contact Gonzo『xapaxnannan:私たちの未来のスポーツ』

contact Gonzoの新作は京都サンガF.C.の本拠地でもある西京極スタジアムで「上演」された。2万人収容の巨大スタジアムで「上演」された作品のタイトルは『xapaxnannan(ザパックスナンナン):私たちの未来のスポーツ』(以下『xapax』)。ゴンゾのメンバー+αの計11名が造形作家・曽田朋子によって作られたザパックスと呼ばれるオブジェを奪い合う、ラグビーにも似たオリジナルの「スポーツ」(以下ザパックスナンナン)に興じる。競技はサッカーのフィールドをいっぱいに使って行なわれ、観客はその長辺に面する観客席からそれを眺める。観客とサッカーフィールドとの間にはインストゥルメンタルバンド・にせんねんもんだいがフィールドの側を向いてバンドセットを構えている。

開場するとフィールドにはすでにザパックスを頭に被ったプレイヤーが1人うろうろしている。スピーカーからは「そこには芋虫がいました」「マキちゃんはそのとき夕飯のことを考えていました」というような内容(正確ではない)の女性の言葉がぽつりぽつりと聞こえてくる。やがて時間になると残りのプレイヤーたちが姿を現わし、フィールドに散らばると思い思いにウォーミングアップをはじめる。遅れてにせんねんもんだいが登場し演奏をはじめると競技開始。

ザパックスを被ったプレイヤーがセンターマークに立ち、他のプレイヤーたちがセンターサークル上に並び中心のプレイヤーを見る形でそれを取り囲む。やがて1人のプレイヤーがその場で180度反転すると、中心のプレイヤーに後ろ歩きで近づいていく。ギリギリまで近づいたところでザパックスを奪い取るとプレイ開始となる。ザパックスを奪ったプレイヤーはその場でジャンプしてから走りはじめ、他のプレイヤーも全員が一度ジャンプしてからザパックスを持つプレイヤーを追いはじめる。ザパックスを持つ一人を残りのプレイヤーが追いかけ回す、というのがザパックスナンナンの基本ルールのようである。

ようである、と書いたのは、ザパックスナンナンのルールの詳細は最初から最後まで観客には伏せられているからである。ザパックスを追いかけ回すという全体の枠組みは競技がはじまってすぐにわかるものの、その他にも細かなルールが設定されているらしきことは競技を見ていれば明らかであり、しかしその詳細はプレイヤーの動きを注視し、そこから読み取るしかない。 

枠組みとしては明らかにある種のスポーツ(サッカーやラグビー)を模しているため、開演するとすぐに、観客は目の前で展開されるものをスポーツとして見ようとしはじめる。だが、そこで行なわれているのは観客にとって未知の「スポーツ」である。この未知と既知のバランス、未知のものであるにも関わらず、まずはそれをスポーツとして見ることができるということはこの作品の重要なポイントだろう。観客がそれをある種のスポーツとして見ようとするということは、何らかの基準(ルール、目的)に照らしてプレイの「成否」や「巧拙」を見ようとするということである。ザパックスナンナンではザパックスの奪い合いがその基準となるだろう。ところが、ザパックスナンナンをスポーツとして見ようとする観客のモードは、いくつかの理由で大なり小なり揺さぶりをかけられることになる。

ザパックスナンナンをスポーツとして見ることにいささかのためらいを覚えざるを得ない一つの理由は、メインの枠組みとなっているであろうザパックスの奪い合いが、一方でどこにも着地しない=最終的な目的を設定されていないように見えるからである。ザパックスを持つプレイヤーは他のプレイヤーから逃げるものの、目指すべきゴールが設定されているわけではなく、ひたすらに逃げ続けるだけである。その意味では鬼ごっこなどの遊戯に似ているようにも思えるが、そのプレイヤーが倒されたとして、次にザパックスを持つことになるのは任意の別のプレイヤーであり、1回のプレイと次のプレイとの間に連続性があるようには見えない。ザパックスナンナンは鬼が次々とバトンタッチされていく鬼ごっこ的な枠組みからもズラされている。

