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移人称/演劇/鳥公園(In-vention第3号、2015年2月)

文芸評論家・渡部直己は「今日の「純粋小説」——『日本小説技術史』補遺」(新潮2014年10月号)を「移人称小説の群れ」と題した節からはじめている。渡部は小野正嗣『森のはずれで』(〇六年)、岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(〇七年)、奥泉光『神器』(〇九年)、青木淳悟『このあいだ東京でね』(〇九年)、磯崎憲一郎『赤の他人の瓜二つ』(一一年)、柴崎友香『わたしがいなかった街で』(一二年)、松田青子『スタッキング可能』(一三年)、藤野可織『爪と目』(一三年)、保坂和志『未明の闘争』(一三年)と作品を挙げながら、「三人称多元小説における通常の焦点(≒視点)移動が、作中で三人称を与えられた複数の人物間に講じられるのにたいし、上記諸作にあっては、語りの焦点が、一人称と三人称とのあいだを移動し往復する点」にその特異性があると指摘する。渡部はさらに、「いわゆる『枠』小説や『考証体』小説における報告者(一人称)と当事者(三人称)の関係」や「『内的独白』にみる(同一人物に与えられた三人称から一人称への)転称性など」、「もとより、ひとつの作品のなかに、二種類の人称性が併存する事例は、昔もいまも少なからず存在する」としながらも、「上記諸作にあって、一人称と三人称は、同一次元の作中人物としてかかわりあい、あるいは、同じ話者の資格で、語りを引き継ぎ譲り渡すといった関係におかれる」と言い、その点で「併存型との区別」がなされる小説を特に移人称小説と呼ぶ。

日本の現代小説において明らかに一つの潮流をなす「移人称」は演劇と浅からぬ関係を持っている。岡田利規はもちろんチェルフィッチュとしての活動で国内外から高い評価を受けているし、松田青子はかつてヨーロッパ企画という劇団の役者であった。他にも、「ギッちょん」(一二年)、「砂漠ダンス」(一三年)、「コルバトントリ」(一三年)で芥川賞の候補となった山下澄人も劇団FICTIONを主宰し、その作品の多くが移人称小説と呼ばれ得る作家である。複数の移人称小説の書き手が演劇と何らかの形で関係を持っているわけだが、これはおそらく偶然ではない。移人称と演劇とは原理的に密接な関わりを持っているのだ。

佐々木敦は『新しい小説のために』「「小説」の上演」(群像2014年4・6・7月号)の中で、移人称という言葉こそ使っていないものの、岡田の演劇と小説を詳細に論じている。佐々木は『三月の5日間』をはじめとする岡田の演劇における方法意識を「一言でいうと、それは「話法」=ナラティヴの問題である」としたうえで次のように整理している。

岡田が舞台『三月の5日間』でやってのけたのは、まず第一に、従来は分かち難く(そして特に疑問に付されることもなく)結びついていた「アクター(=俳優)」と「キャラクター(=登場人物)」を切り離し、組み替え可能にしたこと、そして第二に「アクター」に「ナレーター(=話者)」という機能を付与したこと、もしくは「アクター」にあらかじめ潜在していた「ナレーター」としての属性を増幅してみせたこと、である。

複数の俳優が入れ替わり立ち替わり「誰かの話を語る私」と「私の話を語る誰か」をややこしく(だがややこしくはなく)循環/交換しながら展開してゆく『三月の5日間』は、演じられている、というよりも、物語られている、といった方が、実態に近い。「誰かの話を語る私」「私の話を語る誰か」から「誰か」と「私」を抜くことで得られる「〜の話を語る」という文型の行為こそ、そこで為されていることである。すなわち「ナラティヴ」の前景化。 

考えてみれば、岡田の試行は「演劇」の「原理」とも深くかかわっていると言える。自分自身ではない誰か、他人/別人、この世界に存在したことさえない虚構の人物を「演じる」ということは、その居もしない「誰か」の存在を前提/必須とする「物語」に、その「誰か」として代入されることに他ならないからである。この意味で「演じる」と「物語る」は、常に既に重なり合っている。(……)あらゆる「アクター」は、常に必ず幾分かは「ナレーター」でもあるのであって、ただ普段は、その厳然たる事実が、なんとなく省略/忘却されているのに過ぎない。『三月の5日間』は、このことを独特な仕方で曝け出してみせたのである。

