フランケンシュタインの視線——鳥公園『緑子の部屋』解説(冒頭部/全文はペネトラ7掲載)

 この文章は鳥公園『緑子の部屋』の解説として書かれている。ここで言う『緑子の部屋』は二〇一四年三月に鳥公園#9としてまずは大阪で、次いで東京で上演された、西尾佳織の作・演出による演劇作品である。二〇一五年十一月に書かれているこの文章は、筆者が二〇一四年三月に東京の3331 Arts Chiyodaで『緑子の部屋』の上演を見た際の記憶と、その上演のもととなった西尾による戯曲をもとに書かれている。このような説明をわざわざしているのは、『緑子の部屋』には複数のバージョンが存在しているからだ。西尾は二〇一五年四月から五月にかけて、小説版『緑子の部屋』をウェブマガジン「アパートメント」に掲載し、現在、それを冊子としてまとめたものが公演会場の物販で販売されている。一方、演劇版は同年八月に京都で鳥公園#11として再演され、十一月末から十二月にかけては東京でも上演される予定となっている。筆者は冊子となった小説版『緑子の部屋』に解説を寄せており、さらにこの後、再演版『緑子の部屋』東京公演では、十一月二八日(土)十九時からの回の公演後に批評家・佐々木敦とともに作品についてのアフタートークを行なうことになっている。つまり、この文章は文庫本などに付されているそれのように、(多くは)作品を鑑賞した後に読むためのテクストであると同時に、小説版『緑子の部屋』の解説と対をなすものとして書かれたテクストでもあり、さらには再演へ向けての(そしてそこで行なわれるアフタートークへ向けての)プレテクストでもあるということになる。

 一つの作品に複数のバージョンが存在し、それぞれに対して解説が書かれること、殊に演劇版については、対象となる作品が(上演としては)目の前に存在しない状態でその作品についての言葉が発せられることは、『緑子の部屋』の主題と直結している。『緑子の部屋』は、緑子という名の死んでしまった=不在の女の周囲にいた三人の人物、元恋人の大熊、元同級生の井尾、緑子の兄・佐竹、が緑子のことを語る形で展開していくからだ。『緑子の部屋』という作品は、不在の対象についての複数の証言によって構成されている。

 演劇版(以下、「演劇版」は東京初演版を指す)の冒頭には大熊による「大学の授業の発表みたいな感じ」の、ある絵についての説明の場面が置かれている。二人の女が描かれた絵がプロジェクターで壁面に映し出される。一方の女はその場から立ち去ろうとしていて、もう一方の女はそれを見ている。立ち去ろうとしている女は見られていることに気付いてもいないようで、大熊は「見られてる側が見てる側に気付いてないってことはよくある。と思う」が、絵をよく見てみると、見ている側の女は立ち去る女の方を見ているわけではなく、画面のこちら側、つまりは鑑賞者の方をジッと見ていたことに気付く。ここではひとまず、視線という主題が冒頭からはっきりと提示されているということを指摘しておこう。

 作品のラストにはまた別の絵画作品についての、今度は井尾によるレクチャーが置かれている。街を描いたこちらの絵にはどうやらコラージュの手法が取り入れられていて、「チョコレートの包み紙」や「どっか外国のメトロかトラムの乗車券」などなど、「全然街と関係ないものの上に描かれてい」る。絵の中央にはやはり女がいて、その女は「色んな雑誌のモデルたちの顔を切り刻んではまたくっつけて、一人の顔にコラージュして」「色んなパーツの寄せ集めで出来」た「フランケンシュタインみたい」だと井尾は言う(もちろんここで言うフランケンシュタインは博士ではなく怪物の方を指す)。こちらはよりあからさまに『緑子の部屋』という作品の「不在の対象を複数の証言で浮かび上がらせる」という構造を示していると言えるだろう(「フランケンシュタイン」という言葉は同時に、事故でバラバラになってしまった何人かの身体をつなぎ合わせることで生き返ったという緑子の兄のエピソードを思い出させもする)。

ドキュメンタリーと編集——村川拓也『終わり』(2015.4.ver.)