さらに、プレイヤーたちの動きが「ザパックスを奪い合う」という枠組みからしばしば逸脱するように見えることも、「ザパックスナンナンはスポーツである」という認識に揺さぶりをかける。およそあらゆるスポーツにおいて「ルール」は競技全体を「合理的」なものにするために存在している。一見したところ競技の進行を阻害するように思えるルール(たとえばサッカーにおけるオフサイド)さえ、全体として見ればゲームバランスを整える機能を持っていると言えるだろう。ところが、ザパックスナンナンのプレイヤーはあまりに頻繁に、プレイの進行とは関係のない行動を取っているように見える。このことが、「未知のスポーツ」に対峙する観客の注意をプレイのみならずルールそのものへも向けることになる。もちろん、ザパックスナンナンが観客にとって未知の「スポーツ」である以上、それを見る観客の意識は多少なりともルールへと向けられるだろう。だが、プレイヤーの不合理な動きによって、「未知のルール」が存在していることがあからさまに示されることで、観客はより一層、それがどのようなルールなのかを考えながらプレイを見るように誘われるのである。 

プレイヤーの動きから筆者が読み取ることのできたルールは以下の通りである。

基本ルール

・ザパックスを持つプレイヤーは他の全てのプレイヤーから追われる。

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたら1プレイが終了する。

・1プレイが終了した時点で全てのプレイヤーはその場所に留まり、ザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点の方向を向く。次のプレイはザパックスを持つプレイヤーが倒れた地点からはじまる。プレイ再開は以下の手順で行なわれる。

・倒れたプレイヤーはその場で仰向けに寝、ザパックスを顔面に被せられ、別の一人のプレイヤーが上に乗った状態で声を発する(この声はスピーカーを通して増幅される)。声を発している間、上に乗るプレイヤーは黒い布を上に掲げることでそれを他のプレイヤーへと知らせる。他のプレイヤーたちは合図が出ている間、声を発しているプレイヤーから後ろ歩きで遠ざかる。声は複数回に分けて発してもよい(?)。

・声出しが終わったら任意の1人のプレイヤーが後ろ歩きでザパックスへ近づき、ザパックスを持ったらその場でジャンプをしてプレイは再開となる。他のプレイヤーも同じくジャンプをしてからプレイを再開する。

・ザパックスがいずれのプレイヤーにも触れていない状態に置かれた場合、最初にザパックスに触れたプレイヤーがザパックスを持つプレイヤーとなる。

 

ザパックスを持つプレイヤーに関する追加ルール

・プレイヤーはザパックスを腕・頭・脚・顔の任意の箇所に付けることができる。

・プレイヤーがザパックスを腕(あるいは頭?)に付けている場合、通常のルールに乗っ取ってプレイは行なわれる。

・プレイヤーがザパックスを脚に付けた場合、ザパックスを付けたプレイヤーは他の一人のプレイヤーを指定する。ザパックスを付けたプレイヤーは指定したプレイヤーを抜き去ることを目指してプレイする。このとき、他のプレイヤーはその場に留まらなければならない。ザパックスを付けたプレイヤーが相手のプレイヤーを抜き去ると通常のプレイが再開される。

・プレイヤーがザパックスを顔に付けた場合、他のすべてのプレイヤーはフィールドに横たわり、ゴロゴロと転がりながらザパックスを付けたプレイヤーから遠ざかる。ザパックスを付けたプレイヤーは任意のプレイヤーに近づき、その顔にザパックスを被せ、そのプレイは終了となる。プレイの再開は通常の手順に乗っ取って行なわれる。このとき、ザパックスを被せられたプレイヤーを倒れたプレイヤーと見なす。

・ザパックスを持ったプレイヤーがうずくまった場合、他の全てのプレイヤーはザパックスに向かって横一列に並び「壁」を作る(この後どうするんだったかどうしても思い出せず……)

 

ザパックスを持たないプレイヤーに関する追加ルール

・任意の(特定の?)プレイヤーが「腕回し」「前転」「ジャンプ」を行なった場合、ザパックスを持つプレイヤー以外の全てのプレイヤーはそれを真似る。動作を最初に行なうプレイヤーは同時に「はっ」と声を発する。

