「ギッちょん」(一二年)、「砂漠ダンス」(一三年)、「コルバトントリ」(一三年)で芥川賞の候補となった山下澄人も劇団FICTIONを主宰し、その作品の多くが移人称小説と呼ばれ得る作家である。複数の移人称小説の書き手が演劇と何らかの形で関係を持っているわけだが、これはおそらく偶然ではない。移人称と演劇とは原理的に密接な関わりを持っているのだ。

佐々木敦は『新しい小説のために』「「小説」の上演」(群像2014年4・6・7月号)の中で、移人称という言葉こそ使っていないものの、岡田の演劇と小説を詳細に論じている。佐々木は『三月の5日間』をはじめとする岡田の演劇における方法意識を「一言でいうと、それは「話法」=ナラティヴの問題である」としたうえで次のように整理している。

岡田が舞台『三月の5日間』でやってのけたのは、まず第一に、従来は分かち難く(そして特に疑問に付されることもなく)結びついていた「アクター(=俳優)」と「キャラクター(=登場人物)」を切り離し、組み替え可能にしたこと、そして第二に「アクター」に「ナレーター(=話者)」という機能を付与したこと、もしくは「アクター」にあらかじめ潜在していた「ナレーター」としての属性を増幅してみせたこと、である。

複数の俳優が入れ替わり立ち替わり「誰かの話を語る私」と「私の話を語る誰か」をややこしく(だがややこしくはなく)循環/交換しながら展開してゆく『三月の5日間』は、演じられている、というよりも、物語られている、といった方が、実態に近い。「誰かの話を語る私」「私の話を語る誰か」から「誰か」と「私」を抜くことで得られる「〜の話を語る」という文型の行為こそ、そこで為されていることである。すなわち「ナラティヴ」の前景化。 

考えてみれば、岡田の試行は「演劇」の「原理」とも深くかかわっていると言える。自分自身ではない誰か、他人/別人、この世界に存在したことさえない虚構の人物を「演じる」ということは、その居もしない「誰か」の存在を前提/必須とする「物語」に、その「誰か」として代入されることに他ならないからである。この意味で「演じる」と「物語る」は、常に既に重なり合っている。(……)あらゆる「アクター」は、常に必ず幾分かは「ナレーター」でもあるのであって、ただ普段は、その厳然たる事実が、なんとなく省略/忘却されているのに過ぎない。『三月の5日間』は、このことを独特な仕方で曝け出してみせたのである。

 佐々木はそもそも岡田の小説を論じるために岡田の演劇を召喚してきたのであり、無理を承知で途中の議論を大幅に端折って言えば、岡田の小説の新しさは「現前しない「アクター」」の導入にあるというのがその結論なのだが、演劇について考える我々が立ち止まるべきは結論の直前に置かれた一節である。「結局のところ「演劇」には一人称しかない。それは「人称」という問題がないのと同じことである」。どういうことだろうか。この一節に先んじて佐々木は小説家・保坂和志による岡田の小説の分析を参照している。保坂は「舞台の上で役者がしゃべっているかぎり、一人称の語りから逃れることはできない」が、「ただしそれはまったく無理ではなくて、黒子のような進行役のようなナレーターのような役割の人間だったら、舞台上でしゃべってもその語りは一人称の語りでなく三人称の語りになりうる」、「しかし思えば同じ役者がしゃべるのでも進行役のような内容だったら三人称の語りと位置づけられうるというのも変な話で、私とか自我とかいうものはもっとフレキシブルなものと考えうるということをこれは示唆しているのではないか」(いずれも『小説、世界の奏でる音楽』)と思考を進め、佐々木はそれを「舞台で俳優が喋っている場合は、キャラクターとしての発話であれば一人称だし、ナレーターとしてであれば一見、三人称のように思える(が、それはむしろ「三人称を演じる一人称」と考える方がおそらくは正しい、ということもここでは触れられている)」と言い換える。なるほど、発せられる言葉に注目するかぎりにおいて、演劇の言葉はほとんど常に一人称の下に発せられている。

だが、この結論は実のところ容易に反転してしまう。つまり、演劇には三人称しかない(とも言える)。なぜなら、観客は常に、役者の発する言葉と舞台上の役者の存在をセットで受け取り、その言葉の背後に(=言表行為の主語として)役者が演じている役を(無意識に)補完しているからである。佐々木はハムレットを例に演劇の仕組みを次のように整理している。

(1)ハムレット「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」

(2)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」とハムレットは言った。

(3)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」とハムレットは言った、とシェイクスピアは書いた。

(4)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」

 