 佐々木はそもそも岡田の小説を論じるために岡田の演劇を召喚してきたのであり、無理を承知で途中の議論を大幅に端折って言えば、岡田の小説の新しさは「現前しない「アクター」」の導入にあるというのがその結論なのだが、演劇について考える我々が立ち止まるべきは結論の直前に置かれた一節である。「結局のところ「演劇」には一人称しかない。それは「人称」という問題がないのと同じことである」。どういうことだろうか。この一節に先んじて佐々木は小説家・保坂和志による岡田の小説の分析を参照している。保坂は「舞台の上で役者がしゃべっているかぎり、一人称の語りから逃れることはできない」が、「ただしそれはまったく無理ではなくて、黒子のような進行役のようなナレーターのような役割の人間だったら、舞台上でしゃべってもその語りは一人称の語りでなく三人称の語りになりうる」、「しかし思えば同じ役者がしゃべるのでも進行役のような内容だったら三人称の語りと位置づけられうるというのも変な話で、私とか自我とかいうものはもっとフレキシブルなものと考えうるということをこれは示唆しているのではないか」(いずれも『小説、世界の奏でる音楽』)と思考を進め、佐々木はそれを「舞台で俳優が喋っている場合は、キャラクターとしての発話であれば一人称だし、ナレーターとしてであれば一見、三人称のように思える(が、それはむしろ「三人称を演じる一人称」と考える方がおそらくは正しい、ということもここでは触れられている)」と言い換える。なるほど、発せられる言葉に注目するかぎりにおいて、演劇の言葉はほとんど常に一人称の下に発せられている。

だが、この結論は実のところ容易に反転してしまう。つまり、演劇には三人称しかない(とも言える)。なぜなら、観客は常に、役者の発する言葉と舞台上の役者の存在をセットで受け取り、その言葉の背後に(=言表行為の主語として)役者が演じている役を(無意識に)補完しているからである。佐々木はハムレットを例に演劇の仕組みを次のように整理している。

(1)ハムレット「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」

(2)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」とハムレットは言った。

(3)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」とハムレットは言った、とシェイクスピアは書いた。

(4)「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」

 

(1)は「戯曲」の記述である。だが、俳優によって発話される時、それは常に(2)を潜在させている。(2)は「小説」の文体といってもいいだろう。そしてそれは同時に(3)でもある。だが実際の舞台で発され/聞かれるのは(4)だけである。『三月の5日間』がやっているのは、いうなれば(4)に(そして(1)に)(2)を(更には(3)を)、それとわかるような形で導入することである。

だがそもそも演劇の観客は(4)を聞いて常に(2)として理解しているのであり、(2)が「「小説」の文体」であるならばそれはどうしたって三人称でしかない。複数の役者が言葉を発する舞台の全体を観る観客の立ち場からすれば、演劇には一人称しかないというよりはむしろ、演劇には三人称しかないと言った方がその理解の実情には即しているようにも思える。これは丁度、三人称で書かれた小説の背後にそれを語る一人称が潜在しているのと真逆の事態である。演劇で一人称の下に発せられる言葉は常に、観客によって無意識のうちに三人称に変換され受け取られている。そこでは舞台に立つ役者の身体こそが三人称の指標となっていることは言うまでもないだろう。小説において(あるいは語りにおいて)行為の主体を示す人称代名詞の代わりに、演劇の舞台上には役者の身体がある。ゆえに演劇には「「人称」という問題がない」。「移人称」を演劇との関わりから考察することは有効だとしても、それをそのまま演劇に持ち込むことはできないのである。

