間瀬元朗『デモクラティア』1・2

 民意、あるいは世論とはいったい何だろうか。それは個々人の意見の集積でありながら、そうであるがゆえにどの個人の意見とも完全には一致しない。だがもし民意を体現する「個人」が存在したら?それは「人間よりも人間的に正しい」「究極の“ニンゲン”」なのではないか?

 物語は二人の男が出会うことで動き出す。情報通信工学専攻の前沢とロボット工学専攻の井熊。前沢は特殊な多数決プログラムを開発していた。単に最多数の案を採用するのではなく、提出された案の中から上位のもの(=多数意見)を三つと、逆に一人しか提出しなかった案(=単一意見)の中で提出の早かったものを二つの合計五つを並べ、その中から最終的に採用する案を多数決で決定するというプログラムだ。単一意見の中には「常識や前例にとらわれずに出てくる考え」や「“ひらめき”」があり、それらに採用の可能性を残すことで「より重層的な“多数決”が効率的に進められる」のだと言う。飲み会で前沢の話を聞いた井熊は、そのプログラムを自らの研究室で開発している人型=ヒューマノイドに搭載することを提案する。「不特定多数の人間が、ネットを介して総動員した無尽蔵の“知識”と“経験”と“モラル”」「それらをもとに“多数決”で最適な行動だけが選び抜かれ、そのとおりに動くヒトガタ」、それは「いつの日かその社会の中で、誰もが規範とする指導者的立場にさえのし上がってしまうかもしれない」という井熊の語りに魅せられた前沢は「究極の“ニンゲン”」創りに一歩を踏み出す。

 徳永舞と名付けられたヒトガタはデモクラティアというアプリを通じて3000人の参加者によってその行動を決定される。2巻までの1stシーズンで描かれるのは、デモクラティアが立ち上がり、参加者たちが舞の操作方法を学習し、そして外の世界へと出て行く、いわば舞と外の世界とのファーストコンタクトの顛末だ。参加者たちはデモクラティアに習熟するにつれ、徐々に自主的に行動するようになり、彼らの態度の変化はそのまま舞の「成長」としてアウトプットされる。そして舞は一人の青年・瀬野と出会う。

 貯め込んだ鬱屈を掲示板への書き込みで晴らそうとするオタクで派遣社員で「負け犬」の男・瀬野。現実がうまくいかない瀬野にとって、自分が立てたスレへの書き込みとその反響だけが自分の存在を保証してくれるものであった。だが、「この世は、リアルカーストだな」「勝ち組は全員処刑しろ」という彼の書き込みはネット上ではよくある類のものであり、それは個人の存在の保証にはなり得ない。デモクラティアの参加者たちにとっても、瀬野はネットの向こうにいる顔を持たない人物に過ぎなかっただろう。舞を通しての交流がなかったならば。

 舞と瀬野との交流は、デモクラティアの参加者たちが見知らぬ他人への想像力を獲得、いや、再起動させていくプロセスとしてある。デモクラティア上では舞の居場所や周辺情報を特定されないための方策として、固有名詞は現実にはあり得ない名前へと変換され、舞の目に映る視覚情報もまた画像処理が施されている。参加者同士はハンドルネームで交流する。顔は奪われているのだ。だが、顔を持たない人間など存在しない。デモクラティアの参加者たちは、舞との交流を介して瀬野という一人の人間のことを真剣に考えるようになっていく。

 顔を(再)獲得していくのはデモクラティア参加者にとっての瀬野だけではない。「民意の可視化」というアイディアはたとえば東浩紀の「一般意志2.0」を思わせるが、『デモクラティア』は民意という「声なき声」に舞という具体的な姿形=顔を与えることによって優れたドラマを生み出した。舞という実体を持つ「民意」は他の人間と接触し、直接に影響を与える。それは翻ってデモクラティアの参加者たちにも影響を与え、彼らを変えていくことになる。単一意見の採用というシステムもデモクラティアの参加者と舞の行動、そしてそれが引き起こす結果との結びつきを強めている。「民意」は、それがいかに不本意なものであったとしても、個人と、いや、私たちと無関係ではあり得ない。私たちにその実感はなくとも、何らかの具体的な結果をもたらし、誰かに直接的な影響を与えている。舞は私たちが手放してしまった民主主義の責任を実感するためのインターフェイスだ。

 2巻のラストで舞はある事件を起こし、より広い世界へと踏み出す。これから問われることになるのはおそらく、「民意」の罪だ。「民意」の罪は誰が引き受け、誰が罰を受けるのか。今の日本でこの問いはあまりに重い。