useful_days 番外編:集団:歩行訓練『ゲームの終わり』関連トーク

KYOTO EXPERIMENT2013フリンジ オープンエントリー作品「岩戸山のコックピット」(http://www.cockpit-ex.info/index.html)内で上演される集団:歩行訓練『ゲームの終わり』に関連してトークを行なうことになりました。
 
ベケット入門:『ゲームの終わり』のはじめかた 講義編
 
今年はベケット・イヤーと言ってもいいくらいベケット作品の上演が相次ぎます。あいちトリエンナーレにおける関連作品の上演はもちろんですが、それ以外にも多くの上演がなされ、今後も予定されています。今回のレクチャーでは『ゴドーを待ちながら』から日本ではあまり上演されていない後期の演劇作品やテレビ作品までを概観しつつ、日本におけるここ最近の上演についても紹介していきます。ベケットとはどんな作家だったのか。そして集団:歩行訓練はベケットにどう挑むのか。これを機会にベケットのこと、もう少し知ってみませんか?
 
話し手:山崎健太(演劇研究・批評)、谷竜一(集団:歩行訓練)
 
プロフィール
山崎健太:演劇研究・批評。早稲田大学大学院文学研究科表象・メディア論コース博士課程在籍。KYOTO EXPERIMENTフリンジ企画「使えるプログラム」に支援系Aとして参加、劇評などを執筆。
 
谷竜一:福井県出身。山口県在住。詩人・演劇作家。集団:歩行訓練では主にテクスト・構成・演出を担当。近作に『地図をつくる #ときょうと』(KYOTO DANCE CREATION vol.2上演作品)『不変の価値』(F/T12公募プログラム他上演作品)等。スタジオイマイチ登録アーティスト。詩誌『権力の犬』同人。
 
日時:10/20(日)10:30〜12:00(10:20開場)
場所:京都芸術センター南館3Fミーティングルーム2
料金:無料
予約:beckettincockpit@gmail.comまでお名前と人数をお知らせください。

問うために/遊園地再生事業団『夏の終わりの妹』レビュー

質問をするのになぜ資格がいるのだろうか。『夏の終わりの妹』の舞台である架空の町、汝滑町にはインタビュアー資格制度なるものがあり、その町ではインタビュアー資格を持っていれば誰にどんな質問をしてもよいのだと言う。逆に資格を持たない者にはどんな質問の権利も許されていない。

主人公である謝花素子がインタビュアー資格を取ろうと思った理由は大島渚監督の映画『夏の妹』にある。『夏の妹』を見て「つくづく、さっぱり意味がわからないことに茫然とした」素子は、たまたま住むことになった汝滑町でインタビュアー資格制度の存在を知り、大島渚にインタビューをすることを思い立つのである。とは言え、それはそれほど強いモチベーションにはなり得ず、勉強もせずに何となく資格試験を受け続けた素子はいつまで経っても合格しない。そして二十四回目の不合格の日、東日本大震災が起きる。

東日本大震災直後の状況においてあらゆる質問ができないことにフラストレーションを感じた素子はインタビュアー資格を取るための勉強を本格的にはじめ、ついにインタビュアー資格試験に合格する。だがその直後、大島渚監督の死が報じられるのであった。質問する資格を持っているにも関わらず、素子は質問を発することができない。素子は遅過ぎたのだ。

ところで、素子が合格したインタビュアー資格試験が実施されたのは、東日本大震災以降初の参議院選挙が行なわれたのと同じ2012年12月のことであった。素子は東日本大震災を受けてインタビュアー資格を得るための勉強をはじめ、その成果は2012年12月の試験によって試された。素子は問いを発する資格を得ることはできたものの、結果としてその機会は永遠に失われてしまった。ここに一つの教訓がある。問いを発するためには常日頃からそのための準備を怠ってはならない。問題がはっきりしたときには全てが手遅れかもしれないのだから。

インタビュアー資格制度は架空の制度だが、現在の日本においては「特定秘密保護法秘密保全法)」という法律が準備されつつある。『夏の終わりの妹』の最後に聞こえてきたのは不穏なヘリの音だった。