さらにもう一点、役者の存在は、それが人間の内面に関わるという点において小説と演劇との間に極めてクリティカルな違いを生み出している。小説では一人称であろうと三人称であろうとその権利の範囲内で登場人物の内面を描写することが可能であり、ゆえに内面の描写はときに人称の移行の指標となっている。そして小説の地の文に悲しいと書かれていれば、基本的にはそれは悲しいということを意味する他ない。だが演劇においてそのような形での内面描写は不可能なのだ。もちろん、登場人物に「悲しい」と言わせることは可能である。だが、役者の身体がそこに介在することで、「悲しい」という言葉の真偽は最終的なところで保留されることになる。私たち人間は、他の人間が何を考えているか知ることができないからだ。それどころか、演劇で発せられる「悲しい」という言葉は多くの場合において本質的には嘘であるとさえ言えるだろう。それが演劇である以上、そこで発せられる言葉は間違いなく演技だからだ。にも関わらず、ある人物が「悲しい」ということは、その巧拙はあれど、当たり前に演じられてしまう。そこに演劇の面白さがある。

さて、しかし小説と演劇との違いにも関わらず、ここ数年は演劇においても「移人称」的なものが一定の存在感を示している。チェルフィッチュ岡田利規の影響を直接に受け、「語りの演劇」とでも言うべき作風の中に「移人称」的な手法を取り入れているわっしょいハウス/犬飼勝哉。一人複数役と複数人一役を組み合わせ複数の物語のラインを交錯させてみせるThe end of company ジエン社/作者本介。鳥公園/西尾佳織もまた、『蒸発』(一三年)、『緑子の部屋』(一四年)、『空白の色はなにいろか?』(一四年)といった近作においてナレーションや役のスライドといった「移人称」的な手法を導入している。そこで追究されているのは演劇の、そして私たち人間の本質だ。

すでに確認したように、チェルフィッチュ岡田利規の演劇は「語り」というモードにおいて移人称と深い関わりを持っていた。移人称が一人称(≒ナレーター)と三人称(≒キャラクター)との往復によって成立する以上、それを演劇でやろうとするならば、「語り」という、演劇の上演において多くの場合は存在しないものと見なされている位相、つまりはナレーター(≒一人称)の位相を暴露し、さらにそこからキャラクター(≒三人称)とナレーター(≒一人称)の位相を行き来して見せる、という形をとることになる(もちろん、岡田の場合は演劇における試行を踏まえて小説が書かれたのであり、移人称を演劇に持ち込もうとしたわけではないのだが)。鳥公園/西尾佳織においても、まずは『蒸発』において「語り」のモードがはっきりと意識的に導入されることになるが、その様相はチェルフィッチュ/岡田のそれとは大きく異なっている。

『蒸発』の舞台に登場するのは森ちゃんと野津ちゃんというルームシェアをしているらしき二人の女性である。森ちゃんは双眼鏡を使って隣に住むひろきの部屋を覗いている。この作品は二人の会話に終始しつつ、その大部分がひろきの様子の実況やひろきについての妄想、あるいは野津ちゃんによる森ちゃんの気持ちの代弁(めいた想像によるアテレコ)といった、大きく括ればナレーションとでも言うべきものから成り立っている点に大きな特徴がある。もちろん、森ちゃんと野津ちゃんとの普通の会話もないわけではないのだが、そこから得られる情報量よりも「ナレーション」から得られる情報量の方が圧倒的に多い。つまり、一人称=自分のこととして発せられる言葉よりも三人称=他人のこととして発せられる言葉の方が多いのである。実際のところ、その真偽はともかくとして、この作品で最も多くの(圧倒的に多くの)情報が提示されるのは、舞台上には姿を見せないひろきについての事柄なのだ。森ちゃんがひろきを覗きながらその様子を実況し、ときに野津ちゃんも加わりながらその気持ちや過去についての妄想(?)を繰り広げる。野津ちゃんはその妄想に乗ってみせながらも、隣人の男を覗く森ちゃんを揶揄するかのように、彼女の気持ちを勝手に代弁(?)してみせたりもする。結果として、最初から最後まで舞台上にいるにも関わらず、野津ちゃんはどんな人物かほとんどわからないままに作品は終わっていく。いや、よくよく考えれば、森ちゃんだってどんな人物かほとんどわからないままなのだ。野津ちゃんによる森ちゃんの気持ちの代弁は真実を述べているとは限らず(森ちゃん自身は「考えてないよ」と野津ちゃんの代弁を否定する)、森ちゃんが自身について語る言葉はほとんどない。舞台上には存在しない=三人称で語られるひろきについての言葉だけが作品を埋めている。