 村川拓也の新作ダンス作品『終わり』を観て何よりもまず驚いたのは、それがあまりにダンス然としたダンスだったことだ。クレジットがなければコンテンポラリーダンスの振付家による作品だと思って見ただろう。しかしそれは村川の、いわゆる「振付」能力の高さを示すものではない。『終わり』の個々のムーブメントは全て、出演した二人のダンサー、倉田翠と松尾恵美が今までに出演してきたダンス作品の振付からの引用であり、村川の仕事はそれらを編集し再構成することにあったからだ。

 『終わり』は村川の作品としては二〇一三年の『瓦礫』に続く二作目のダンス作品である。だが周知の通り村川はダンサーでも振付家でもなく、ドキュメンタリー映画や演劇をメインフィールドとして活動してきた作家だ。ダンス作品としての前作『瓦礫』でもドキュメンタリー映画や演劇で培ってきた手法が採用されており、作品は出演する三人のダンサーそれぞれが普段従事する仕事(定食屋の店員、映画館のスタッフ、フィットネスのインストラクター)の身ぶりによって構成されていた。*1もちろん、日常の身ぶりを元に振付を作ることはコンテンポラリーダンスにおいてはそれほど珍しいことではない。だが『瓦礫』のユニークさは仕事の身ぶりがほとんど丸ごと、つまり出勤して着替えるところから退勤するまでの一連の身ぶりがほぼそのままに提示されているように見える点にあった。四〇分という上演時間を考えればそんなことはあり得ず、それらが編集されたものであることは間違いないのだが、個々のダンサーの身ぶりに焦点をあてる限りにおいては、仕事上の身ぶりがそのまま舞台に上げられているという印象を与えるものだった。ところが、日常ではそれぞれ異なる場所に属するはずの個々の身ぶりが舞台という一つの場所に置かれることで、それらは呼応し合いトータルとしての「ダンス」となる。つまり、『瓦礫』という作品の面白さは(少なくともその一部は)同じムーブメントが日常の身ぶりとダンスの振付という二つの領域の間に置かれ、観客の知覚が両者の間で揺れ動くところにあったのである。このような知覚のあり方は『ツァイトゲーバー』に代表される村川の一連の演劇作品とも共通するものだ。

 『終わり』もまた、出演者がすでに習得しているムーブメントを元に構成されているという点では『瓦礫』と同じ方法論によって作られた作品だと言うことができる。だが、元となる身ぶりの性質の違いが二つの作品を決定的に異なるものとしている。すでにしてダンスである身ぶりを元に構成された『終わり』においてはおそらく、観客のほとんどは他の村川作品で感じるような知覚の揺れを感じることがないからだ。

 『終わり』が上演されたアトリエ劇研アソシエイトアーティスト・ショーケースの当日パンフレットには「出演者二人の記憶と身体に蓄積された記録を扱った作品」とある。ここから、『終わり』が過去に出演者たちが出演した作品からの引用によって構成された作品であることを類推することはそう難しくはない。当日パンフレットのコメントを読んでいなかったとしても、『終わり』の振付の中にはダンスと言うよりは準備運動めいた動きもあり、そこから作品の成り立ちを類推することも可能かもしれない。村川や出演者のこれまでの作品を知る者ならば類推はより容易だろう。だが、制作過程を知ることは(あるいは知らないことは)『終わり』という作品の見方にどのような影響を与えるのだろうか。

 なんの予備知識も持たない者が『終わり』という作品を観た場合、ほとんどはそれを普通に振付られたダンス作品として観るだろう。しかし、『終わり』が引用によって構成されていることを知る者にとってもそれは大して変わらないのではないか。引用元の作品を観たことがある観客は『終わり』の上演に過去作品の記憶を重ねて見るかもしれない。だがある作品に過去作品の「記憶」を見ることは他の作品でもよくあることだ(それはダンサーの記憶かもしれないし振付家の記憶かもしれない)。『終わり』がそれ自体独立して鑑賞するに足る強度を備えており、参照されるのもまたダンス作品の記憶である以上、作品が引用によって構成されているかを知っているか否か、また引用元となった作品を知っているか否かによる観客の態度の違いは、作品全体の枠組みを揺らすほどの違いとはなり得ないだろう。誰が観ても作品が引用によって構成されていることが明らかであり、しかもそのことが作品の見方に大きな影響を与えていた『瓦礫』との違いは明らかだ。

 ここで再び『終わり』に寄せられた村川の言葉を引用してみよう。*2

200m先にいる人を想定して、その人に向かってセリフを届けようとすると体の状態が変わって声も大きくなるから良い、ということをよく芝居を作る時に耳にするし、自分もそうゆうまずシチュエーションを与えて、その影響で自ずと体や精神の状態が変わるみたいなことを使ったりしていますが、今回はそうじゃない。逆にする。まず体や精神の状態を先に作って、例えばおなかに空気を沢山入れて大きな声を出す。で、そんな大きな声を出すという事はつまり200m先に人がいるのだな、ってことになる。そういう順番で物事が決まっていくことをやってみたいです。何かをなくしたから探しているんじゃなくて、探していること自体が独立してまず行われて、ということは何かをなくしているんですね、という事になる道筋。シチュエーションが先にあって体が変化するのはイージーな事で、まず体が変わってシチュエーションが変化する事をハードだと思っています。