(1)は「戯曲」の記述である。だが、俳優によって発話される時、それは常に(2)を潜在させている。(2)は「小説」の文体といってもいいだろう。そしてそれは同時に(3)でもある。だが実際の舞台で発され/聞かれるのは(4)だけである。『三月の5日間』がやっているのは、いうなれば(4)に(そして(1)に)(2)を(更には(3)を)、それとわかるような形で導入することである。

だがそもそも演劇の観客は(4)を聞いて常に(2)として理解しているのであり、(2)が「「小説」の文体」であるならばそれはどうしたって三人称でしかない。複数の役者が言葉を発する舞台の全体を観る観客の立ち場からすれば、演劇には一人称しかないというよりはむしろ、演劇には三人称しかないと言った方がその理解の実情には即しているようにも思える。これは丁度、三人称で書かれた小説の背後にそれを語る一人称が潜在しているのと真逆の事態である。演劇で一人称の下に発せられる言葉は常に、観客によって無意識のうちに三人称に変換され受け取られている。そこでは舞台に立つ役者の身体こそが三人称の指標となっていることは言うまでもないだろう。小説において(あるいは語りにおいて)行為の主体を示す人称代名詞の代わりに、演劇の舞台上には役者の身体がある。ゆえに演劇には「「人称」という問題がない」。「移人称」を演劇との関わりから考察することは有効だとしても、それをそのまま演劇に持ち込むことはできないのである。

さらにもう一点、役者の存在は、それが人間の内面に関わるという点において小説と演劇との間に極めてクリティカルな違いを生み出している。小説では一人称であろうと三人称であろうとその権利の範囲内で登場人物の内面を描写することが可能であり、ゆえに内面の描写はときに人称の移行の指標となっている。そして小説の地の文に悲しいと書かれていれば、基本的にはそれは悲しいということを意味する他ない。だが演劇においてそのような形での内面描写は不可能なのだ。もちろん、登場人物に「悲しい」と言わせることは可能である。だが、役者の身体がそこに介在することで、「悲しい」という言葉の真偽は最終的なところで保留されることになる。私たち人間は、他の人間が何を考えているか知ることができないからだ。それどころか、演劇で発せられる「悲しい」という言葉は多くの場合において本質的には嘘であるとさえ言えるだろう。それが演劇である以上、そこで発せられる言葉は間違いなく演技だからだ。にも関わらず、ある人物が「悲しい」ということは、その巧拙はあれど、当たり前に演じられてしまう。そこに演劇の面白さがある。

さて、しかし小説と演劇との違いにも関わらず、ここ数年は演劇においても「移人称」的なものが一定の存在感を示している。チェルフィッチュ岡田利規の影響を直接に受け、「語りの演劇」とでも言うべき作風の中に「移人称」的な手法を取り入れているわっしょいハウス/犬飼勝哉。一人複数役と複数人一役を組み合わせ複数の物語のラインを交錯させてみせるThe end of company ジエン社/作者本介。鳥公園/西尾佳織もまた、『蒸発』(一三年)、『緑子の部屋』(一四年)、『空白の色はなにいろか?』(一四年)といった近作においてナレーションや役のスライドといった「移人称」的な手法を導入している。そこで追究されているのは演劇の、そして私たち人間の本質だ。

すでに確認したように、チェルフィッチュ岡田利規の演劇は「語り」というモードにおいて移人称と深い関わりを持っていた。移人称が一人称(≒ナレーター)と三人称(≒キャラクター)との往復によって成立する以上、それを演劇でやろうとするならば、「語り」という、演劇の上演において多くの場合は存在しないものと見なされている位相、つまりはナレーター(≒一人称)の位相を暴露し、さらにそこからキャラクター(≒三人称)とナレーター(≒一人称)の位相を行き来して見せる、という形をとることになる(もちろん、岡田の場合は演劇における試行を踏まえて小説が書かれたのであり、移人称を演劇に持ち込もうとしたわけではないのだが)。鳥公園/西尾佳織においても、まずは『蒸発』において「語り」のモードがはっきりと意識的に導入されることになるが、その様相はチェルフィッチュ/岡田のそれとは大きく異なっている。