・ザパックスを持たないプレイヤーはその場でしゃがみこむことでプレイから離脱することができる。プレイから離脱したプレイヤーは他のプレイヤーからの接触があるまでその場から動くことはできない。

 

何らかのルールが存在しているようだが不明なもの

・ザパックスを持つプレイヤーが倒れたとき、他の全てのプレイヤーがそのうえにうつ伏せに覆い被さり山を作ることがある

このように列挙してみれば明らかなように、上で「追加ルール」としたもののほとんどは、「基本ルール」によって設定された「ザパックスの奪い合い」という枠組みと衝突するものである。「ザパックスを持つプレイヤー」の基本的な役割は他のプレイヤーから逃げることだが、ザパックスを付ける箇所によってその役割はほとんど逆転し、自らザパックスを他のプレイヤーに渡すことさえある。「ザパックスを持たないプレイヤー」に課せられた基本の役割はザパックスを持つプレイヤーを追うことだが、「追加ルール」で定められた各プレイヤーが任意で行なうことのできる行為はどれも、「ザパックスを持つプレイヤーを追う」という基本の役割を自ら疎外するものとしかなり得ない。そして、重要なことは、にも関わらず、各プレイヤーはこれらの行為を積極的に取り入れながらプレイに興じるのである。

ルールの細部はザパックスナンナンが明確なゴール=目的を持たぬ「競技」であることを明らかにし、それはスポーツというよりは遊戯や祭事、儀礼のように見えてくる。「競技」がチーム対抗の形ではなく、ザパックスを持つ人間だけが特別である1対多数の形をとっていることもこのような見え方に影響しているだろう。

音楽の存在はまた異なる方向から認識の枠組みに揺さぶりをかける。にせんねんもんだいの演奏をバックに、特定のルールに基づいた動きを見せるプレイヤーたちの姿は、音楽や振付に従って動くダンサーを思わせる。さらに、開場時から行なわれ、プレイ開始後も続く女性のアナウンス=ナレーションは、にせんねんもんだいの演奏と合わさることで、ある種のボーカルのように響く。プレイがはじまってすぐに明らかになることは、このナレーターもまた、ザパックスナンナンのプレイヤーの一人であるということである。プレイする彼女の息は上がり、淡々と発せられていた言葉は徐々に吐息まじりとなる。ときには他のプレイヤーの声や接触音、ぶつかったときの呻き声なども聞こえてくる。ここで観客の視覚と聴覚とが接続される。複数のルールに基づいて展開されるプレイヤーたちの動きは、視覚情報としてだけでなく聴覚情報としても観客にフィードバックされるのである。彼女の存在は複数の「プレイ」の境界を溶かしていく。

にせんねんもんだいが演奏を終え、退場していった後もプレイは続く。やがてスピーカーからはエンジンのアイドリング音らしきものが聞こえてくる。時を同じくしてザパックスを持った一人のプレイヤーが倒される。ゲームの間、途切れることなく続いていたナレーションが最後に告げるのは「このときマサくんの額には傷口が開き、ザクロのような真っ赤な粒々が覗いていました」「やがてこのスタジアムにはヘリコプターが到着することになります」「マサくんはヘリの中で緊急手術を受け、脳内に電子チップを埋め込まれてサイボーグとなりました」「マサくんはその後、伝説のザパックスプレイヤーとして百年間活躍し続けることになります」云々といった荒唐無稽な内容であり、観客はここで突如としてあからさまなフィクションの中に放り込まれるのである。そして作品はそのまま終わっていく。

ナレーションの内容はそもそものはじめからプレイの解説でなかった。彼女はプレイをしている人物のその日の行動やその瞬間の気持ちを述べ三人称で述べ、しかも真偽の判定の難しい、というよりはほとんど思いつきで言葉を発しているのではないかとさえ思わせる内容も多い。かなりの数の観客はゲームとは直接関係ないものとしてアナウンスを聞き流すようになっていただろう。ところが、最後の最後でアナウンスとフィールド上の出来事が(荒唐無稽とは言え)一致してしまう。この、あまりに荒唐無稽な、あからさまにフィクションでしかあり得ないナレーションが観客に引き起こすのは、それまでの即興的に見えていたプレイの全てが(あるいはいくらかの部分が)、台本通りのプレイ、つまりは演劇だったのではないかという疑惑だろう。ザパックスナンナンはそのラストでもう一つの「プレイ」、演劇的な様相を(あるいはその可能性を)曝け出す。