 ここではほとんど一つの演劇の方法論とでも言うべき内容が語られている。「まず体が変わってシチュエーションが変化する事」。平田オリザの提唱した「現代口語演劇」の一つの重要なポイントは、演技へのアプローチを(たとえばメソッド演技に代表されるような)内面的なものから外面的なものへと切り替えた点にあった。言い換えればそれは反応の重視であり、関係の重視だ。入力に対してどのような出力が返されるのかさえ整合しているのであれば、入力と出力の間にあるブラックボックスたる俳優の内面は問題とされない。村川の言葉は一見したところ内面重視への逆行とも読めるのだが、それはむしろ、出力と入力の逆転なのだ。もちろん出力と入力とが逆転することなど決してない。だが、入力に対する出力が整合していることが「自然な演技である」と判断する回路が観客に備わっているのであれば、その逆、つまりは出力から入力を措定する/させることも可能なのではないか、というのが村川の読みであり試みなのではないだろうか。実際のところ、演劇の観客は多かれ少なかれ常に出力から入力を措定しながら上演に立ち会っている。抽象的な舞台美術で上演される芝居を考えてみればそのことは明らかだろう。そこがどのような空間であるのかは俳優の立ち振る舞い=出力によって逆算され、観客に了解されるのだ。

 出力から入力へという回路の逆流は村川の手法とも密接に関連している。舞台に上げられた言葉や身ぶりが出演者への取材に基づいたドキュメンタリーだからこそ、措定すべき「正しい入力」=シチュエーション、それが本来置かれていた文脈が明確に想定できるのだ。『言葉』(二〇一二)について村川は「「過去」に書かれた言葉の、その時の情景をそのままダイレクトに舞台上で再生できないか」「「過去」に書かれた言葉の、その時の「現在」をどうやったら今の「現在」で再生できるかといったことを探求したい」と述べていた。ここには『終わり』にも通じる関心が読み取れる。過去をそのまま舞台に乗せることが出来ない舞台芸術の不可能性への挑戦。『言葉』はそのタイトル通り「言葉」という抽象的な概念を相手取っており、ゆえにそれは困難な挑戦としてあった。『瓦礫』『終わり』の二作品は身体という具体物をその対象とすることで、『言葉』でのアプローチの言わば「やり直し」を図ったものだと見ることもできるだろう。仕事上の具体的な身ぶりを扱った『瓦礫』からダンスという抽象的な身ぶりを扱った『終わり』へ。「過去」を舞台という「現在」に乗せるための試行錯誤は続いている。

 しかしすでに述べたように、『終わり』の観客が舞台上に提示された出力から本来の「入力」を知覚することはほとんど不可能である。少なくとも『終わり』という作品においては出力と入力の逆転という試みは作品を作る側の姿勢、上演に臨む態度の問題に留まり、観客を射程に捉えるものにはなり得ていなかったと言わざるを得ない。では実際のところ上演はどのように見えていたのか。

 作品冒頭、舞台中央奥の椅子に腰掛けたダンサーはおもむろに自らの頬を張る。ダンサーは無表情だが、「バシン」という音からかなりの強さでその動作が行なわれていることがわかる。間隔を空けつつ、張り手だけが執拗に繰り返される。十回を数えた頃、ようやく二人目のダンサーが登場するが、その後も張り手は続く。冒頭に置かれたこのシーンによって観客が感知するのは痛みであり、そこに肉体があるという生々しさだ。つまり、作品は記憶=過去よりもむしろ肉体=現在を殊更に強調する形ではじまっているのである。

