ジエン社『30光年先のガールズエンド』劇評

ある種のテレビゲームには「強くてニューゲーム」というシステムがある。RPGなど、プレイヤーが操作するキャラクターを少しずつ強化しながら進めていくタイプのゲームに多い。一度ゲームをクリアすると、その時点でのステータスやデータを引き継いだ状態で、つまり、十分にゲームをクリアできるレベルにまでキャラクターが強化された状態で、ゲームをもう一度初めからやり直すことができるようになるというシステムだ。相対的にゲームの難易度が下がることで初回プレイ時にはクリアできなかったイベントがクリアできるようになったり、あるいは、何らかのアイテムを一周目から引き継ぐことでまた別のイベントが発生したりする。記憶を保持したまま過去にタイムスリップして人生をやり直すようなものだ。ジエン社第10回公演『30光年先のガールズエンド』(以下『ガールズエンド』)の舞台となるスタジオの名前はニューゲームという。

『ガールズエンド』はこの(と言うのはつまり2015年の)4月にオープンした早稲田大学の劇場施設、早稲田小劇場どらま館のプレオープン公演の1本目として上演された。早稲田小劇場どらま館が現在建つ場所にはかつて、鈴木忠志らが創設した劇団・早稲田小劇場が活動拠点として作り上げた同名の劇場・早稲田小劇場があった。鈴木らが富山県利賀村へと活動拠点を移すと、劇場は早稲田銅鑼魔館と名前を変え民間経営に。1997年には早稲田大学が劇場を買い取り、早稲田芸術文化プラザどらま館として学生への貸し出しが行なわれるようになる。ポツドール阿佐ヶ谷スパイダースなどの劇団が活躍するが、耐震強度不足により2012年に閉館し、夏には建物が取り壊される。これが新たにオープンした早稲田小劇場どらま館の過去だ。

一方、ジエン社主宰で作・演出の作者本介こと山本健介は早稲田大学第二文学部出身。在学中は演劇サークル劇団森に所属し、自身のみによる表現ユニット「自作自演団ハッキネン」でテキストを用いたパフォーマンスを行なっていた。今回の早稲田小劇場どらま館プレオープン公演はジエン社の他に第七劇場、ろりえといずれも早稲田出身の劇団による公演が3本並び、言わばある種の「凱旋公演」の場として用意されたものだ。かつての学生が現役の学生に現在の自らの姿を見せる。過去の自分と、過去の自分が漠然と思い描いていた未来の自分と、そして現在の自分と対峙せざるを得ないシチュエーションに、山本は真正面から取り組んでみせた。

描かれるのは18歳の女子高生4人組ガールズ・バンド、ワンドエイトとその12年後の、つまりは30歳になった彼女たちの姿だ。ジエン社はこれまでも複数の時間を同時に描き、あるいは行き来しながら物語を紡いで来た。『ガールズエンド』でも18歳の彼女たちの時間と30歳の彼女たちの時間、そしてそのどちらでもあってどちらでもないような時間が舞台上に展開される。そこにはもちろん、2015年の4月には31歳になっていた山本と、大学で演劇に取り組む18歳だったかつての山本自身が重ねられているだろう。両者をつなぐのは早稲田小劇場どらま館という劇場であり、ニューゲームというスタジオだ。

ワンドエイトのベース兼まとめ役、はりつめくし(はりつめ)がニューゲームで他のメンバーを待っている。やがてドラムのコンゆーき(コン)がやってくるが、ギターのくるま子(ま子)、キーボードのてつどう子(ど子)の双子がなかなか来ない。一方、使うはずのスタジオには誰かが立てこもっているようで、宇部という年嵩の(おそらくは30くらいの?)男が説得を試みている。スタジオにはワンドエイトを取材しようとするライター「女に出会ってばかりの国」も現われる。スタジオのスタッフ砂川は適当に彼らの相手をしているが、ニューゲームは近々閉店するらしい。ま子がスタジオに到着するがど子は相変わらず来ない。彼女たちは18歳だ。

一方、彼女たちが30歳になってもニューゲームは変わらず存在している。どうやら砂川がスタジオを再建したようだ。ワンドエイトのメンバーも音楽は続けていて、今日は久々に集まるらしい。「女に出会ってばかりの国」は何年か前に死んでしまった。が、「死んでるのに、なんかうろうろこの街を徘徊するように」なっていて、スタジオにいる人々とも普通に会話を交わしている。ど子はやはりなかなか来ない。彼女たちは30歳だ。