『蒸発』は台詞の多くが自分以外のことを語るナレーションによって構成されているという点で特異な作品であり、そのことによって舞台上に存在している人物は輪郭が定まらず、一方で舞台上には存在しない人物こそが濃厚な存在感を獲得しているというコントラストにこの作品の面白さはあった。だがこのような事態は程度の差こそあれ、実のところほとんどあらゆる演劇の上演に生じている。『蒸発』は「語り」のモードの導入によってそのことを改めて曝け出したに過ぎない。

すでに指摘したように、演劇の上演を見る観客は、例えば「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」という台詞が役者によって発せられるのを聞くとき、「とハムレットは言った」という三人称の主語を無意識に補うことで、上演される「物語」を成立させている。その意味で、「演劇には三人称しかない」のであった。だがこのとき、一人称の背後に補われる三人称のさらにその背後には、やはり何らかの一人称が潜在している。それは一方で「物語」全体の「作者」であり、また一方ではその言葉を発している役者自身である。『蒸発』はあからさまな三人称によるナレーションを導入することで、そこで語られないものを逆説的に浮かび上がらせてみせたが、そもそも演劇の台詞は基本的には三人称のナレーションを補完する形で受け取られるのであり、結果として、役者自身の存在は語られず舞台から消去されている(ことになっている)。現実には存在しない人物(たとえばハムレット)を存在させるための想像力は、一方で目の前にたしかに存在しているはずの人物(=役者自身)を「殺して」しまうのである。

『蒸発』で試みられたこのような手法は『緑子の部屋』でさらに突き詰められることになる。タイトルに示されているように、この作品の中心に置かれているのは緑子という女性なのだが、彼女はすでに亡くなっている。作品の冒頭に置かれているのは、緑子が亡くなったあと、昔の恋人である大熊と、中学高校時代の(大して仲の良くない)同級生の井尾が緑子の兄によって形見分け(?)のために呼び出され一堂に会するという場面だ。緑子はそこで語られるだけの存在、文字通りの不在の中心としてある。

ところが、緑子は不在のままでいるわけではない。思い出話=語りの中で時系列の入り乱れるこの作品では、いつしか場面は過去に移り、たとえば大熊と緑子とが同棲をはじめたときのことなどが演じられる。そこでは井尾を演じていた役者(武井翔子)が緑子を演じることになり、緑子は舞台上に「姿を現わす」ことになる。

『緑子の部屋』のチラシにはこうある。 

説明                ある日、緑子がいなくなりました。

緑子の友人、恋人、兄が集ってそれぞれに、自分と緑子の話、自分から見て「お兄さんと緑子はこう見えてた」、「彼氏と緑子はこう見えてた」、「友達と緑子はこう見えてた」、「え、そんなこと言われたくないんだけど」、「や、でも緑子からはそう聞いてたし」、「ていうかお兄さんってサー」・・・・・・。

 

話すほど、遠のきます。

緑子の不在、ポッカーン。

不在となる/であるのは実のところ緑子だけでなく、たとえば緑子と大熊が同棲をはじめる場面ではその場にはいない兄のことが話題に上がる。その時点で大熊は緑子の兄とは面識がないため、大熊にとっての「緑子の兄像」は兄不在のままに、緑子の話によってのみ作り上げられていく。不在は想像によって埋められていく。

『緑子の部屋』のラストに置かれている絵画に関するエピソードには「ツギハギだらけ」の「フランケン女」が登場する。

絵の中心でこっちを見てるこの女。(……)画面のど真ん中でこっちを見てますけど、この人もツギハギです。パッと見、普通の女の人みたいに見えるけど、よく見ると、色んなパーツの寄せ集めで出来てるのが分かります。色んな雑誌のモデルたちの顔を切り刻んではまたくっつけて、一人の顔にコラージュしてる。フランケンシュタインみたい。

街の中には、フランケン女以外にも人がいて、でもフランケン女以外の人たちはコラージュされてなくて、全身丸々一人の人間です。この人も、この人も、街が薄っぺらいことにも、気付いていないみたい。でも本当は。環境が薄っぺらのツギハギになれば、人間もそうなるのが「自然」なんじゃないでしょうか?