 しかしここから先しばらくの間、暴力的な振付は姿を消し、ダンス然としたダンスが続くことになる。このあたりのシークエンスにいくつかの動作が繰り返し登場することから、それらの振付がすでにあった動作を編集することで構成されたものなのではないかという類推も可能かもしれない。およそ上演時間も後半に入ったと思われる頃、それまでバラバラに踊っていた二人はデュオで踊りはじめる。ここで筆者が考えたのは、そこでは身体の記憶の移植とでも言うべきことが試みられているのではないかということだ。つまり、一方のダンサーの身体の記憶としての振付をもう一方のダンサーがコピーすることで、身体の記憶の共有が図られているのではないかという推測である。頬を張る動作が二人羽織のような形で再現されたシークエンスがあったこともこの推測を補強するように思われた。だが、後に調べてみれば二人のダンサーは過去にいくつかの作品で共演しており、*3そうである以上、デュオパートがもともとデュオとして振り付けられたものである可能性は高いだろう(もちろんそうでない可能性も残されている)。

 だが考えてみれば、たとえデュオパートが身体の記憶の移植を意図したものではなかったとしても、他のパートでそれが行なわれていなかったと断言することはできないのだ。繰り返すが、そこで踊られているのがダンサー自身の記憶としての過去作品の振付であるということを知ることができるのは、作り手を除けば過去に該当する作品を見た観客に限られている。ゆえに、ダンサー自身のものでない記憶=振付をダンサーが踊ったとしても、それがダンサー自身の記憶でないと観客が知ることは不可能である。しかも、作品が稽古を経て上演されるものである以上、ダンサー自身の記憶に由来しない振付が含まれていたとしても、『終わり』が上演される時点ではそれはすでにダンサー自身の身体に記憶として取り込まれてしまっていることになる。ダンサーの記憶、振付の起源は観客に対して何重にも隠蔽されている。

 デュオパートと前後して再び暴力的な振付が現われる。横たわるダンサーの一人の腹をもう一方のダンサーが蹴るのだ。しかも相当に強く。この動作もまた執拗に行なわれる。舞台上に提示されるダンスを予めプログラムされたものとして見ていた観客(筆者のように『終わり』の振付を記憶の再生として見ていた観客だけでなく、単なるダンスとしてそれを見る観客もまた、予め用意された振付としてそれを見る点において変わりはない)は、ここで再び舞台上の身体の生々しさ=現在と直面することになる。もちろんほとんどのダンスでは舞台上に常に身体が現前しているわけだが、暴力とそれによる痛みはその生々しさをより一層曝け出すことになる(ゆえにコンテンポラリー・ダンスの振付にはしばしば暴力的な動作が導入される)。そこでは再生される振付=過去という枠組みを肉体=現在の生々しさがほとんど食い破ってしまっている。

 ラストシーンもまた異なる意味で印象的なものだった。再び舞台奥の椅子に腰掛けたダンサーにもう一方のダンサーが正面から歩み寄る。握手を求めるかのように手を差し出しかけた(ように見えた)ところで暗転。暴力を振るい振るわれる関係から一転して和解が暗示されているように見えるラストシーン。しかしそれはあまりに物語的過ぎやしないだろうか? いや、しかしこれはあくまで筆者が読み取った「物語」に過ぎない。結末は開かれているし、そもそも最後の動作が手を差し出す動作だったのか、それとも歩行動作の一部としての手の動きだったのかも実のところ判然としない。ただ筆者にはそのように見えた。

 編集はコンテクストを構成する。『瓦礫』においても、本来はバラバラの仕事の身ぶりであるはずのものが呼応して見える瞬間が用意されていた。複数の出演候補者に手紙で出演日時と指示を送りつけ、実際に劇場に来るかどうかは出演候補者の判断に委ねるという『エヴェレットゴーストラインズ』(二〇一四)においても、個々の出演(候補)者の行動の配置、つまりは編集が作品の構成上重要な働きを担っていたことは明らかだ。個々の出演候補者の判断に作品の成否が委ねられていたわけではなく、どちらに転んでも何らかのコンテクストを構成するような編集こそが作品の完成度を支えていたのである。

 しかし作品の完成度の高さは、実のところ諸刃の剣だ。予め準備された編集の巧さがあまりに目につけば、上演の場で立ち上がるはずの生々しさ、ものごとが今ここで生じているという感覚が減じてしまうからだ。『終わり』のアフタートークでも、本番直前のダメ出しで、それまできっちり決めていたいくつかのポイントを外すように指示したという話が出ていた。コンテクストを構成するための緊密な構造と現前の生々しさを失わないための余白。村川が優れているのはそのバランス感覚なのだ。