特定のルールの下で身体を動かすという意味において、今作はトヨタコレオグラフィーアワードで上演された「訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作」(以下「001」)の発展形と見ることもできるだろう。「001」もまた評価するには「『新しい振付の定義』を問い直す必要がある」*1作品と評されたが、『xapax』は複数のルールの(無)関係性が観客の認識の枠組みに揺さぶりをかけ、ジャンルそのものを問い直すという点において、名実ともに「001」をスケールアップした作品としてある。

「私たちの未来のスポーツ」という今作の副題とは裏腹に、展開されたザパックスナンナンはその起源、原初の形態である祭礼へと還ったかのような様相を呈していた。「上演」に寄り添うナレーションもまた、それが昔の出来事(=神話?)であるかのように語るのであった(「ハーフタイム」にはそれまでのプレイをプレイヤーたち自身が振り返るツアーが行なわれていた)。「未来のスポーツ」の可能性は進化の過程で切り捨てられた過去にあるということだろうか。あるいは、xapaxがモンゴル語で「観る」を意味する言葉であるというcontact Gonzoの発言を勘案するならば、「未来のスポーツ」はそれを観る観客にこそ関わるもの、上演と観客の間にこそ生じるものなのかもしれない。contact Gonzoは観客にもルールと戯れ、それを踏み越えることを求めている。

*1:ダンスを作るプラットフォームBONUSにおける愛知県芸術劇場シニアプロデューサー唐津絵理へのインタビューより

オオルタイチ+金氏徹平+西川文章「ミュージックのユーレイ」

金氏徹平『四角い液体、メタリックなメモリー』展示空間でのイベント第2弾は音楽ライブ。
幽霊の衣装でオオルタイチが登場すると、金氏徹平の展示物のアクリルボードで作られたブースに入りお経(?)を唱える。お経が終わるとアクリルボードに油性マジックで線を書きはじめるのだが、アクリルボードには集音マイクが設置されており、書く際に生じる「キュー」「トン」という音が増幅され会場に流される(金氏の作品自体、もともとアクリルボードにマジックなどで線を引いたものである)。しばらく線を引いた幽霊はボックスから出て展示会場をフラフラと徘徊する。幽霊が展示物に触れると様々な音が鳴る(そういう仕掛けになっていたわけではなくて、リアルタイムでSEとして流してたっぽい)。展示物の一つから金氏の声が聞こえてくるが何を聞いても「ユーレイ」としか答えない。
f:id:yamakenta:20141012101555j:plain
繰り返される「ユーレイ」という言葉はやがて「ユーレイ」コールとなって会場を包む。衝立ての後ろに姿を消したオオルタイチが再び姿を現わすと、その姿は雷神(?)へと変化していた。「今晩は!俵屋宗達です!」とライブははじまる。
f:id:yamakenta:20141012101536j:plain
↑扇風機で雷神(?)に風を送る金氏さん。雷神(?)の衣装は快快藤谷香子作。
f:id:yamakenta:20141012101443j:plain
ラストはアコギで沢田研二。手前で金氏がボードにラインを追加し、その「キュ〜、トン」という音は遠い花火のように響く。
f:id:yamakenta:20141012101345j:plain
展示のお題として与えられているはずの「琳派」とどう関係しているのかは正直よくわからなかったけど(音楽のミックスが模倣と継承ってことだろうか)、ライブとしては最高だった。