*このレビューは11/4の文学フリマで発売予定の批評同人誌ペネトラに掲載されるクロスレビューの1本です。

useful_days 10/13:木ノ下歌舞伎『木ノ下歌舞伎ミュージアム "SAMBASO" 〜バババッとわかる三番叟〜』

木ノ下歌舞伎は古典と現代を接続するためにさまざまな試みをしてきたが、今回の『木ノ下歌舞伎ミュージアム』はその活動のひとまずの集大成であると言える。演目としてはタイトルにもあるように2008年初演のダンス作品『三番叟』(監修:木ノ下裕一、演出:杉原邦生)を中心に置きつつ、「木ノ下歌舞伎ミュージアム」という架空の博物館をその外側に枠組みとして設定することで、古典と現代を接続するという木ノ下歌舞伎の精神がこれ以上ないほどに具体的な形として描き出されていたのだ。
 
『木ノ下歌舞伎ミュージアム』はまさに「木ノ下歌舞伎ミュージアム」の開館記念式典として上演される。開演の時刻になるとミュージアムに見立てられた春秋座の入り口に「木ノ下歌舞伎ミュージアム理事長」である木ノ下や「木ノ下歌舞伎ミュージアム館長」杉原らが現れ、テープカットを行なう。その後、場は内覧会へと移り、観客は館内に展示された『三番叟』関連の資料を見て回ることになる。そこには能・文楽歌舞伎それぞれの『三番叟』についての解説や実際に使われる面に衣装が(そしてそれらに混ざってなぜかテープカットのテープとハサミやクラッカー、ダルマなどが)飾られている。木ノ下歌舞伎は毎公演、上演後のアフタートークに加え、公演に先立っての音声ガイダンスやフリーペーパーの配布などさまざまな形で観客に対し作品との接点を提供してきた。今回の「ミュージアム」形式での資料展示はその究極の発展形の一つだろう。
 
しばしの内覧の時間ののち春秋座のホール内部へと案内されると開館記念式典がはじまる。記念式典はきわめて記念式典らしく、理事長館長に加えニセ市長の挨拶やビデオレター、木ノ下歌舞伎のこれまでの歩みを振り返るスライドショーという具合に進んでいく。スライドショーが終わると舞台奥の幕が落ちて特設の客席が現れ、観客はそちらに移動するよう促される。そこで茂山童司による祝いの舞として『三番三』が披露されると、続いて木ノ下歌舞伎版『三番叟』の上演となる。茂山童司による『三番三』もまた、ミュージアムの展示と同じように木ノ下歌舞伎版『三番叟』へのガイドになっている。と同時にその逆、つまり木ノ下歌舞伎版『三番叟』が『三番三』へのガイドにもなっていることは言うまでもない。古典と現代とが相互に橋渡しの役割を果たし、さまざまな方向から観客を『三番叟』の世界へと誘うのである。
 
さて、展示や『三番三』の上演が『三番叟』への解説=観客を古典の世界へと誘うガイドとしてあるのは明らかだが、この会館記念式典自体もまた、『三番叟』という演目を上演する場を整えるために用意されたものである。というのも、『三番叟』は伝統的に「露払い」として、主に上演のはじめに演じられてきた演目でありかつ祝い事に際して行なわれる祝言の舞でもあるからである(そしてこのこともまた、当然のことながらミュージアムの展示で解説されている)。歌舞伎についてのミュージアムのオープンを祝うのに『三番叟』ほど相応しい演目はない。そして木ノ下歌舞伎版『三番叟』の中には、現代における祝い事のモチーフも取り込まれている。ミュージアムに展示されていたテープカット、クラッカー、ダルマがそれである。ミュージアムのオープニングを示す儀式として行なわれたテープカットは木ノ下歌舞伎版『三番叟』のクライマックスで繰り返されることになるのだ。
 