 村川の作品は一貫してドキュメンタリーと編集の技法によって作られている。作品はいずれも何らかの形で出演者自身のドキュメンタリーとしてあり、編集によって準備されたものが立ち上がるための場として上演がある。村川作品の上演が演劇そのもののドキュメンタリーとして機能していることはすでにいくつかの論考で指摘した通りだ。本稿で提出したのは『終わり』に限らず、村川作品の多くに共通する論点であり、その探求は今も続いている。『エヴェレットゴーストラインズ』は今夏、四つの異なるバージョンによる連続上演が予定されているし、今回の『終わり』もフルスケールの作品へと発展させるつもりがあるとのことだった。村川は今年の九月に韓国・光州にオープンするAsian Arts Theatreでのレジデンシーも決定している。ドキュメンタリーと編集の技法はこの先どのように研ぎすまされていくのだろうか。

*ペネトラ6掲載原稿

*1:瓦礫』についてはペネトラ3掲載の「ルビンの壷、あるいは演劇——村川拓也論」を参照。

*2:https://www.facebook.com/events/846921355364857/(二〇一五年四月十五日確認)

*3:Whenever Wherever Festival 2011『私の今日は彼女の今日より二時間ほど長い』(演出:倉田翠、二〇一一)、京極朋彦ダンス企画『いったりきたり』(振付・演出:京極朋彦、二〇一三)など。少し検索しただけなので他にもあるかもしれないが差し当たって共演の本数は問題ではない。

『蒲団と達磨』とサンプル

岩松了の戯曲『蒲団と達磨』には人の出入りが多い。舞台となる和室にはその主である夫婦とその家族だけでなく、彼らの友人知人、果ては赤の他人であるバスの運転手や家政婦の恋人までもが登場する。蒲団が敷かれ、寝室として使われている和室にだ。ここに岩松と同じく九〇年代の「静かな演劇」ブームを担った平田オリザの作品の相違を見ることも出来るだろう。平田の作品の多くはそもそも人の出入りが多いパブリックスペースに舞台が設定されている。たとえば『東京ノート』の舞台は美術館のロビーだ。一方、『蒲団と達磨』の舞台は夫婦の寝室という極めて私的な空間であるにも関わらず人の出入りが多く、それがある種の気持ち悪さを生む。それは日本家屋という、もともと内外の境がはっきりしない場所のもたらす必然だ。夫婦の寝室はプライベートな性質を持ちつつ、空間としては開かれている。そのギャップが生じる軋みこそが『蒲団と達磨』のドラマツルギーなのだ。

サンプル・松井作品の多くは閉じられた空間で煮詰まっていく人間関係を描く。登場人物は比較的早い段階で出揃い、空間的な出入りはあっても物語から早々に退場することはない。一方、『蒲団と達磨』では舞台に最初からいたバスの運転手は作品半ばで姿を消し、夫の飲み友達は後半になってようやく登場する。妻の元夫はさらにその後、家政婦の恋人に至っては最後の最後に廊下を通りがかるだけだ。通り過ぎる人々。しかし部屋の中心には不動の万年床があり、その下には欲望が押し込められている。

日本家屋の「ゆるさ」は村社会の閉鎖性と裏腹なものとしてあった。閉じられた村だからこそ開かれる家。しかし現在、しばしばこれとは逆の状況が生じている。閉じられた部屋もまたその内部から容易に世界へと通じてしまうのだ。メルトダウン。密閉されたサンプルの中身が外界に触れる日も近い(かもしれない)。

SPAC『ハムレット』

登場人物を削り(ギルデンスターンもローゼンクランツも墓堀も登場しない)110分とコンパクトな宮城聰演出『ハムレット』。

韻を踏んだ、というかほぼダジャレのように連なる台詞でテンポよく進む喜劇調の前半は、それなりに楽しく見つつもあまり乗れず、しかしいつしかシリアスに転調しガートルードとの対話のあたりからはグッと引き込まれ……というような感想はこの作品のラストを見た瞬間にぶっ飛ぶことになる。

ラストで登場するフォーティンブラスは今作ではなんとマッカーサーに擬えられている。台詞は英語で発せられ、バックにはジャズが鳴り響く。フォーティンブラスの姿は見えないが、床に伸びるパイプを加え帽子を被った人物の影が、彼がマッカーサーであることを何よりも雄弁に語っている。「当然国民大多数の意もそれに従うわけです」。ホレーシオの最後の台詞の後には大量のチョコレートが舞台に降り注ぐ……。

ラストに至るまでに伏線があるわけでもなく、唐突な幕切れはあまりに不可解で(いや、もちろんそういう「読み」だというのは即座に了解できるのだけど)、正直に言って、作品全体のバランスを大きく損ねる余計な演出だと思った。

だが、釈然としないまま帰りのバスで考えたのは、バランスが悪くて何が問題なのか、ということだ。ここで言うバランスの悪さというのはラストとそこに至るまでの作品の結びつきのことを指すのだが、バランスが悪いと言っても全く意味が分からないということではなくて(敵国からやってくるフォーティンブラスをマッカーサーに擬えるのはアイディアとしてはむしろわかりやすい)、ようするに伏線がなく唐突に感じられたのが自分は「気に食わなかった」のである。しかし作品全体としての結びつきの緊密さは果たして必要なものか?