『蒸発』の舞台に登場するのは森ちゃんと野津ちゃんというルームシェアをしているらしき二人の女性である。森ちゃんは双眼鏡を使って隣に住むひろきの部屋を覗いている。この作品は二人の会話に終始しつつ、その大部分がひろきの様子の実況やひろきについての妄想、あるいは野津ちゃんによる森ちゃんの気持ちの代弁(めいた想像によるアテレコ)といった、大きく括ればナレーションとでも言うべきものから成り立っている点に大きな特徴がある。もちろん、森ちゃんと野津ちゃんとの普通の会話もないわけではないのだが、そこから得られる情報量よりも「ナレーション」から得られる情報量の方が圧倒的に多い。つまり、一人称=自分のこととして発せられる言葉よりも三人称=他人のこととして発せられる言葉の方が多いのである。実際のところ、その真偽はともかくとして、この作品で最も多くの(圧倒的に多くの)情報が提示されるのは、舞台上には姿を見せないひろきについての事柄なのだ。森ちゃんがひろきを覗きながらその様子を実況し、ときに野津ちゃんも加わりながらその気持ちや過去についての妄想(?)を繰り広げる。野津ちゃんはその妄想に乗ってみせながらも、隣人の男を覗く森ちゃんを揶揄するかのように、彼女の気持ちを勝手に代弁(?)してみせたりもする。結果として、最初から最後まで舞台上にいるにも関わらず、野津ちゃんはどんな人物かほとんどわからないままに作品は終わっていく。いや、よくよく考えれば、森ちゃんだってどんな人物かほとんどわからないままなのだ。野津ちゃんによる森ちゃんの気持ちの代弁は真実を述べているとは限らず(森ちゃん自身は「考えてないよ」と野津ちゃんの代弁を否定する)、森ちゃんが自身について語る言葉はほとんどない。舞台上には存在しない=三人称で語られるひろきについての言葉だけが作品を埋めている。

『蒸発』は台詞の多くが自分以外のことを語るナレーションによって構成されているという点で特異な作品であり、そのことによって舞台上に存在している人物は輪郭が定まらず、一方で舞台上には存在しない人物こそが濃厚な存在感を獲得しているというコントラストにこの作品の面白さはあった。だがこのような事態は程度の差こそあれ、実のところほとんどあらゆる演劇の上演に生じている。『蒸発』は「語り」のモードの導入によってそのことを改めて曝け出したに過ぎない。

すでに指摘したように、演劇の上演を見る観客は、例えば「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」という台詞が役者によって発せられるのを聞くとき、「とハムレットは言った」という三人称の主語を無意識に補うことで、上演される「物語」を成立させている。その意味で、「演劇には三人称しかない」のであった。だがこのとき、一人称の背後に補われる三人称のさらにその背後には、やはり何らかの一人称が潜在している。それは一方で「物語」全体の「作者」であり、また一方ではその言葉を発している役者自身である。『蒸発』はあからさまな三人称によるナレーションを導入することで、そこで語られないものを逆説的に浮かび上がらせてみせたが、そもそも演劇の台詞は基本的には三人称のナレーションを補完する形で受け取られるのであり、結果として、役者自身の存在は語られず舞台から消去されている(ことになっている)。現実には存在しない人物(たとえばハムレット)を存在させるための想像力は、一方で目の前にたしかに存在しているはずの人物(=役者自身)を「殺して」しまうのである。

『蒸発』で試みられたこのような手法は『緑子の部屋』でさらに突き詰められることになる。タイトルに示されているように、この作品の中心に置かれているのは緑子という女性なのだが、彼女はすでに亡くなっている。作品の冒頭に置かれているのは、緑子が亡くなったあと、昔の恋人である大熊と、中学高校時代の(大して仲の良くない)同級生の井尾が緑子の兄によって形見分け(?)のために呼び出され一堂に会するという場面だ。緑子はそこで語られるだけの存在、文字通りの不在の中心としてある。

ところが、緑子は不在のままでいるわけではない。思い出話=語りの中で時系列の入り乱れるこの作品では、いつしか場面は過去に移り、たとえば大熊と緑子とが同棲をはじめたときのことなどが演じられる。そこでは井尾を演じていた役者(武井翔子)が緑子を演じることになり、緑子は舞台上に「姿を現わす」ことになる。

『緑子の部屋』のチラシにはこうある。 

説明                ある日、緑子がいなくなりました。

緑子の友人、恋人、兄が集ってそれぞれに、自分と緑子の話、自分から見て「お兄さんと緑子はこう見えてた」、「彼氏と緑子はこう見えてた」、「友達と緑子はこう見えてた」、「え、そんなこと言われたくないんだけど」、「や、でも緑子からはそう聞いてたし」、「ていうかお兄さんってサー」・・・・・・。

 

話すほど、遠のきます。

緑子の不在、ポッカーン。

不在となる/であるのは実のところ緑子だけでなく、たとえば緑子と大熊が同棲をはじめる場面ではその場にはいない兄のことが話題に上がる。その時点で大熊は緑子の兄とは面識がないため、大熊にとっての「緑子の兄像」は兄不在のままに、緑子の話によってのみ作り上げられていく。不在は想像によって埋められていく。

『緑子の部屋』のラストに置かれている絵画に関するエピソードには「ツギハギだらけ」の「フランケン女」が登場する。

絵の中心でこっちを見てるこの女。(……)画面のど真ん中でこっちを見てますけど、この人もツギハギです。パッと見、普通の女の人みたいに見えるけど、よく見ると、色んなパーツの寄せ集めで出来てるのが分かります。色んな雑誌のモデルたちの顔を切り刻んではまたくっつけて、一人の顔にコラージュしてる。フランケンシュタインみたい。

街の中には、フランケン女以外にも人がいて、でもフランケン女以外の人たちはコラージュされてなくて、全身丸々一人の人間です。この人も、この人も、街が薄っぺらいことにも、気付いていないみたい。でも本当は。環境が薄っぺらのツギハギになれば、人間もそうなるのが「自然」なんじゃないでしょうか?