『木ノ下歌舞伎ミュージアム "SAMBASO" 〜バババッとわかる三番叟〜』は『三番叟』をコンテンポラリーダンスへと翻案するのみならず、それが上演される文脈までをも翻案し、現代の文脈へと再構築してみせた。だが、「木ノ下歌舞伎ミュージアム」という構想は単に『三番叟』を上演するための場としてだけ提示されたわけではないだろう。『木ノ下歌舞伎ミュージアム』上演は木ノ下歌舞伎の未来における構想実現への第一歩であり、プレゼンテーションでもあった。 今回の開館記念式典自体はフェイクだったわけだが、そこには木ノ下と杉原の本気が滲んでいたように思う。あからさまなパロディとしてマジメぶって執り行われた記念式典は、しかし「この式典はいつか現実になる」という奇妙な説得力を孕んでもいたのであった。

useful_days 10/12:ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』

愛知まで足を伸ばしてあいちトリエンナーレの上演演目、ARICA+金氏徹平『しあわせな日々』(原作:サミュエル・ベケット/クレジットは「原作」となっているものの、基本的には戯曲に忠実に上演されている)を見てきた。
 
(以下、ネタバレ多々あり。関東圏でもTPAMで上演されるとのことなのでご注意を。)
 
金氏徹平の舞台美術、倉石信乃の新訳と安藤朋子の演技がそれぞれよかったのは言うまでもなく、それが組み合わさることで素晴らしい効果を上げていた。言葉と舞台美術が同じリズムを持つと言うべきか、はたまた同じ原理によって構成されていると言うべきか。
 
倉石信乃は当日パンフレットに「ピストルと穴」というタイトルの文章を載せている。『しあわせな日々』に登場するこれらのモチーフは当然、男性(器)と女性(器)のメタファーなのだが、舞台美術にもこれらのモチーフは受け継がれているように見えた。一見すると無秩序なガラクタの山のように見える舞台美術はよく見るといくつかの対となるモチーフの反復・集積によって構築されているようである。
 
ひとつは有機物と無機物。舞台美術の山は灰色(岩やコンクリート、パイプ)と茶色(木切れ)、そして少しの緑(植物、しかし限りなく人工的なようにも見える)で構成されており、それらは単に積み重なるだけでなくところどころでは溶け合い、同じ生き物の一部のようである。この山に埋もれる女もまた、生物=生から無生物=死への途上にあり、山に埋もれる体は少しずつ動かなくなっていくのである(女が山と一体化していくことを示すかのように、彼女が被る帽子は苔のような緑だった)。
 
対を作る他のモチーフでもその境界は溶け合い反転していく。例えば棒と穴。舞台上には棒状のもの、穴のあいたものがさまざまに散らばっているが、2つのモチーフはパイプにおいてその合一を果たす。穴のあいた棒状のものとしてのパイプ。あるいは凸と凹。両者が実は同じものであることを主張するかのように、舞台上にはひっくり返されたバケツが並ぶ。そしてこれらのモチーフはそこかしこで少しずつ形を変えながら反復しているのである。
 
反転し溶け合い変容していくリズムはセリフの中にも見出せる。倉石の新訳では「わたしのうた歌え、わたし。わたしいのり祈れ、わたし」などという形で名詞と動詞、そして語順が(場合によっては主語と述語とが)くるくると変転していくのである。舞台美術と言葉はともに、「穴に出入りすること」=「男女の結合」=「相反するものの結合」とそこから生じる変容を見事に視覚化、聴覚化していた。
 
今回の『しあわせな日々』の上演がさらに素晴らしかったのは、「男女の結合」のモチーフが単に観念的なものに陥らず、限りなく世俗的な、ありきたりの男女の関係としても十分に表現されていた点である。第一幕では山の陰にちらちらとその姿が見えるだけだった女の夫は第二幕の終盤で山の前方へ姿を表す。地に這いつくばり、女の埋もれる山に縋ろうとする男の姿は許しを乞うているかのようである。男の伸ばした手は拳銃には届かない。「あなた他の穴にはまり込んでいたの?」「あたしも昔は助けてあげられたんだけど」「そんな目であたしを見ないで」といった一連のセリフはエロティックでメロドラマティックな響きを帯びはじめ、その頂点で女は歌うのである。死へと向かう女が最後に爆発させるエロス。浮気の詰問にも見えるラストシーンは生への欲望の発露として奇妙に生々しい感動を呼び起こすのであった。