ルイス・ガレー『メンタルアクティヴィティ』

ところどころが液体で濡れ、黒のペンキらしきもので汚れた板敷きの舞台。舞台奥には三基の照明が立ち、強烈な光を客席に向けて発している。客席の明かりが落ちてしばらくすると、光の向こう側から何かが飛んでくる。ベルト、ペットボトル、コンクリートブロック、ペンダント、木片、タイヤなどなど……。共通点は見えないが総称すればゴミ、あるいはがらくたと呼べるようなモノたち。はじめのうちは一つずつ散発的に、しかし徐々にスピードを上げやがては次から次へと飛んでくる。がらくたが舞台を埋め尽くすと四人のダンサーが登場し、がらくたの上を倒れ込みそうになりながら(ときに倒れ込みながら)歩く。一人ずつ、二人ずつ、三人で、そして四人で一塊となって。四人が再びバラバラになると、一人のダンサーが地面に這いつくばり、丸太を頭で押しはじめる。他のダンサーたちはそれを眺めているが、やがてそれぞれもまた、がらくたの中から一つのモノをそれぞれに選び出し、それらと対峙する。筒状のモノを立て、ペットボトルを移動させ、何か中身がぎっしりと詰まった袋を口に咥える。全ての動作は極端にゆっくりだ。ときにダンサーは自らの対峙するモノをジッと見つめ、その表情を変化させていく。

それぞれがそれぞれにいくつかのモノと対峙していくが、不意に一人のダンサーがコンクリートブロックに鎖が結びつけられたものを舞台奥から持ち出してくる。鎖を持ったダンサーはそのまま舞台の中心でぐるぐると回りはじめ、コンクリートブロックが円を描く。その周囲をゆっくりと歩くまた別のダンサー。指先に引っかけたネックレスをくるくると回している。コンクリートブロックが舞台上に立てられていた筒にあたりそれを弾き飛ばす。やがて舞台上の全てのものが静止すると暗転。しばしの間ののち再び照明が点くと、舞台上のモノたちだけが光を浴びている。

 

冒頭のモノが飛んでくる場面はよかったけどそれ以外は……(先週観た『マネリエス』も最初のうちだけよかったのであった)。「『科学とは純粋な詩であり、逆に精神のはたらきは極めて物質的なものだ』という自身の仮説を舞台上で実証する意欲作」とのことだけど、モノと身体の関わりという点では梅田哲也とかcontact Gonzoとかの方がよっぽど刺激的なのでは。

ダンサーがあぐらをかいて自分の前に立てた丸太や筒を見つめる場面なんてあまりにも安易に見える。『メンタルアクティヴィティ』ってタイトルでしかもそれを日本でやるって。禅か。

劇団子供鉅人『逐電100W・ロード100Mile(ヴァージン)』

シェイクスピアマクベス』で国外へと放逐された二人の王子に焦点をあてた言わばマクベス・スピンオフ作品。『マクベス』をネタにやりたい放題かと思いきや、なかなかどうしてシェイクスピアを引き受けようとしていて好感。特に修辞を凝らしたセリフの応酬はこれぞシェイクスピア!といった感じで耳にも心地いい。役者は総じて魅力的で全体の完成度も高し。東京引っ越し一発目のご挨拶としてはちょっと上品過ぎやしないかいとも思わなくもないけれど、それはもちろん劇団の新たな一面を見せている作品だってことと裏表なのであって。

客席が舞台上にコの字型に設営されててコの字の縦線の部分が本来の客席に向かい合ってるんだけど、この配置はあんまり意味がなかったような……?本来の客席と舞台の配置で今回の演目を見たら役者と観客との距離が遠過ぎて作品の魅力はおそらく半減なのだけど、客席と舞台を近づけるためだけにあの配置にしたのだとしたらそれはどうなんだっていう。客席に向かい合うことにあんまり意味はなくて、舞台の向こうに空間的な広がりが欲しかったってことかしらん。

藤田貴大演出『小指の思い出』

難解、台詞が聞こえないとの前評判に怖れをなしていたがそんなことは全然なく。台詞はほぼほぼ聴き取れたし、演出や構成に関しては野田秀樹の戯曲をきちんと整理してわかりやすく提示していたように思う。特にいくつかの場面を冒頭に寄せてプロローグの形で複数の筋を整理して見せたのは親切。野田版では野田が一人で演じてた役を飴屋/青柳の二人一役に分割したのも、そもそも野田が二重人格のような二人一役を一人で演じていたことを考えれば、十分にあり得るしわかりやすい演出。飴屋/青柳の二人羽織で二人が同一人物であることもはっきり示されてたし。「三月」の名を引き受ける圭一郎の台詞がラストに置かれていることを考えれば、聖子/八月を二人に分割することで聖子・八月・三月と連なるラインをクリアに見せる意図もあったとも考えられる(代わりに野田版の連なる布団=凧のモチーフはほぼなくなってたけど)。