特に筋らしい筋があるわけではなく、作品は二つの時間を曖昧に行き来しながら進んでいく。ワンドエイトのメンバーは未来を語り、あるいは未来から過去を振り返り、そしてときにこれから来るはずの未来をすでに起きたものとして語る。このような複雑な語りが可能となるのは、二つの時間が舞台上に同時に、溶け合いながら存在しているからだ。30歳の彼女たちは18歳の自分に半ば同化しながら「未来」を省みる。

だがもちろん、現実の世界には「18の頃の自分」はもういない。だから、ジエン社・山本が現役の大学生たちにかつての自分を重ねて見ることは端的に言って間違っていて、山本はそのことを百も承知で18歳と30歳を同時に描いてみせる。

全然違うじゃないですか。私も、この場所も。全然違う私が、全然違う場所で、懐かしがっていいんですかね。なんか、懐かしさってものに対して失礼じゃないんですかね。 

とは国語教師となった30歳のはりつめの言葉だが、早稲田小劇場どらま館もまた新築され、以前とは全く違う建物、「全然違う場所」となっている。そのことへの感傷自体は個人の自由だ。しかし共有されないノスタルジーはときに抑圧ともなり得る。

人生に「強くてニューゲーム」はない。タイムスリップもない。ないのだが、「人生の先輩」は往々にして、「強くてニューゲーム」をプレイしているかのように振る舞う。コンに対し「俺、そこんところ一通りもう終えてさ、わかってるから。だから、わかるよ。君らの終わり、君らの、エンド」と言い放つ宇部はその典型だ。30歳になったワンドエイトのメンバーたちは、かつての自分たちを振り返る。宇部もまた、自らの経験を元に18歳の彼女たちに「わかってる」と嘯くのだが、それは少しだけ本当で大方は嘘だ。だからこそコンに説教めいたアドバイスを垂れる宇部の姿は痛々しく、本人もまた「自分がどれだけ格好悪いかくらい知って」いる。しかしそれでも、「たぶん途中から話聞いてないんだろうなと」思いつつ宇部が話をやめないのは、「もしかしたら聞いてくれてるかもしれない」「聞いてくれなくてもどこかで聞いてくれてるかもしれない」と思ってしまうからであり、しかも彼の言葉や態度はおそらく、その場ではたとえ「わからなかった」としても、少しだけはコンにとっても真実たり得てしまうものなのだ。

「女に出会ってばかりの国」はワンドエイトに「今の状態が、たとえば、30歳になっても、ずっとこのまま続くと思いますか?」と問う。過去の自分を振り返る現在からの視線は、未来を思い描く過去の自分に反射する。早稲田出身で18歳のガールズ・バンドに取材する「女に出会ってばかりの国」には、同じく早稲田出身で『ガールズエンド』のために女子高生バンド・まがりかどに取材をしていた山本自身が投影されているようでもある。ならばワンドエイトへの問いかけは18歳の大学生への山本からの問いかけであり、自身の現在の問い直しでもあるだろう。スタジオの外には雪が降り、触れるとゾンビになってしまうらしい。死んでいるはずなのにそこにいる「女に出会ってばかりの国」は/卒業したはずなのに大学で公演を打っている山本はゾンビなのだろうか。現在の自分は生きながら死んでいやしないだろうか。

同じ人間の18歳と30歳。同じ時間を生きる18歳と30歳。現在という名の未来から過去への視線と、過去という現在から未来への視線。『ガールズエンド』は複数の視線を描くことで、18歳の青臭さを、そして30歳になってなお捨てることのできない青臭さを繊細に掬い上げ、18歳の/30歳の青春を鮮やかに描き出す。そこには幾分かの気恥ずかしさと現在の自分への(それが迷いながらのものであれ)自負がある。30歳は18歳の視線を意識する分だけ大人だ。30歳の自分の中に今もいる18歳の自分と、そしてかつて自分もそうだったように、今まさに18歳の若者たち。18歳の前に立つ30歳は「強くてニューゲーム」どころではない。むしろ過去に、思い描いた未来に試されることになる。18歳の自分が思い描いた30歳に、18歳の若者たちが思い描く30歳に、現在の自分は並ぶことができるのか。その試練を正面から引き受け、そのこと自体を上演してみせた『30光年先のガールズエンド』は、早稲田小劇場プレオープン公演としてこれ以上ないほどにふさわしい作品だった。