むしろ、幕切れがあまりに唐突だったがゆえに、作品を観終わった直後から自分の中では作品の振り返りと検討が開始されることになったのではないか?あのラストに結びつくような演出はなかったか。『ハムレット』のどの要素が第二次世界大戦直後の日本の状況と結びつき、それを重ねてみせることはどのような意味を持つのか。

ラストと他の部分との結びつきが緊密であったなら、このような検討は行なわれなかったのではないか。と書いてはみたものの、おそらくそれはそれで自分なりの検討はしたことだろう。だが明確に異なるだろうと思われるのは、その場合、提示された解釈の妥当性に対する検討が主になっただろうということだ。

つまり言いたいのは、ラストの唐突さが自分を『ハムレット』という作品の可能性の検討へと向かわせているのであって(フォーティンブラス=マッカーサーという「読み」を『ハムレット』という作品全体へと敷衍しようとすると、当然のことながら全てのピースがピタリと嵌まるわけではなく、だからこそ思考は広がっていく)、だとすれば、バランスが悪いことは必ずしも悪いことではないのではないか?

しかしフォーティンブラスがマッカーサーであるとは一体全体どういう意味を持つのか?宮城は当日パンフレットに次のように書いている。

この演出は、どうしてハムレットやその国民が、新しい統治者として、みずから進んで、敵国の若き王を迎えるのか?という疑問について考えているうちに生まれました。

 ちょうど七十年前の、第二次世界大戦直後の日本人を描いたジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて(Embracing Defeat)』が日本で出版されたとき、この「抱きしめて(embrace)」という語の用い方が絶妙であると賞賛されたものですが、ダワーはもしかしたら『ハムレット』を踏まえてこのタイトルをつけたのかもしれない、というところからの連想です。(『ハムレット』のエンディングでは、突然にこの国を統治することになった敵国の青年フォーティンブラスが、ちょうど敗戦直後の日本人と逆の立場で、"with sorrow I embrace my future"(悲しみに沈みながらも幸運を抱きしめる)と語ります。)

 「本当の父」などいない、と知ってしまった日本人は、あのときどうしたか? ひとまず、本当の父の代理を引き受けてくれる相手をみつけたかったのではないか?

 七十年前中学生だった僕自身の父親や伯父さんのあのころに思いを巡らしながら、そんなことを考えています。

 宮城演出の『ハムレット』には父王ハムレットは姿を見せない。父王の台詞はハムレットを演じる武石守正が口にし、父王はただ床に伸びる影として現われるのみだ。ラストに至る伏線がない、と書いたが、唯一、この影だけはラストとのつながりを担保している。父親は常に影としてのみある。自ら抱く父親の影に突き動かされるハムレットは装うまでもなくすでにして狂気であり、その狂気が敵国の若き王に自らの国を譲り渡す事態を招く。父の亡霊に取り憑かれた狂気。それは第二次世界大戦直後というよりもむしろ今の日本の姿ではないか……?

死を前にハムレットとレアティーズ、ハムレットとフォーティンブラスは互いに許し合う。だがその後に降り注ぐチョコレートはあまりに感じが悪くはないだろうか。"Give me chocolate!"の言葉を待たずして暴力的に降り注ぐチョコレート。現代の争いはチョコレートは与えても許しを与えようとはしない。

 

間瀬元朗『デモクラティア』1・2

 民意、あるいは世論とはいったい何だろうか。それは個々人の意見の集積でありながら、そうであるがゆえにどの個人の意見とも完全には一致しない。だがもし民意を体現する「個人」が存在したら?それは「人間よりも人間的に正しい」「究極の“ニンゲン”」なのではないか?