青柳いづみ演じる八月=聖子が火あぶりにされるラストまでたどり着くと、それまで観ていたものが死にゆく八月の/法蔵の走馬灯だったかのようにも感じられた。現実=生の最後の一瞬に広がる妄想の永遠。徐々にスピードを落としながらラストに向かう(ように思える)演出の効果だろう。永遠の静止=死へと向かう漸近線。

このあたりの演出はよかったと思う一方、この作品に音楽は必要だったのかとか(生演奏自体は非常に素晴らしかったのだけど、マームとジプシーのときみたいに音楽に乗せるような形で言葉を発しているわけではなく、逆に言葉を疎外している=言葉に集中できないように感じた)、特に若い俳優の言葉が全然入ってこないとか(その意味ではベテラン陣はさすがの貫禄)あって結果としてイマイチ作品には乗れず。やっぱ野田のエネルギッシュな演出で観たいなーって気分になってしまった。

She She Pop『春の祭典——She She Popとその母親たちによる』

ドイツの女性パフォーマンス集団She She Popはかつて、『リア王』をモチーフに自らの父親たちと『Testament』という作品を作り上げた(筆者は未見)。自らの母親たちとの共同作業による今作『春の祭典』はその続編とでも言うべき作品である。『春の祭典』をモチーフにした今作の主題は母と子、家族との関係の間で生じる「犠牲」だと言う。また、日本での滞在制作によって作られた本作は日本の社会状況や男女・親子関係などについてのリサーチを踏まえた作品でもある。前半は母と子の間で交わされる対話、後半はストラヴィンスキー春の祭典』の音楽に乗せたパフォーマンスの二部構成。

天井からはスクリーンの役割を果たす4枚のタペストリー吊り下げられており、「母親たち」はそこに映写される映像で「出演」する。
前半の対話では本音を晒すことは互いに強要せず、しかし比較的率直に思える言葉で母と子それぞれの払った「犠牲」や親子関係が語られる。後半のパフォーマンスは「犠牲」のモチーフが散りばめられた、全体的に儀式めいたものであった。母と子はときに互いに攻撃しあい、あるいはその立ち場を入れ替えるかのように見える。
 
それなりに完成度の高いパフォーマンスではあったのだけど、当日パンフなどで説明されていた以上のことがあったようには思えず、ラストで「観客も母親と自分との関係について話し合うべきです」みたいなことを言われて完全に引いてしまった。それは作品で言うべきことでは……。
 
対話の場面を見ていると母と子の対等な関係の構築が目指され、ある程度はそれに成功しているようにも思えるのだけど、そもそも映像と生身という「出演」の仕方の違いが大きな不均衡を生んでいることには注意が必要だろう。映像に閉じ込められた「母親たち」に反抗は許されておらず、それはかつて自らを縛り付けた「母親たち」への「子供たち」からの逆襲のようでもある。この不均衡は後半のパフォーマンスに特に顕著である。母と子が互いに攻撃し合う場面では、子からの攻撃は母(の映し出されるスクリーン)に届くが、スクリーンに映る母からの攻撃は決して子には届かない。
一方、舞台は当然のことながら録画された「母親たち」の映像にあわせて進行する。その意味では作品を真に支配しているのは「母親たち」であると言うこともできるだろう。いずれにせよ、関係はどこまでも不均衡なものでしかない。
もう一点、4人の出演者のうち1人が男性だったことも気になっている。スカートのような衣装だったのでジェンダーにフォーカスがあたるのかとも思ったのだけどそんなこともなく、見る限り他の女性出演者たちと同じ扱いだったのが不可解。
 
日本での滞在制作による作品で、しかも当日パンフによれば日本での上演しか予定されていないということだけど、その割にはドイツ語圏以外で上演することには対する意識が希薄なように感じた。後半は非言語パフォーマンスだったけど前半は完全にドイツ語による対話(+日本語字幕)のみで、その対話も特に面白いものでもなかった(新鮮味がないと言うか、いかにもと言うか。これはパフォーマンス全体に言えることだけれども。)ので特に前半は見ててなかなか厳しいものがあった。