 大熊、井尾、兄それぞれが抱く緑子のイメージ。それらを受け入れ統合するはずの生身の緑子という存在は消え、バラバラのイメージがバラバラのままに残される。いや、そもそも他人はどこまでいってもバラバラのイメージの集合でしかなく、唯一肉体の存在がその一個性を担保しているに過ぎない。

しかも、一個性を担保するはずの肉体は、その不透明性ゆえに事態をさらに厄介なものにしてしまう。肉体によって担保される一個性、その肉体の持ち主にとっての自我や意識は、他の人間には見ることができない。たしかにそこに肉体が存在し、そこに一人の人間が存在してい(るように見え)ても、その内実は常に不可知であり、その意味で、彼(女)は常に不在なのだ。

「役者に内面はいらない」と言う平田オリザの現代口語演劇では、この「見えないものは見えない」という端的な事実が積極的に利用され、言わば空っぽの器に観客自らが感情を読み込み充填するように誘導される。だが言うまでもなく、器は空ではあり得ない。ロボットやアンドロイドによる演劇であればともかく、生身の役者によって演じられる演劇では、そこに役者自身の意識が必ず存在している。演劇は大なり小なりそこに目隠しをすることで成り立っている。翻って考えてみれば、私たちの日常におけるコミュニケーションもまた、かろうじてそのようにして成立しているに過ぎない。「他人の気持ちを考える」と言うが、いくら考えても私たちは「他人の気持ちを知る」ことはできない。

『緑子の部屋』のラストで、大熊は自分に話しかける井尾のことを緑子として扱ってしまう。当然会話は噛み合ないのだが、このとき、「おかしい」のは誰なのだろうか。大熊が井尾のことを緑子だと思い込んでいるのか、それとも緑子が自らのことを井尾だと思い込んでいるのか。話の流れからすると大熊と話しているのは井尾であるとするのが妥当であるようにも思えるが、彼女がどちらであるのか、観客は判断に迷うことになる。なぜならそこに立っている女は、井尾と緑子の両方を演じていた役者=武井翔子だからである。彼女は井尾か、それとも緑子か。一方を選べばもう一方は姿を消す。いずれにせよそこに武井は「いない」。あるいは逆に、彼女がどちらであるとも言えないがゆえに、そこにいない(ことになっている)はずの武井という女の存在だけが浮かび上がるのだろうか。彼女たちの「存在/不在」は観客の「目」に委ねられているように思われる。

見えないものを存在しないものとして見る、あるいは、見ないことで存在しないものとして見る。それはある種の権力を孕んだ視線であり、西尾はそれをときに直接的な言葉で糾弾する。

今日あった肉体が次の日に消えることはないので、昨日のホームレスは今日消えない。でもある日、公園のベンチに仕切りが出来る。公園のベンチで眠ることを考えたことのない人は、その仕切りの意味を考えない。そうして知らないうちにホームレスを見なくなる。見えないものは、居ないのと同じだから、安心快適である。問題がない。その人はその安心さ、快適さに気付かない。見えすぎると壊れてしまうから、見ずに済んでよかった。そして壊れなかった分また今日も元気に、がんばりましょう。がんばりましょう。

西尾が撃つのは演劇の倫理であり、観客の倫理だ。視線の向きは容易に反転する。見る側もまた、いつでも見られる側/見られない側へと転落し得るのである。演劇の観客は第四の壁に隔てられ、安全で安心な客席の暗闇に身を潜めている。同時にこのとき観客は、舞台上で展開される虚構の世界からははじき出されている。観客もまたそこには存在しないものとして扱われ=無視され、そのことを無自覚に受け入れている。

『緑子の部屋』のラストシーンにおいて、観客はそこに立つのが井尾であるのか緑子であるのかを知ることができない。彼女たちの「存在/不在」を決定する権利を有するかにも見えた観客は、実のところ「事実」から疎外されているに過ぎない。ラストシーンの寄る辺なさは、そこにいるのに見てもらえない井尾の寄る辺なさであり、同時に、世界から疎外された観客の寄る辺なさでもある。観客はその寄る辺なさを受け入れながら問い続けるしかないのだ。「空白の色はなにいろか?」と。