わかりあえなさについて/『風立ちぬ』レビュー

『風立ちぬ』で際立って印象に残っている二つの場面がある。一つは幼少の二郎が河原でイジメを止めようとする場面。もう一つは飛行機の設計に携わるようになった二郎が会議で軍の担当者らしき面々と同席する場面である。どちらも物語全体の流れからすれば特に重要な場面というわけではないのだが、共通してユニークな表現が用いられている。二つの場面ではそれぞれ三人ずつのイジメっ子と軍人が二郎に対し何事かを喚き立てているのだが、重なり合う彼らの言葉は「バルバルバル」とでもいうような不可思議な音で表現されている。彼らが日本語で何事かをしゃべっているのは明らかであるにも関わらず、その言葉は意味をなさない言葉として表現されていたのである。

この「意味不明の言葉」は二郎とイジメっ子あるいは軍人との間に立ちはだかる「わかりあえなさ」を端的に表現していたと言えるだろう。「美しい飛行機を作りたい」という二郎の欲求と、「飛行機を使って他国を制圧したい」という軍の野望は常にすれ違い続けるよう宿命づけられている。二郎に監督である宮崎駿の姿を重ねて見る向きがあることからも明らかなように、この映画は芸術と現実との間で生じる葛藤を描いた一面を持っているのである。

翻って考えてみるならば、二郎の理解者たちは常に言葉の通じる者としてあった。そもそも少年二郎は夢の中でイタリア人であるカプローニと平気で会話を交わしていたではないか。もちろんそれは夢の話ではあるのだが、ヒロインたる菜穂子との出会いを決定的なものにしたのもまた「言葉が通じること」であった。そこではタイトルにもあるポール・ヴァレリーの詩の一節がフランス語で発せられる。
 
“Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”
 
「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳されるその詩を二人がともに「フランス語で」了解すること、つまりは言葉を共有することが、二人が同じ世界を生きる人間であることを示している。二郎が最新鋭の飛行機の研究のためにドイツに留学する場面でも、日本人とドイツ人との間に若干の対立こそ生じるものの基本的には言葉が通じてしまうのは、そこに飛行機という共通言語があるからだろう。

だからこそ、同じ日本人であるにも関わらず言葉の通じない者の存在は痛烈である。そこでは理解し合うことの可能性があらかじめ奪われている。野蛮人を意味するbarbarianという単語の語源はギリシャ語で「意味のわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイにあるという。二郎にとってイジメっ子や軍人は言葉の通じぬ野蛮人に過ぎない。

ところで、ときに二郎が成長しないことが批判されるこの作品だが、イジメっ子の場面と軍人の場面を比較するとそこには明確な違いがある。前者で二郎はイジメを止めに入るのに対し、後者の場面で二郎はただただ無関心を示すのみなのである。言葉が通じぬ者への無関心がどのような結果を招いたかは映画の結末からも明らかだろう。

私たちは言葉の通じぬ者たちに働きかけ続ける忍耐を持っているだろうか。



*このレビューは11/4の文学フリマで発売予定の批評同人誌ペネトラに掲載されるクロスレビューの1本です。

useful_days 10/9:村川拓也『エヴェレットラインズ』

村川拓也は『エヴェレットラインズ』の当日パンフレットに次のような文章を寄せている。
 
1.30人〜40人の人々に手紙を送った。手紙を受け取った人々はこの作品の出演候補者である。手紙には指示が書いてある。その指示に従う場合は当日劇場に来て出演者として振る舞う。指示に従わない場合は当日劇場に来ない。この作品は、出演者未定の演劇作品である。
2.上演中にプロジェクションされる字幕は、手紙を送った人の名前、居住地、職業、年齢、そして手紙に書かれた出演時間と指示の内容である。
3.出演者は出演が終わると劇場を出て、それぞれどこかへ帰っていく。だからカーテンコールはない。 
 