KAIKA『gate #12』

劇団しようよの大原渉平ディレクターによる3団体×2プログラム、計6団体による試演会。KYOTO EXPERIMENT2014フリンジ企画オープンシアターエントリー作品。

各演目間の転換の5分でそれぞれの作・演出の話を聞くコーナーがあるのはよかった。

以下、ほとんど誉めてないので若手の試演会に対する言葉としては不適切やもしれん。

Aプログラム

ナントカ世代/京都『紙風船(作:岸田國士、演出:北島淳)

夫1人に対し6人の妻(メイン1人とその5人の分身)が登場する『紙風船』。男の不満が「大きくなる」のに対し、女の不満は「数が増える」という北島の実感に基づいた演出とのこと。夫が外出すると再び言い出すところで妻がまた1人増える。「紙風船文様」のおかげで『紙風船』は何度も見てるから評価が辛くなってるかもしれないけど、この演出は作品から引き出されたものとは思えなかったし、作品に秘められた可能性を引き出したり別の可能性を与えたりするものでもなかったような。複数の妻がギャグというか茶化しめいたことをちょこちょこするのがうるさい。主演の2人(夫・金田一央紀と妻は誰かわからん)がそれなりにうまいだけに、普通にやった方が面白いんじゃないかと思う。メイン2人の衣装は時代がかってるのに夫はiPadいじってるとかそのあたりが不統一な感じもねらいがあるようには思えない。古典やるなら取って付けたような演出じゃなくてきちんと作品に向き合った演出が見たい。

女の子には内緒/東京『いざよいエーテル』(作・演出:柳生二千翔)

パワポ芸と体の動きが完全に範宙遊泳。内容云々以前にそれは今、若手が最もやってはいけないことでは……。特にパワポ芸はやろうと思えばそれなりのものならば誰でもできるだけに。

劇団走馬灯/京都『開かずの扉』(作・演出:稲葉俊)

前説を終えた主宰がハケようとしたらハケるための扉が開かず『開かずの扉』がはじめられない、という体のメタ芝居コメディなんだけど全く笑えず。

Bプログラム

WET BLANKET/福岡『真っ逆さまデスバレーボム』(作・演出:大串到生)

全編が中学生のシモネタのような(というか好きな子のパンツを手に入れるために更衣室に忍び込むって設定からして中学生のシモネタなんだけど)コント。京都まで来てこれをやるモチベーションがわからん。俺は単に下品なだけで全く面白いと思わなかったんだけど、それなりに笑ってる人もいた。シモネタはシモネタなだけで笑う人が一定数いるからな……。

ムシラセ/東京『やみやみ』(作・演出:保坂萌)

色盲の女をモノクロ写真の被写体にすることで名声を得ようとする写真家の話(試演会用ショートver.)。物語は(悪くはなかったけど)置いといて一人複数役を切り替えつつの構成が巧い。役者も複数役にきちっと対応。特に片岡斎美(いつみと読むらしい)が巧かった。

劇団しようよ/京都『こんな気持ちになるなんて』(作・演出:大原渉平)

役者による色を付けない状態で言葉を届けたと思った(大意)という大原のめくるフリップに記された言葉と、役者たちによって演じられる芝居(食べられるハンバーグたちの会話!)によって進む作品。ハンバーグたちの会話の間、上手奥のホットプレートで大原は実際にハンバーグを捏ね、焼く(立ちこめるハンバーグ臭!)。後半、フリップには「ルーマニアで2012年に起きた日本人女性殺害事件を覚えていますか?」という問いかけが不意に現われ「どんな気持ちだったんだろう」と問いは続く。次回公演で予定されている「知ることのできない気持ちを想像すること」を主題とした作品のための試演ということだったのだけど、手法はともかく、語られる内容と主題との組み合わせはどうなんだ。演じられるのがハンバーグの気持ちだというのは置いておくとしても、「知ることのできない気持ちを想像すること」を主題とする作品でハンバーグとなる肉たちが「おいしく食べられたい」と食べられることに対してモチベーションが高いのはいくらなんでも食べる側である人間に都合よく想像しすぎなのでは……。