 物語は二人の男が出会うことで動き出す。情報通信工学専攻の前沢とロボット工学専攻の井熊。前沢は特殊な多数決プログラムを開発していた。単に最多数の案を採用するのではなく、提出された案の中から上位のもの(=多数意見)を三つと、逆に一人しか提出しなかった案(=単一意見)の中で提出の早かったものを二つの合計五つを並べ、その中から最終的に採用する案を多数決で決定するというプログラムだ。単一意見の中には「常識や前例にとらわれずに出てくる考え」や「“ひらめき”」があり、それらに採用の可能性を残すことで「より重層的な“多数決”が効率的に進められる」のだと言う。飲み会で前沢の話を聞いた井熊は、そのプログラムを自らの研究室で開発している人型=ヒューマノイドに搭載することを提案する。「不特定多数の人間が、ネットを介して総動員した無尽蔵の“知識”と“経験”と“モラル”」「それらをもとに“多数決”で最適な行動だけが選び抜かれ、そのとおりに動くヒトガタ」、それは「いつの日かその社会の中で、誰もが規範とする指導者的立場にさえのし上がってしまうかもしれない」という井熊の語りに魅せられた前沢は「究極の“ニンゲン”」創りに一歩を踏み出す。

 徳永舞と名付けられたヒトガタはデモクラティアというアプリを通じて3000人の参加者によってその行動を決定される。2巻までの1stシーズンで描かれるのは、デモクラティアが立ち上がり、参加者たちが舞の操作方法を学習し、そして外の世界へと出て行く、いわば舞と外の世界とのファーストコンタクトの顛末だ。参加者たちはデモクラティアに習熟するにつれ、徐々に自主的に行動するようになり、彼らの態度の変化はそのまま舞の「成長」としてアウトプットされる。そして舞は一人の青年・瀬野と出会う。

 貯め込んだ鬱屈を掲示板への書き込みで晴らそうとするオタクで派遣社員で「負け犬」の男・瀬野。現実がうまくいかない瀬野にとって、自分が立てたスレへの書き込みとその反響だけが自分の存在を保証してくれるものであった。だが、「この世は、リアルカーストだな」「勝ち組は全員処刑しろ」という彼の書き込みはネット上ではよくある類のものであり、それは個人の存在の保証にはなり得ない。デモクラティアの参加者たちにとっても、瀬野はネットの向こうにいる顔を持たない人物に過ぎなかっただろう。舞を通しての交流がなかったならば。

 舞と瀬野との交流は、デモクラティアの参加者たちが見知らぬ他人への想像力を獲得、いや、再起動させていくプロセスとしてある。デモクラティア上では舞の居場所や周辺情報を特定されないための方策として、固有名詞は現実にはあり得ない名前へと変換され、舞の目に映る視覚情報もまた画像処理が施されている。参加者同士はハンドルネームで交流する。顔は奪われているのだ。だが、顔を持たない人間など存在しない。デモクラティアの参加者たちは、舞との交流を介して瀬野という一人の人間のことを真剣に考えるようになっていく。

 顔を(再)獲得していくのはデモクラティア参加者にとっての瀬野だけではない。「民意の可視化」というアイディアはたとえば東浩紀の「一般意志2.0」を思わせるが、『デモクラティア』は民意という「声なき声」に舞という具体的な姿形=顔を与えることによって優れたドラマを生み出した。舞という実体を持つ「民意」は他の人間と接触し、直接に影響を与える。それは翻ってデモクラティアの参加者たちにも影響を与え、彼らを変えていくことになる。単一意見の採用というシステムもデモクラティアの参加者と舞の行動、そしてそれが引き起こす結果との結びつきを強めている。「民意」は、それがいかに不本意なものであったとしても、個人と、いや、私たちと無関係ではあり得ない。私たちにその実感はなくとも、何らかの具体的な結果をもたらし、誰かに直接的な影響を与えている。舞は私たちが手放してしまった民主主義の責任を実感するためのインターフェイスだ。

 2巻のラストで舞はある事件を起こし、より広い世界へと踏み出す。これから問われることになるのはおそらく、「民意」の罪だ。「民意」の罪は誰が引き受け、誰が罰を受けるのか。今の日本でこの問いはあまりに重い。

『インターステラー』

吹き荒れる砂嵐と疫病により不毛の地となりつつある地球。世界は深刻な食料危機に見舞われ、人類はゆっくりと、だが着実に滅亡への道を歩んでいた。かつてパイロット兼エンジニアだったクーパーは現在、トウモロコシを栽培している。今や食料問題は全てに優先するのだ。パイロットやエンジニアなどという職業は必要とされていない。空への欲求を抑えつつ、義父・娘・息子と暮らすクーパー。だがある日、娘であるマーフの部屋で不思議な現象が起きはじめる。ひとりでに棚から落ちる本や小物、そして部屋に吹き込んだ砂嵐が床に描いた不自然な筋。床に描かれた模様がバイナリ信号であることに気づいたクーパーはそれが示す場所を訪れる。そこで待ち受けていたのは極秘裏に建設されたNASAの基地であり、人類の新天地となる惑星を求める宇宙探索プロジェクトだった。宇宙船のパイロットとなることを要請されたクーパーは悩みながらもそれを引き受け、家族を残し宇宙へと飛び立っていく。