まるでゲームのルール説明のようなこの文章が『エヴェレットラインズ』という作品のほとんど全てを説明している。さらに、
 
その人が生きているか死んでいるかを知る為には、その人が目の前にいないと判断できない。今、あの人はどこかで死んでいるかもしれない。
 
という文章は『エヴェレットラインズ』というタイトルへの解説としての役割までも果たしていると言える。エヴェレットとはおそらくヒュー・エヴェレット3世のことであり、彼は量子力学において多世界解釈を提唱した人物の1人として知られている。量子力学に関連してより人口に膾炙しているのはシュレディンガーの猫だろう。箱の中の猫は生と死の重なりあった状態で存在しており、フタを開けその姿を観測することで初めて状態が確定される。『エヴェレットラインズ』の「出演候補者」がシュレディンガーの猫に喩えられているのは明らかだ。数行の手紙がシュレディンガーの猫を創り出す。
 
アフタートークで村川は「ドキュメンタリー映画を作るのと同じやり方で演劇を作りたい」と発言していた。「演劇はスタッフや出演者とともに一つの作品を作り上げるという共通の目標に向かっていくが、ドキュメンタリー映画は違う」「撮影される人たちは撮影自体には協力してくれていても映画の完成を目標としていない」という村川の言葉は『エヴェレットラインズ』のルール3に反映されていると言えるだろう。劇場に一時的にやってきてはそれぞれの場所に帰っていく「出演者」たちの姿は分岐する可能世界のイメージとも重なり合う。
 
さて、ではこのような作品において観客は一体どのような役割を果たすことになるのだろうか。シュレディンガーの猫の喩えに従うならば、劇場という箱の蓋を開け舞台を観測することで状態を確定するのが観客の役割だということになる。観客が上演を見ることによって「出演候補者」が劇場に来た/来なかったことが確定されるのだ。ところが、当日パンフレットの村川の言葉が示唆するのは観客が上演を見ることによって生じる不確定性である。『エヴェレットラインズ』の上演において、ある「出演候補者」が「生きているかもしれないし死んでいるかもしれない」状態になり得るのは、舞台上にプロジェクションされた名前の人物が劇場に現れなかったときだけなのだ。
 
つまり、『エヴェレットラインズ』には複数のレベルの不確定性が仕組まれているのである。「出演候補者」が来るか来ないかは実際にその時間が来るまでわからない。来なかった「出演候補者」が生きているか死んでいるかは実際にその人に会うまでわからない。いや、「出演候補者」として名前がプロジェクションされているその人物がそもそも存在しているのかどうかも観客にはわからない。いやいや、そもそも本当に出演依頼の手紙が出されたのかどうかも観客にはわからないではないか。舞台上で起きた出来事が全てあらかじめ上演台本に書かれていた可能性は否定できないのである。このように考えていくと『エヴェレットラインズ』というタイトルに対する異なる読みが可能となってくる。『エヴェレットラインズ』とはシュレディンガーの猫としての上演台本を指す言葉ではなかったか。
 
このような複数のレベルにおける不確定性への疑念は単なる深読みではなく、作品それ自体によって引き起こされるものである。たとえば、ある「出演候補者」への「舞台裏で物音を立てる」という指示が壁にプロジェクションされる。少し経つと実際に舞台裏から物音が聞こえてくるのだが、観客が舞台裏の「出演候補者」の姿を見ることはできないため、それが実際に「出演候補者」が立てた物音なのかどうかはわからないままだ。ここにさまざまな疑念=不確定性の生じる余地がある。「出演者の姿が見えない状態で実行される指示」によって「出演者の不在の可能性」へと意識が向けられるのである。プロジェクションされる名前の中に含まれる故人の名前も同じような効果を持つ。そこで示唆されているのは「手紙が受け取られない可能性」であり、翻って「そもそも手紙が出されなかった可能性」である。実際的なところを考えれば、故人への手紙は出されなかったのだろう。と、多くの観客は考えることになる。
 