 大熊、井尾、兄それぞれが抱く緑子のイメージ。それらを受け入れ統合するはずの生身の緑子という存在は消え、バラバラのイメージがバラバラのままに残される。いや、そもそも他人はどこまでいってもバラバラのイメージの集合でしかなく、唯一肉体の存在がその一個性を担保しているに過ぎない。

しかも、一個性を担保するはずの肉体は、その不透明性ゆえに事態をさらに厄介なものにしてしまう。肉体によって担保される一個性、その肉体の持ち主にとっての自我や意識は、他の人間には見ることができない。たしかにそこに肉体が存在し、そこに一人の人間が存在してい(るように見え)ても、その内実は常に不可知であり、その意味で、彼(女)は常に不在なのだ。

「役者に内面はいらない」と言う平田オリザの現代口語演劇では、この「見えないものは見えない」という端的な事実が積極的に利用され、言わば空っぽの器に観客自らが感情を読み込み充填するように誘導される。だが言うまでもなく、器は空ではあり得ない。ロボットやアンドロイドによる演劇であればともかく、生身の役者によって演じられる演劇では、そこに役者自身の意識が必ず存在している。演劇は大なり小なりそこに目隠しをすることで成り立っている。翻って考えてみれば、私たちの日常におけるコミュニケーションもまた、かろうじてそのようにして成立しているに過ぎない。「他人の気持ちを考える」と言うが、いくら考えても私たちは「他人の気持ちを知る」ことはできない。

『緑子の部屋』のラストで、大熊は自分に話しかける井尾のことを緑子として扱ってしまう。当然会話は噛み合ないのだが、このとき、「おかしい」のは誰なのだろうか。大熊が井尾のことを緑子だと思い込んでいるのか、それとも緑子が自らのことを井尾だと思い込んでいるのか。話の流れからすると大熊と話しているのは井尾であるとするのが妥当であるようにも思えるが、彼女がどちらであるのか、観客は判断に迷うことになる。なぜならそこに立っている女は、井尾と緑子の両方を演じていた役者=武井翔子だからである。彼女は井尾か、それとも緑子か。一方を選べばもう一方は姿を消す。いずれにせよそこに武井は「いない」。あるいは逆に、彼女がどちらであるとも言えないがゆえに、そこにいない(ことになっている)はずの武井という女の存在だけが浮かび上がるのだろうか。彼女たちの「存在/不在」は観客の「目」に委ねられているように思われる。

見えないものを存在しないものとして見る、あるいは、見ないことで存在しないものとして見る。それはある種の権力を孕んだ視線であり、西尾はそれをときに直接的な言葉で糾弾する。

今日あった肉体が次の日に消えることはないので、昨日のホームレスは今日消えない。でもある日、公園のベンチに仕切りが出来る。公園のベンチで眠ることを考えたことのない人は、その仕切りの意味を考えない。そうして知らないうちにホームレスを見なくなる。見えないものは、居ないのと同じだから、安心快適である。問題がない。その人はその安心さ、快適さに気付かない。見えすぎると壊れてしまうから、見ずに済んでよかった。そして壊れなかった分また今日も元気に、がんばりましょう。がんばりましょう。

西尾が撃つのは演劇の倫理であり、観客の倫理だ。視線の向きは容易に反転する。見る側もまた、いつでも見られる側/見られない側へと転落し得るのである。演劇の観客は第四の壁に隔てられ、安全で安心な客席の暗闇に身を潜めている。同時にこのとき観客は、舞台上で展開される虚構の世界からははじき出されている。観客もまたそこには存在しないものとして扱われ=無視され、そのことを無自覚に受け入れている。

『緑子の部屋』のラストシーンにおいて、観客はそこに立つのが井尾であるのか緑子であるのかを知ることができない。彼女たちの「存在/不在」を決定する権利を有するかにも見えた観客は、実のところ「事実」から疎外されているに過ぎない。ラストシーンの寄る辺なさは、そこにいるのに見てもらえない井尾の寄る辺なさであり、同時に、世界から疎外された観客の寄る辺なさでもある。観客はその寄る辺なさを受け入れながら問い続けるしかないのだ。「空白の色はなにいろか?」と。