この映画で繰り返し描かれるのは時間の無慈悲さであり、過去は変えられないという厳然たる事実だ。いつ戻れるとも知れぬ宇宙探索への出発前、クーパーはマーフに「お前が今の父さんの年齢になるまでには帰ってくる」と約束するが、重力と移動の速度によって影響を受ける時間の流れは父と娘を決定的に隔ててしまう。水の惑星での半日にも満たぬ探索の間に、地球では20年もの時間が経過してしまっていたのだ。一方通行のムービーメッセージに映る、自分の年齢に追いついてしまったマーフ。約束は果たされなかった。物語の後半、クーパーは超人間的な存在に助けられる形で「5次元空間」に入り込み、あのときのマーフの部屋に至る。そこでクーパーが悟るのも「彼らは過去を変えさせようとしたんじゃない」ということだった。

さて、ならば私たちはどうするべきか?人類に活路を開くことになるクーパーの娘の名前がマーフという名前であることは示唆的だ。「マーフィーの法則」に引っ掛けて名前をからかわれたマーフは「どうしてこんな名前にしたのか」とクーパーに問う。それに対するクーパーの答はこうだ。「マーフィーの法則は何か悪いことが起きるってことじゃない。起き得ることは起きるってことだ。(Murphy’s law doesn’t mean something bad will happen. It means whatever can happen, will happen.)」

クーパーをNASAへと運んだメッセージが未来の自身からのメッセージだったように、土星近くに突如として出現したワームホールや「5次元空間」もまた未来の人類によるものだとクーパーは言う。「私たち」はつながっている。過去の「私」の先に現在の「私」があり、現在の「私」の先に未来の「私」がある。過去は変えられない。だが未来は未確定だ。「私」たちは現在を生きる他ない。可能性を絶やさぬために。

阿部和重 伊坂幸太郎『キャプテンサンダーボルト』

 物語はあるバーからはじまる。中年男に口説かれる若い女。彼女は男から情報を引き出そうとしている。東京大空襲の夜、東北は蔵王に墜落した一機のB29。ニックネームはチェリー・ザ・ホリゾンタル・キャット。地平線の猫、チェリー。B29はなぜ東北にいたのか。彼女の目的は何なのか。魅力的な謎を提示し時間は一年後へ飛ぶ。

 阿部和重伊坂幸太郎による「完全合作」(交互に1章ずつ書きながら互いの原稿にもかなり手を入れたとのこと)は超弩級のエンターテイメント大作となった。主人公は(作者と同じく)二人の男。相葉時之と井ノ原悠はかつて野球のチームメイトで「ここぞというときに不思議な力を発揮する、唯一無二のふたり組」だった。ある事件をきっかけに関係を絶っていた二人だが、違法なアルバイトのトラブルで相葉が逃げ込んだ先の映画館(のトイレ)でバッタリと再会してしまう。そして冒険がはじまる。

 公開目前でお蔵入りしたヒーロー映画『鳴神戦隊サンダーボルト』、蔵王周辺で発生する謎の伝染病・村上病、墜落したB29、そして宝の地図(?)の入ったスマートフォンとそれを追う銀髪の怪人(!)。ハリウッドばりの(しかし舞台は仙台と山形)道具立てでテンポよく進む物語はしかし、それなりにビターでシビアだ。「野球には逆転があるが、俺たちの生きている社会にはなかなかない」。相葉も井ノ原も人生の苦境に立たされている。だがそれでも生きていかなければならないし、何よりゲームセットがいつ訪れるかは誰にもわからないのだ。「走れ走れ、もっと走れ、力を抜くな。それは自分を叱咤する自らの声であり、同時に、少年野球の時のスパルタコーチの声だ。」相葉は、井ノ原は蔵王へと走る。

 過去は変えることができない。だが捉え方を変えることはできる。張り巡らせられた伏線=過去が回収されるとき、二人は人生の新たな一歩を踏み出すことになるだろう。その瞬間は走り続けたその先にしか訪れない。