プロジェクションされる指示と「出演者」の行為とのズレはまた別の疑念を呼び込む。例えば、「10回咳をしてください」という指示を受け取った男性は舞台上で散発的に数度の咳をしていたが、咳の回数が10回に到達する前に劇場から出て行ってしまった(ように思う)。そもそも、「10回咳をしてください」という指示は「どのように」についての指示(それを演出と呼ぶこともできるだろう)の抜け落ちた曖昧なものであり、それが「10回の連続した咳」を意味するのかそれとも単に回数をこなせばよいのかの判断は「出演者」に任されることになる。そして「出演者」の解釈とプロジェクションされた指示を見た観客の解釈との間にズレがあるとき、そこに微妙な違和感が生じてくるのである。たとえば私は、「10回咳をしてください」という指示を「連続して10回咳をする」という意味で受け取っていたので、「出演者」が咳を1回で止めてしまったとき、彼が指示を間違えたのではないかと思った。「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という指示についても同じことが言える。この指示を受け取った女性は舞台にいる間中、客席に向かって「秋本」と呼びかけ続けていたのだが、これ以前に「10回を咳をしてください」という指示を目にしていた観客の多くは「客席に向けて誰かの名前を呼んでください」という回数の指定のない指示を見て「誰かの名前を1回呼ぶ」という意味に取ったのではないだろうか。ここにもまたいくつかの不確定性がある。それは「解釈の違い」なのか「指示の誤認」なのか。そこにはそれが「指示自体の違い」である可能性すら存在している。プロジェクションされ観客が目にしている指示は果たして本当に「出演者」たちが手にしている手紙に書かれているものと同じなのだろうか。
 
作品の終盤における2つの出来事が『エヴェレットラインズ』の不確定性を決定的なものにする。作品は、まず「出演候補者」の名前や指示がプロジェクションされ、その後「出演者」が登場して指示を実行するという流れで進行していくのだが、あるとき、何の前触れもなく=プロジェクションによる指示なく1人の男が登場してくる。そこまでの一連の流れでは、プロジェクションによって予告された「出演候補者」が劇場に現れないことはあっても、予告されない人間が舞台上に登場することはなかった。それゆえ男の存在は観客に対し強い印象を与えただろう。観客によっては彼は指示の時間よりも早く登場してしまったのだと思ったかもしれない。だがその後も彼に関する情報と指示がプロジェクションされることはなかった。続けて何人かの「出演者」が登場するが、彼らについての情報もまた観客に開示されないままであった。ここではまさに、「出演候補者」に対する指示自体がシュレディンガーの猫として存在していることになる。観客は「出演者」たちがどのような指示を与えられているのか(そもそも指示としての手紙を受け取っているのか)を知らぬままに上演を見ることになるのだ。舞台上に彼らの名前や彼らへの指示がプロジェクションされていないことを考えれば、登場する予定のなかった闖入者であるという可能性すらある。さらに言えば、「出演候補者」についての情報が開示されないことで、もしかしたらそこにいたかもしれない、劇場には来なかった「出演候補者」についてはその存在すらも観客には知られることがない。逆に言えば、観客が「いたかもしれない出演候補者」に思いを馳せるとき、それは存在しない人物についての思考なのかもしれないのである。
 
このように、舞台上に指示がプロジェクションされなくなった状態で登場するのがカンペである。ある「出演者」がめくるカンペを別の「出演者」が読み上げるという場面があるのだが、この場面では観客の側を向いた「出演者」にカンペが向けられているため、観客はカンペに書かれている内容を見ることができない。観客と「出演者」、そしてカンペとがむすぶ関係はそのまま観客と「出演者」、そして「出演者」への手紙がむすぶ関係とパラレルである。「出演者」への指示を観客が直接知ることはできない。
 
だが実はこれは演劇の基本的な仕組みでもある。演劇はそのメディアとしての特質上、上演においては現実とフィクションとが常に二重写しの状態で存在しているのだ。舞台上のモノや人、生じる出来事を現実とフィクションとに切り分けることは極めて困難であり、観客は通常、意識することなくそれを二重写しのままに受容する。村川はフィクションを規定するものとしての「出演者」への指示を開示することでそこに亀裂を入れ、観客に対し両者の関係を問い直すように促す。舞台上で起きていることは予定されていた出来事なのかそれとも一種のハプニングなのか。文字として提示されている情報は事実なのかそれともフィクションなのか。自明だと思われていた現実とフィクションの境界は揺るぎはじめ、限りなく不確定なものとして存在しはじめるのであった。
 
最後に、10月9日13時の回の『エヴェレットラインズ』をめぐる一つの事実を紹介してこの文章を終わりにしよう。この回の上演では機材トラブルがあった。アフタートークの中で明らかにされたことだが、上演の途中で字幕が映らなくなってしまったというのである。上演の途中で字幕が映らなくなったのは用意された演出ではなく、現実的な機材トラブルであった(果たして本当にそうだったのか)。現実とフィクションの境界を揺るがす『エヴェレットラインズ』という作品にこれ以上ふさわしいエピソードはないだろう。
 
 
 
村川拓也作品については
および
フレームを揺らす(『羅生門』レビュー)
も参照していただければと思う。そには村川の(あるいはそれは筆者のものかもしれないが)一貫した興味を見出すことができるだろう。
 
なお、11/4(月・祝)の文学フリマで発売予定の批評同人誌ペネトラに、これまで発表した原稿に加筆修正を加え、さらにドキュメンタリー映画『沖へ』、ダンス作品『瓦礫』、そして東京で行なわれたワークショップに関する考察を盛り込んだ村川拓也論「ルビンの壷、あるいは演劇(仮)」が掲載予定。

useful_days 10/5:けのび『おかず石』

使えるプログラムWS系、けのび『おかず石』(http://kyoto-ex-useful.jp/archives/1007)。石をおかずに白米を食べるという未知の体験をしてきた。
 
河原で好みの石をいくつか拾い、それを煮沸消毒ののち、白米とともに食す。先に石だけ味わってもよし、白米とともに食べてもよし。驚くべきことに石にも白米との相性があり、白米が進む石(まさにおかず!)もあればそうでもない石もあり、石だけで口に含むといい感じなのに白米と一緒だと「おいしくない」石もある。自分としてはツルツルの石はそれだけ口に含む分にはいいのだが白米と一緒に食べるのはオススメできない。
 
初日の日記にも書いたが、ここには「何を味覚と見做すのか」という問いがある。人はなぜ味のない炭酸水を飲むようになったのか。「味覚」の一部としての舌への刺激。というところまではやる前からおおよそのあたりは付いていたのだけど、やってみて気づいたのは味わい方によって「味」が全然違うこと。舐める、しゃぶる、口の中で転がすなどなど。今後、食事のときに今までよりも食感に敏感になりそうである。
 
あと、口の中の異物感という意味では普段使ってる食器(箸、フォーク、スプーンなどなど)も「味覚」の一部を成しているなあ、と。そうすると「おかず」たる石と食器の違いはなんだろか。いやむしろこれは食器の進化に寄与する思想なのか。
 
好みの石を拾い、
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(実は微妙に違う場所だけど^_^;)
煮沸消毒し、
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それをおかずに、
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ゴハンを食べる!
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さまざな石を味わったうえで最終的にコースを構成する。
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左から前菜、メイン、デザート。
まずは四角くツルッとした小さめの石を口に咥えて石をおかずにする心の準備を。
次の梅干しの種のようなメインは不思議とゴハンが進みます。
口直しに平らな石を。絶妙なカーブがひんやり舌に心地いい。
 
そして自分の石コースを持ち帰る。
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ちなみに、好みの石を探すために裸足で川にジャブジャブと入りこんでいくわけですが、これはこれで足の裏で川底の石を味わっている感じで味わい深かったです(笑)
 
夜飲んでて気づいたのは氷を頬張っていても石を舐めている気がしてくる副作用…(その意味では俺の氷への味覚は石によって奪われ/乗っ取られたのであった!)